美しい星の私。
唐沢俊一が三島由紀夫作品の中で『美しい星』ばかりをネタにしているのはどういうことなんだろう(詳しくは「トンデモない一行知識の世界OLD」を参照)。
唐沢俊一・ソルボンヌK子『昭和ニッポン怪人伝』(大和書房)、今回は第3章「三島由紀夫と川端康成」を紹介する。『昭和ニッポン怪人伝』P.51より。
私(唐沢)は三島自殺の報を、弟の入院先の病院のロビーで聞いた。弟は急性虫垂炎で入院し、手術をしたばかりであった。私の弟と三島は、奇しくも同じ日に腹を切ったわけである。
そのとき、ロビーで読んでいた『少年マガジン』には、ジョージ秋山の漫画『アシュラ』が連載されていた。平安朝(らしき)時代の飢饉の中で生まれた子供・アシュラが、他人を殺し、時にはその肉を食らって生き延びていく凄惨きわまる物語であり、あまりの残酷描写に掲載誌が回収される騒ぎまで起こった作品であった。
それは、うわべの繁栄に踊る日本と日本人に対する、作者の徹底した批判のまなざしが生み出した作品だった。小学校5年生だった私はふと、この作品と三島の自殺のあいだには、共通点があるのではないか、と感じた。それはあながち外れてもいなかったようだ。
なぜ「あながち外れてもいなかったようだ」と考えたかというと、ジョージ秋山が1972年から『週刊少年サンデー』で連載を開始した『ザ・ムーン』に三島事件の影響が見られるからだ、と唐沢俊一は書いている(小学館文庫版解説の西村繁男も同様の指摘をしている)。…ジョージ秋山が三島事件や連合赤軍に影響を受けて(『ザ・ムーン』には「連合正義軍」が登場する)『ザ・ムーン』を描いたことが、どうして『アシュラ』と三島事件との間に共通点があることの証明になるのかわからない。論理的につながっていないよ。
P.53〜54より。
前年、つまり三島が楯の会を結成した1968(昭和48)年に、川端はノーベル文学賞を受賞していたとはいえ、それは過去の作品の評価による名誉賞的なものであって、受賞の理由は“日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さに対して”であり、特定の作品に対してではなかった。
受賞後の川端は、ほとんど作品を発表していない。作家としてはすでに川端は終わっていたのである。
川端の、三島に対するにべもない拒絶には、息子ほども年齢の違う天才作家に対するジェラシーが含まれていたのではないか。
P.56より。
しかし、内心で川端は自分の文学的才能がすでに尽きているのを知っていた。その心情を思えば、プライドの高い川端には、目の前の三島が、まるでフランケンシュタインのモンスターのように見えたとしても不思議はない。
まず、1968年は昭和43年である。そして、ノーベル文学賞は特定の作品を対象にして与えられるものではない(例外もある)。大江健三郎も川端と同じく特定の作品によってノーベル文学賞を受賞していないのだ。
で、唐沢は、川端がノーベル文学賞を受賞したことで三島に引け目を感じていたことを強調しているのだが、三島がノーベル文学賞に落選したことにショックを受けたらしいということについては触れていない。唐沢が引用しているドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』(中央公論新社)の中でも、キーンから川端が受賞した経緯を聞かされた三島が黙ってしまうというエピソードが出てくるのだが。
さて、この章で唐沢俊一は三島と川端の関係を「同性愛」という観点からとらえようとしている。三島が同性愛者であるという説は広く囁かれているし(唐沢は断定しているが)、川端も学生寮で同部屋だった少年と親交を結んだ経験をもとにした『少年』という小説を書いているとして(ただし、後述するがこの「親交」はなかなか凄い)、両者はともに同性愛者的傾向があったのだとしている。その解釈自体は必ずしも間違いとはいえないのだが、唐沢はその一点だけで押し通そうとしているため、話はなんともよくわからないことになってしまっている。
P.56〜57より。
そしてもうひとつ言えば、川端が熱心に三島の文壇登場をサポートしたのは、初めて三島に出会った頃の、三島の“美しさ”に理由があったのではないか。
