唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

少年愛の美学。

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karasawagasepakuri@yahoo.co.jp


 唐沢俊一はかつて『噂の真相』の一行情報で「実はバイセクシャルと書かれたことがあって、この情報の真偽について唐沢ウォッチャーの間では未だにさまざまな説が唱えられている。個人的には唐沢俊一がどのような趣味を持っていても別に構わないのだけれど、市橋達也への執着ぶりを見ていると「もしや…」と思ってしまうし、藤岡真さんの目撃談は凄すぎる。以前妹と食事しているときに「そういえば唐沢さんが昔『噂の真相』でさあ…」と話をしたら「気をつけてね」と心配されてしまった。…何をどう気をつければいいのやら。市橋のルックスが唐沢の「タイプ」ならば、自分は「タイプ」じゃないと思うけど。
 それはともかく、谷口玲『少年愛者』(つげ書房新社)という本の中で、唐沢俊一少年愛者たちの下位文化(サブカルチャー)」というタイトルのインタビューを受けているので、今回はこれを紹介してみる。インタビュアーである谷口氏のコメントは色を変えて表記している。

―本書は少年愛者について告発する内容になるのですが、唐沢さんのスタンスとして、それに協力していただいてもよろしいのでしょうか?


「確かに、少年愛者やペドファイルに告発される必然性があることは判るので、それに協力することに吝かではありません。
 ただ、私のスタンスはペドファイルの犯罪性は糾弾したいが、しかし告発し、処罰するだけでは何も解決せず、それどころか犯罪を誘発させる恐れすらある。もっと根本的な方法を案出することが必要、というものです。少年愛者で実際の行為に走っている人というのは、憎むべき犯罪者であると共に、一生を破滅させてしまうほどの社会的制裁すら凌駕してしまう“情動”を持っているわけであり、そこはもの凄く同情すべき点ではあると思うんですよね。それをただ単に“悪”であるとして囲い込み、殲滅して―変な話、アメリカでは『断種すべきではないか』といった極端な意見も出ているくらいですから―そこまで言っていいのか。それはかつてヒトラーユダヤ人に対して行ったことと同じではないか。二、三、ペド批判の本が出ているんですが、それらは海外におけるペド関係の文献の中で一番過激なところばかりを引いて来ていたり、大前提としてペドを“悪魔の病”であると決めつけていたりするなど、疑問を感じました。ペドフィリア犯罪に対する憎悪は充分に持った上で、そういった危険性には注意を喚起しておきたいですね。
 こういうことを言っているため、『お前は少年愛者なのか?』といったお疑いを持つ方もいらっしゃるのですが……(笑)」


―お好きなんですか(笑)?


「本当にしょっちゅう言われて、もうそれでもいいかと思っているくらいなんですが(笑)、私は幸か不幸か今まで女性としか恋愛関係に陥ったことはないですし、結婚相手も女ですし(笑)。サブカル系の物書きというのは、とにかくいろんな“異端”に興味を持つものであって、調べるうちに異端に対する慣れが生じていくわけなんです。だから多分、男と寝るという事態に陥ったとしても、一般の人よりも遥かに抵抗が少ない、或いは好奇心が勝っちゃうということだってあるかも知れない。好奇心を総てにおいて最優先して、枠を持たずに受け容れていく。そういった心理こそが、私を物書きたらしめているんですよ。私見ですが、三島由紀夫なども真性のゲイというよりは、作家としての好奇心が先立っていたのでは、と思うんです、結婚生活もしているわけですから」

 …前半はいいんだけど、後半はわけがわからない。サブカル系の物書き」だから男と寝ることも有り得るって…、そうかあ? 絶対にないとは言えないんだろうけど、大多数の人は「興味」と「実行」に区別をつけているのではないか?と思う。…っていうか、三島由紀夫がゲイであることをさんざんネタにしていたのに、何故「作家としての好奇心が先立っていた」とか言い出すのか(詳しくは2009年5月25日の記事を参照)。
 それにしても「ものすごい言い訳くさい」と感じてしまった。何に対して言い訳しているのかはよくわからないけれど。唐沢俊一は同性愛ネタになると文章がどうも言い訳くさくなるんだよなあ。一例として「裏モノ日記」2005年2月10日より。

高校一年(中学三年?)の頃、初めて知った『薔薇族』という存在。当時からサブ カルチャーの世界に興味を持ち、
「世界の文化的な極限を極めたい」
 という知的欲求にかられるままに、アングラやヒッピーといった辺境文化関係の資料を追い求めていた(一方で超正統派の文化も押さえていたことが今思うとよかった と思う)私が、忘れもしない札幌駅の書店弘栄堂で見つけ、手にとって
「これは(一般人にとって)極北のカルチャーかも」
 と衝撃を受けたのが『薔薇族』だった。逡巡の末に思い切って買い求め、ポルノ雑誌を買ったときの数倍ドキドキしながら、自分の部屋の灯りをわざわざ消して、卓上 蛍光灯の下で読みふけったときの興奮を今でも思い出す。

