唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ウルトラスラッシュ・ドット・ダッシュ。

「八つ裂き光輪」という最高にいかしたネーミングにはかなわないけれど。


・『レディ・プレイヤーワン』も『インフィニティ・ウォー』もとても面白かったので更新。2つとも何を言ってもネタバレになってしまうので語りづらいのが難点ではある。


・『東京情報』が終わったことについて、唐沢俊一氏が「すぐ似たようなのが始まる」と言ってたので、『週刊新潮』の最新号もチェックしてみたら、矢部太郎『大家さんと僕』の連載がスタートしていた。…「東京情報」とは似ても似つかないからまた別の連載なのだろうか。ともあれ、『大家さんと僕』はオススメ。



・読むと太閤おろしがやりたくなる『棋翁戦てんまつ記』集英社文庫)P.353にある船戸与一のプロフィール。

1994年山口県生まれ。2015年逝去。79年『非合法員』でデビュー。85年『山猫の夜』で吉川英治文学新人賞を、92年『砂のクロニクル』で山本周五郎賞、2000年『虹の谷の五月』で直木賞など受賞歴多数。ほかに『猛き箱舟』『蝦夷地別件』など。


 へえっ、船戸与一って俺より年下なんだ。21歳で亡くなるなんてまさしく夭折で、まことに惜しいな。でも、1994年生まれなのに1979年にマイナス15歳でデビューするなんてさすが直木賞作家。それにデビュー前に『ゴルゴ13』の脚本を書いてたんじゃなかったっけ?
 …ボケるのも疲れたので間違いを指摘しておくと、船戸与一1944年生まれ。半世紀も若返らせてしまったわけだ。船戸といえば、高校生の頃に読んだ『山猫の夏』はとても面白くて分厚い上下巻の文庫本をあっという間に読んでしまった覚えが…。そう! 『山猫の夏』だよ! 『山猫の夜』じゃなくて。なんだってこんな間違いが…。
 なお、『棋翁戦てんまつ記』に登場する他の作家のプロフィールにはこのような明確な間違いはないのだが、よりによって『棋翁戦てんまつ記』に登場する作家で船戸与一ひとりだけ亡くなっている、というのも間が悪いというかなんというか。鼻腔を濡らすヘモグロビンの臭いに、おれはぐすっと笑った(船戸の小説みたいに書いたつもり)。


・ついでに唐沢検証と関係なく見つけた間違いを紹介。山本博文『大江戸御家相続』朝日新書)P.3より。

 武家政権の時代に入っても、鎌倉幕府を創設した源氏は、頼朝の子で二代将軍の頼家が祖父の北条時房によって廃され、暗殺されます

 源頼家の祖父は鎌倉幕府初代執権である北条時政時房は時政の子で初代連署。歴史好きの小学生でも気づくミスなので「いきなりこれかい」と思っていると、すぐ後のP.5に「十二代家斉」とあったのでひっくり返った。検証を休んでいてもこういうのを見つけちゃうんだから我ながら業が深い。


・これもついでに書いておくか。『週刊文春』2016年4月7日号掲載の小林信彦『本音を申せば』第888回から。同誌P.59より。

 ぼくが若いころ、いろいろ物を教わった小早川保好という方の生家は、沖縄の有名な料亭なのだが、ぼくはずっと名前を<こばやかわ>と読むものと思っていた。
 もう十年以上まえになるのだろうか、小早川さんの家に行くときに、電話番号が何かの件で<こはやがわ>と読むことを知ったのである。

 妙な間違いをするなあ、と当時も思ったのだが、これは古波蔵保好のことだろう。小林氏の著書を読んでいれば気づく間違いのはずだし、そもそも「小早川」という苗字は沖縄にはいない。「小橋川」ならいる(「こばしがわ」と読む)。小林氏はその後脳梗塞で倒れてしまうのだが、この頃から体調がすぐれなかったのかもしれない。余談だが、自分の父親もこの間違いに気づいて、『週刊文春』の編集部に連絡したと後で聞いた(以前も書いたが当方は親子2代で小林氏のファンである)。逆文春砲だ。


・乱読しているうちに見つけた面白ミス発表のコーナーはひとまず終えることにして、当ブログの本分である唐沢検証に戻る。だいぶ前の話になるが、北村紗衣武蔵大学准教授がトンデモ本の世界S』太田出版)に収録された唐沢俊一氏のコンスタンス・ペンリー『NASA/トレック』(工作舎)の紹介文をmessyで批判していた(サイトにアップされたのは2016年5月10日)。該当部分を紹介しておく。