三島が文壇で初めて華々しい名声を得たのは、川端と初めて出会ってから3年後に発表した『仮面の告白』によってである。彼は大胆にもこの作品の中で自分に同性愛指向があることを表明した。
人を見抜く眼光に関しては定評のある川端が、初めて三島が自分を訪ねたときに、彼の中にその性向があることを見抜いたとしても不思議はない。
P.57〜58より。
15歳頃の三島由紀夫の学習院時代の写真を見ると、面長ではあるが、驚くほどの美少年であることがわかる。川端に初めて会いに行ったのはその6年後で21歳だったはずだが、華奢な体の三島は、川端にとって“少年”に見えたことだろう。
川端は(中略)少女を愛していたことはつとに知られているが、また、少年愛的傾向も多分に持っていた人物であった。
P.58〜59より。
同性愛者の目から見た同性愛者。川端の、三島への視線とその愛情は、そのような条件下で見なければ、よくわからないのではないか。しかし、同性愛にもさまざまな形があり、例えばマッチョ嗜好のゲイと、美少年愛好者とはまったくその性向は相いれない。
少女愛と共存して少年愛を指向していた川端の目には、三島がボディビルで自己の肉体を改造し、右翼的なファッションに身を包んだマッチョ青年たちを周囲にはべらし始めたときから、それがたまらなく不潔なものに映っていたのではないか。
楯の会の行事への出席を「いやです。ええ、いやです」と言下に拒否した川端の態度は、三島の政治思想というよりは、性的な趣味嗜好が全く異なった者のもとへは足を踏み入れたくない、という拒否だったのではないかと考えた方が自然だ、とさえ思えるときがある。
三島の死後の川端康成が精神の変調をきたしていたことは、さまざまな人物が語っている。
川端は誰もいない空間に向かい、
「おや、三島くん、こんばんは」
などと声をかけていたというのである。
このとき、川端を訪ねた三島は、決して自殺した頃の三島ではなかったろう。1946(昭和21)年、鎌倉に訪ねてきた、まだ東大の学生服に身を固めた美少年・三島だったに違いない。
…唐沢俊一は腐女子か?と思ってしまう。それは師弟関係なんだって。そういえば、唐沢は以前弟子を持っていることを自慢していたな。それにしても、相変わらず仮定でしか話をしていない。「考えた方が自然だ、とさえ思えるときがある」ってどういうこと?それから、これが15歳のときの三島。「驚くほどの美少年」かなあ?
続いて、川端が三島が自決した際に現場に駆けつけ、三島の生首を目撃したというエピソード(進藤純孝は著書の中で否定しているが)を紹介し、そのせいで川端が精神に変調をきたしたとしている。
P.61より。
そして、なぜかあれほど嫌いであった政治がらみの活動にも参加するようになり、都知事選の応援演説なども行い、それが三島に対する自分なりのつぐないであるかのような行動を示す。
しかし、その疲労で不眠症になった川端は睡眠薬の中毒になり、自分の老いに対する恐怖を、山口瞳らに漏らすようになる。
まだ肉体的に老いる前に命を絶った三島への羨望もあったのだろうか。
川端は三島が自殺する以前に、参議院選挙に出馬した今東光の選挙事務長を務めている。また、川端の睡眠薬中毒は長年にわたるものである。したがって、2つの出来事の原因が三島の死にあると断定することはできない。
P.62〜63より。
しかし、川端は、その作品の中に、いくつもの愛を描いている。『千羽鶴』などの作品を読めば、彼が三島以上に愛欲の世界に通じていることは明らかだと思う。なのに、なぜ、三島は川端の作品に、愛を感じ取れなかったのか。
それは、三島のように(それが男性相手であれ女性相手であれ)肉体を伴った性しか考えられなかった人間には想像もつかぬ、飛び抜けた精神の愛の、川端が奴隷だったからではないか。
精神の世界の同性的愛情である『少年』と、肉欲の世界の同性愛を描いた『禁色』を読み比べてみれば、2人の間に、似通っているようで全く異なる、深い溝があることがわかるのではないかと思う。