 自分の性衝動とはまったくリンクしないのに、その記事の中ではあからさまな性的興奮対象として男性の肉体のことが賞美されているというその不思議な感覚。そして読了したあとで得た結論というのが、
「懸隔はあるが理解不能ではない世界だな」
 ということであった。

 そして、そのころハマっていた唐十郎渋澤龍彦の世界を理解するには、この雑誌に代表されるゲイ・カルチャーの世界をもっとよく知らないといけないのだな、ということを、おぼろげながら理解し、それからは半ば堂々と(いや、やはり抵抗はあったが)『薔薇族』『さぶ』『アドン』の三大誌は(そのとき々々でどれを買うかはバ ラつきがあったが)購読し続けてきた。

 今でも、三島由紀夫寺山修司について青臭い議論をしている者たちには、ゲイ世界への彼らの興味がわからんで彼らの文学がわかるか、という思いが強烈にあり、また、高倉健の映画をはじめとするヤクザもの、『男組』等に代表される硬派少年ものの底流に流れる日本文化の中心、いや、特攻隊など、かつての日本を支配していた武士道文化の原点にまでなっている男色思想の大衆文化的な浸透に、なぜもっと日本の研究者は注目しないといういらだちも強い(海外ではイアン・ビュルマのような、そこを中心に徹底したリサーチを元にした学術論文を書いている研究者がいるというの に)。

 エキサイトしてるなあ。でも、「知的欲求にかられるまま」「自分の性衝動とはまったくリンクしないのに」長年同性愛を研究してきた割りには『世界ヘンタイ人列伝』などでゲイに対して差別的な記述をたびたびやっているのはなぜなんだろう。それに日本でも男色の研究はないわけではないし。
 

 言い訳っぽいと言えばこんなコメントもある。

「(前略)例えばSM物のアダルトビデオを持っていたからといって、必ずしもSMマニアとは限らない。『いや、友だちに借りて……』という言い訳だって可能です。しかしこと少年愛―これはゲイも事情は同じですが―となると、言い訳が聞かない(原文ママ)じゃないですか。ましてや既婚者で妻に見つかった日には、相手への愛情を疑われることになる。息子でもいたら、更に大事になる……。」

 「SM物」と「少年愛」を区別する意味がよくわからない。「少年愛」のアダルトビデオが見つかっても必死で弁解すればなんとかいけそうな気がするけど。「好奇心を総てにおいて最優先して、枠を持たずに受け容れていくのがサブカル者なんだって唐沢俊一先生が言ってたんだよ!」と言ってみるとか。まあ、持っているのが他人に見つかったらシャレにならない特殊なアダルトビデオっていくらでもあるからなあ。『熱写ボーイ』を買いにその手のお店に行くたびにDVDのジャケットが並んでいるのを見て呆然としてしまうもの。世界は広い。

「(前略)近代以降はシステムとしては失われましたが、歌舞伎役者の若い二十歳前の少年を買う、といったことはありましたね。明治時代に仮名垣魯文という戯作者が書いた、『澤村田之助曙草子』(原文ママ)という小説があるんですよ。この人は明治の名優と呼ばれた歌舞伎役者で、脱疽という病気で四肢を切断した名女形なんですが、この人が若い自分に(原文ママ)自分の出世のためにお寺の住職に身を売って出世をしていく。ただ、それが世間にバレて、住職が寺を追われてしまう、というシーンがあるんです。このシーンを読んで、『あ、明治なんだな』と。江戸以前は当たり前のことだったわけですから。ただ、寺を追放されるとは言え、そういうことを両方ともそれほど不思議と思わずに行うということは、まだまだそういうものが残っていた証拠でしょうね。逆に言えば江戸時代の陰間茶屋などの“居所”がなくなり、地下へと潜っていった辺りで、日陰者としての性質を帯びてきたのかも知れません」

 『澤村田之助曙草紙』の作者は岡本起泉。三代目澤村田之助は幕末から明治初期にかけて活躍していて、『曙草紙』の作中で田之助に入れあげた僧侶が寺を追い出されるのも幕末の出来事である。…だから、「あ、明治なんだな」という感想はヘン。江戸時代でも大っぴらになったらスキャンダルになったのではないかと。なお、三代目澤村田之助村上もとかJIN−仁−』にも登場していて、ドラマ版では吉沢悠が演じていた(小出恵介に往来で土下座させているシーンをたまたま観たな)。セカンドシーズンで足を切断する話をやるかも。