 しかしながら、この本はいささか不幸な受け取り方をされてしまったとも思います。というのも、と学会『トンデモ本の世界S』(太田出版、2004)でトンデモ本扱いされてしまったからです。唐沢俊一が「コンスタンス・ペンリー『NASA/トレック』――ホモポルノこそ女性解放運動の理想型?」(pp. 168 − 175)という紹介文を書いていますが、あまりこの本を評価していない私でもどうかと思う内容でした。本の内容に対する批判もあるのですが、「敢えてペンリーが本書の中で全く触れていないのが、大多数のスラッシャーたちが、現実世界では異性関係に恵まれているとはとても言えないことである」(p. 172、強調は原著通り)とか、「[スラッシャーたちは]一言で言えば“イタい”外見の女性たちばかり」(p. 172)とか、どうもこの記事は「スラッシュはブスの僻み」という思い込みに貫かれているようです。どちらがトンデモかと思うような文章ですが、まあこんなライターに目をつけられてしまった本書が不幸だったのでしょう。せっかく日本語に訳された英語圏のスラッシュ評論がこんなところでしか注目されなかったのは残念です。

 なかなか手厳しいが、唐沢氏の文章も少し長めに引用しておこう。『トンデモ本の世界S』P.173より。

 ついでに言うと、敢えてペンリーが本書の中で全く触れていないのが、大多数のスラッシャーたちが、現実世界では異性関係に恵まれているとはとても言えないことである。本書の三年後に刊行された、アメリカの悪趣味カルチャー紹介本『アポカリプス・カルチャー』(中略)には、このスラッシャーたちの写真が掲載されているが、一言で言えば“イタい”外見の女性たちばかりだ。もちろん、日本でもそうであるように、いまや底辺の拡大したスラッシュの世界には、モデル級の美人や男性顔負けのキャリアウーマンも存在するだろうが、いまだ主流はそういった女性たちであることは動かし難い事実なのである。スラッシャー文化によって生み出されたスター・トレックポルノを(中略)最大級に持ち上げるのは自由だが、従来からこの分野に対し下されている、“男性経験に恵まれないために、男女のセックスにジェラシーを感じている女性たちによる、女性排除のセックス物語”とする意見を一瞥だにしないのは、やはり片手落ちなことだろう。

 一応説明しておくと、「スラッシャー」というのはBL好きの女性のことである。BLファンへの偏見を臆面もなく垂れ流しているので北村氏が怒るのも当然なのだが、トンデモ本」を嗤うはずの本にトンデモな文章が載ってしまっていることにまず呆れる。しかし、自分が「あのなあ」と言いたくなるのは、唐沢氏のこの論法が罷り通るのなら、「と学会」ファンの容姿も当然皮肉られてしかるべきだからだ。女性との経験に恵まれないイタい外見の男性が「トンデモ」を愛好している、とか言われたらどんな気持ちになるよ? と言いたくなる。「日本トンデモ本大賞」に何度も足を運んでいる自分などはいたたまれない気分でいっぱいになる。
 ただ、唐沢氏が『NASA/トレック』の紹介文で一番主張したかったのは実はそこではない。同書P.172〜173およびP.174より。

大衆文化を学術的に論じようとする著者の方法論を一般にはカルチュラル・スタディーズと称するが、その意義は大いに認めながらも、その分野の人に、往々にしてメザシを取り上げて鯛と表現してしまうような傾きがあるのは困ったことだと思う。メザシを褒めるならそのメザシとしての美味を認めるべきであり、それを鯛の味がすると言い張るのは不正確なばかりでなく、かえってメザシを貶めることにもなりかねないと思うのだが。

 ……もともとそのような“広い現実世界への働きかけ”を拒否したところから生まれた文化を、無理矢理に陽のあたるところへ引き出そうとする行為の迷惑さを考慮しないあたりに、全てのアカデミズムに程度の差こそあれ見受けられる傲慢さ(それこそまさに男性原理社会的な押しつけの傲慢さではないか!)を見るのは私だけだろうか。