「飛び抜けた精神の愛の、川端が奴隷だった」に「同性的愛情」。2人の文豪を取り上げるのなら文章にも気を使って欲しいものだが、唐沢俊一は本当に『少年』を読んだのだろうか?だって、『少年』にも「肉欲の世界」は出てくるのだ。以下『川端康成全集』第9巻(新潮社)より引用する。なお、原文は旧字体を用いている。
P.277より。
起床の鈴の少し前、小用に起きた。をののくやうに寒い。床に入つて、清野の温い腕を取り、胸を抱き、うなじを擁する。清野も夢現のやうに私の頸を強く抱いて自分の顔の上にのせる。私の頬が彼の頬に重みをかけたり、私の渇いた唇が彼の頬やまぶたに落ちてゐる。私のからだが大変冷たいのが気の毒なやうである。清野は時々無心に眼を開いては私の頭を抱きしめる。私はしげしげ彼の閉ぢたまぶたを見る。別に何も思ってゐようとは見えぬ。半時間もこんなありさまがつづく。私はそれだけしかもとめぬ。清野ももとめてもらはうとは思ってゐぬ。
P.320より。
ふとほの暗いうちに目覚めて、温い清野の腕をにぎつた。私の左の腕の片面すべてに温みが清野の皮膚から流れてゐるのを感じた。清野はなにも知らぬ気に私の腕を抱いて眠つた。
「私はそれだけしかもとめぬ」とあるように、それ以上の関係にはいかなかったようだが、ともあれこれを「精神の世界」の出来事と考えることはできないだろう。
このほか、清野との体験を学校に作文として提出したこともあったというのだが、書き出しが凄い。P.282より。
お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を愛着した。
僕はお前を恋していた。お前も僕に恋してゐたと言つていい。
ちなみに、教師からは別に注意されなかったという。うーん。あと、思わず笑ってしまったところ。P.324〜325より。
どうしても室員の温い胸や腕や唇の感触無しにねむりにおちてしまうのはさびしい。
清野はまだほんたうに単純らしい。
「思つてゐて言はないことはなにもあらしません。」と、ふとしたときに言つた。
「ほんたうか、ほんたうか。」と、しつつこくたづねる。
「ほんまでつせ。なんぞ思つて黙つてたら、心配で心配でゐられやしまへん。」
清野はこんな少年だつた。大変負け惜しみが強いけれど、正直な子である。
「私のからだはあなたにあげたはるから、どうなとしなはれ。殺すなと生かすなと勝手だつせ。食ひなはるか、飼うときなはるか、ほんまに勝手だつせ。」
昨夜もこんなことを平気で言つてゐた。
「こないに握つてても、目が覚めたら離れてしもてまんな。」と、強く私のこの腕を抱いた。
私はいとしくてならなかつた。
夜なかに目覚めると清野のおろかしい顔が浮いてゐる。どうしたつて肉体の美のないところに私のあこがれはもとめられない。
…結構きわどい内容なのに清野少年が関西弁をしゃべっているのであまりムードが出ていない。耽美趣味と関西弁の相性はよくないらしい。…まあ、清野少年を「隣に住んでいる幼馴染の女の子」に脳内で変換すれば全然大丈夫だ。まさか、川端康成を読んでギャルゲーのシナリオのヒントを得るとは思わなかったがw
細かいミスとしては「大坂万博」(P.50)というのがあった。当ブログも最近誤字脱字が多いので気をつけたいところだ。
しかしまあ、同性愛で押し通すのも問題だけど、川端が三島にコンプレックスを抱いていたかのような書き方もちょっと。川端康成が相当な奇人だったこと(骨董品マニアだったことなど)が唐沢の文章からは全然わからない。むしろ逆に三島が川端にコンプレックスを抱いていたのではないか?とも思うのだけど(ノーベル賞も先に取られてしまったのだし。)。いずれにしても、唐沢俊一の同性愛に対する認識や文学の素養がわかってしまったことを考えると、なかなか怖い章であった。
さあ、いよいよ残り1章。現在資料を取り寄せているので届き次第書くつもり。ちなみに、今日発売の『フィギュア王』に掲載されている『唐沢俊一のトンデモクロペディア』は全編唐沢の体験談になっていた(前に見たことのある話だったが)。なるほど!これならパクリの危険性はないね。…だからといって内容がよくなったわけではないんだけどね。残念ながら。
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