 この後、男子校では現在でも「少年愛」的な文化が残っているとして、橘外男『男色物語』を持ち出したりしているが、『男色物語』に関しては過去にヘンな文章を書いている。「こんな文章を書いていたら誤解されても自業自得だ」と思うとともに伊藤剛さんが気の毒でならない。ちなみに、自分は男子校出身で寮生活を送ったこともあるのだが、「少年愛」らしき文化というか現象に遭遇したことはないので、唐沢の話がどうもピンとこない。女の子のことばっか考えてましたよ、ええ。


 次に、少年愛は過去のものだという印象があるという谷口氏の発言に対する唐沢俊一のコメント。

「まあ、表に出なくなってきたことは確かですが、完全に過去のものとは言い切れません。ひとつに、人間にはナルシシズム的な欲求があるじゃないですか。自分の身体にナルシスティックな魅力を感じる男の子、自分の身体を愛でて欲しい、そしてそれはできれば肉体的に愛するという形で受け容れて欲しい、と考える男の子はかえって増えているように思います。二丁目なんかの売り専の男の子たちというのは、そういうところから入った子が凄く多いみたいです。ナルシシズムが直結して、そのままゲイにつながったということですね。最近ディスコ辺りに行くと、お兄さんを誘いに来る若い男の子が、かなり増えているようです。
 何故、このようなタイプが最近目立って増えて来ているかというと、今の教育の中で、社会性などよりも自分の個性を何より大事にしろ、と言われて育つじゃないですか。まず愛するのは自分だ、と。そのためにナルシシズムがひとつの顕れとして、『自分は美しい、美しいから女性には与えない』というような形を取って噴出するわけです。
 もうひとつの理由として、性に対する社会的な締めつけなどがどんどん崩れて来ているということがある。(同性愛的)傾向を持った人間が『男性を愛してもいいんだ』という認識に至るまでのハードルが低くなっている。文化的に昔なら男に抱かれるということが、自らのアイデンティティを崩壊させるような大事件であったのが、『大したことないじゃん』、『気持ちよければいいじゃん』、『ホモじゃないけれども男に抱かれるのってアリじゃん』という具合に抵抗がなくなって来たということがあります。
 ましてや男の子が美しい、ということが誇れる時代になって来ていますから。またやおい系(の文化)で育った奥様方が自分の子どもに、無意識か意識的なのか判りませんが、その子の可愛らしさ、セクシーさを強調したような格好をさせる、という傾向も出て来ていますから、少年愛者にしてみれば取って喰ってくれ、と言わんばかりの状況ですよね。一概に少年愛者ばかりを責めるのもどうか、と思うのですが(笑)。
 逆に言えば、女性の『危なさをアピールするけれど落ちないわよ』というのと同じなんでしょうが、これだけマスコミで美少年ブームを煽って少年美というものを認めながら、性の対象とすることは認めない、というのはどうなのよ、とは思いますね。だから少年愛的欲望を、例えば芸術の分野などに昇華するといった道すら残されないままに、ただ告発されるとなると、それは問題ですね。絵画であるとか、そういったもので発散の仕方を考えていかねばならない」

 よくわからんなあ。「自分は美しい、美しいから女性には与えない」と思っているのにどうして男性には与えようとするんだろ。それから、現代の教育のせいでナルシストが増えているというのもどうだろう。また「世界に一つだけの花」理論か。「社会性より個性を大事にしろ」というのは果たして教育と言えるのだろうか?と思うし、そんな教育がどこで行われているのか。次に、「文化的に昔なら男に抱かれるということが、自らのアイデンティティを崩壊させるような大事件であった」の「昔」って一体いつのことなのか唐沢俊一の話だと江戸時代までは男色は文化として認められていたようだけど。それと、イケメンアイドルを「性の対象」として見てはいけないというのはケシカラン、というのもおかしな話で、女の子のアイドルを「性の対象」として見ることが一般的に許容されているとも思えないんだけど。だいたい「セクシーさを強調したような格好」をした男の子なんて何処にいるんだろう。
 …というよりも、むしろここで問題なのは、「男の子が可愛い格好をしていることにも問題がある」という風に被害者に責任を転嫁する理屈につながってしまう発言を唐沢俊一が無自覚にしていることで、その点を谷口氏に突っ込まれている。

―ただ、子どもと性交渉を持ってしまったペドファイルが、「相手が誘ったんだ!」と強弁する、というのもよくあるパターンだと思うのですが。


やおい用語で言えば“小悪魔受け”ということになるんでしょうが―可愛らしい男の子が誘って来る、というパターンですね―思春期のナルシシズムの強い少年が外に向けて発するチラリズムを、自分に向けて発信された信号だ、と勘違いするわけですね」


―それはテレビ画面のモーニング娘。の○○ちゃんが、オレに向けてウインクした! というような……?