 はい、おなじみのアカデミズム批判ですね。オタク文化を大学の先生が取り上げるのが気に食わないといういつものアレ。でも、この手の理屈に全くもって説得力を感じないのは、アカデミズムを批判している唐沢氏が「アカデミズムまがい」の文章をしばしば書いているからだ(過去記事)。たとえば、『ゴジラ』を御霊信仰と結びつけた所論などは、唐沢氏に倣って言えば、「メザシ」を「鯛」と表現するようなものだろう(過去記事)。しかも、唐沢氏の場合はその内容も間違っているのだから、「メザシ」を「鯛」みたいに扱おうとして腐らせてしまったようなものだろう。
 それから、「BLを陽のあたるところへ引き出すのはけしからん」というのも、唐沢氏が「悪趣味」や「鬼畜」を取り上げた時にそう思っていた人もいたかも知れなかろう、と思う。どのみち、唐沢氏に言えた義理はないように思う。
 さて、唐沢氏は北村氏の文章を読んだようで、次のようにツイート(その1その2)している。

ある評論を読んでいて、どうも自分の好きな対象を過大評価で持ち上げてアカデミズムの研究対象に仕立て上げてるよなあこれ、と違和感覚えながら読んでたら、いきなり私の名前が出てきて、その分野について私の書いた文章が徹底的にdisられていたww(続

承前)やはりそういう考えの連中、じゃないセンセイ方wとは合わない、ということだな。「メザシはいくらつついてもメザシ」で、メザシを鯛と言いはる論に賛成はできない(メザシはメザシとしてその旨さを味わうべきと思ってる)のである。


 ああ、話をはぐらかしてますね。北村氏が一番問題にしているのは、唐沢氏がBL好きの女性を貶めていることなのに、そこに触れることなく「これだから大学のセンセイは」と愚痴っている。何してるんだよ! 大学の先生なんかやっつけちゃってくれよ、シュンイチ! と叫びたくなる。ついでに言うと、北村氏が唐沢氏のアカデミズム批判を取り合わないのは、実際に大学で研究している人からしたら取るに足らない話でしかないからだと思う。…こう書いてしまうと余計に悲しくなるばかりなのだけど。
 なお、北村氏は最近またこの件に関してツイートしていた(だから今回こうやってエントリーを書いた次第)。

この手の人たちが「リアル」と「ネット」をどう区別してるかは知りませんが(ウェブ上の差別や罵言はリアルじゃない、人を傷つけないと思ってるのかな?)、印刷物なら腐女子に対する差別発言は普通に刊行されてますよ。以前、唐沢俊一の例をこちらで書きました。

 腐女子に対する差別発言」の代表例になってしまいましたね…。さっさと謝ればよかったのに、というのは『新・UFO入門』事件にも言えることだけど。


 以前にも書いたが、『トンデモ本の世界』シリーズでトンデモ本」として紹介すること自体、かなり否定的なイメージがついてしまっている。トンデモ本の世界S』で唐沢氏は他に東浩紀動物化するポストモダン講談社現代新書)を取り上げていて、こうなると「と学会」の本を舞台としてアカデミズムを「トンデモ」と批判する試みをやっているように見えてしまう。「著者の意図とは異なる視点から楽しむことができる本」という「トンデモ本」の本来の定義からずれている一方で、このようなやりくちが通ることで、「トンデモ本」として紹介されること自体にいつしかネガティブなイメージがまとわりついてしまったのだろう。なお、唐沢氏が東氏の著書を「トンデモ本」とした件については過去記事その1その2を参照されたい。
 とはいえ、『トンデモ本の世界R』(太田出版)で山本弘氏が小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(幻冬舎)を取り上げていたのも、笑って楽しむよりは批判の色合いが強いものだったので、唐沢氏のみに責任を負わせるのは適当ではなく、それからだいぶ後の話だが、2012年の「日本トンデモ本大賞」で『イエスの言葉 ケセン語訳』が取り上げられた際には開田あや氏が弁明する羽目になっている(過去記事)。「トンデモ」に否定的なイメージがついてしまったのは、「と学会」の「トンデモ本」の取り上げ方、笑い方、楽しみ方のどこかしらに問題があったかもしれないので、その点は「検証本」完結編で可能であれば考えておきたい。唐沢氏が「と学会」を辞めた、というのもまだ正式に発表されたわけではないのだけどね。


ドッコム! ドッコム! ドッドッドッドッコム!

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