「それと同じですね。少年のそういうナルシスティックな、自分の肉体を見せたい、という自己顕示欲がそれを嗜好する人間、即ち少年愛者を生んだのかも知れない。どっちが先なのかというと、ニワトリと卵のようなものかも知れませんね。
 自分の肉体を誇示できる銭湯という場が(少年愛者が少年へと関わる)温床になったと言えますが、逆にそのチラリズムで発散することすらできなくなったがために、犯罪が多発するようになったという考え方もできる。そこのところはまだ断言は早いですよ。
 現代では、旧制高校であるとか軍隊であるとかいった“温床”“場”がそういった傾向に目覚めさせるという状況こそなくなりつつありますが、先に示したように、そういった要素が個人個人の中に分散される形となったと言えます(後略)」

 ああ、この人、わかってないや。谷口氏はそれとなく注意してくれているのに、被害者にも責任があるかのようなことをまたしても言ってしまっている。長年同性愛を研究している割りには(自分の性衝動とはまったくリンクしないらしいけど)迂闊だ。あと、「チラリズム」という言葉の使い方がおかしい。銭湯で「チラリ」と見えるものと言えば…、言わせんな恥ずかしい。それに、銭湯の数の減少と少年が性犯罪に巻き込まれた件数を比較すれば、両者の関連の有無がわかると思う。警察白書によればここ10年に限ると少年が被害者となった性犯罪は減少しているようなんだけど。調べればすぐにわかることである。

「やはり一番(多いの)は銭湯ですね。私の昔アシスタントをやっていた子が、もう二十いくつにも関わらず、美少年っぽい顔立ちだったんですが―資料収集のために二丁目に連れていくと、羨望の視線が凄かったくらいで……」


―そんなに美少年ばかり集めてらっしゃるんですか?


「いや、たまたまそういうのが多かったというだけですよ(笑)。ちゃんとデブやヒゲのアシもいましたからご安心を。…で、その子に聞いたらやはり中学生の頃、銭湯でおじさんにしゃぶられたことがあると。『気持ちよかったです、出しませんでしたけれど』と言っていましたね。彼は逆にその体験で恐怖心を持ったそうですが。やおい好きの女の子がいわゆる“受け”に設定するような子だったんですが、本人は大ッ嫌いで(笑)。
 いずれにせよ、少年愛というのも今までの日本では、上に挙げたような“いたずら”がそれほど問題視されていなかったからこそ(生き長らえた)、ということも言えますね。性的ないたずらが後にトラウマを残すという考え方が常識として広まっていなかったから、毛も生えていないオチンチンをいじられて気持ちがよかった、というくらいのこと、一回くらいやられたって別に大したことではない、すぐ忘れるよ、という大雑把な認識だったのでしょう。男の子同士のマウンティングとしての擬似同性愛なども含め、はっきりとした形で残っていたのが戦前まで、その名残があったのが昭和四十年代の半ばから末期くらいまでですかね(後略)」

 ここまで同性愛ネタをやっていると誤解されても当然だし、あんまりやりすぎるせいで「本当に同性愛者なんじゃないか?」と思えてくる。まあ、唐沢俊一が同性愛者であっても別にかまわないけれど。ただ、唐沢俊一が「擬似同性愛」が残っていたと根拠が不明なのに断言している「昭和四十年代の半ばから末期」がまさに唐沢の青春時代とかちあっているというのが偶然にしては出来すぎな気がする。


 谷口氏からゲイと少年愛の境界について訊かれた唐沢俊一のコメント。

「まずはっきり言って、ひとつは非常にわがままですね。無論、ゲイというのもわがままな部分、自分の感情を表出する部分はあり、それを利用したのがおすぎとピーコであると言えます。しかし、中でも少年愛者たちは非常にうるさい、わがまま、かつこれは犯罪に結びつく特徴なのですが、少年側の心地よさですとか快感であるとかに関しては、あまり問題にしない。つまり少年を愛するということは、自分よりも小さい者、弱い者を征服するということではないですか。元来、セックスというものは大なり小なりやる方がやられる方に対してサディスティックに、攻撃的になるという傾向があります。そして明らかに体格的、立場的に自分よりも弱い者に性の矛先が向けられる時に、これが極端な形で顕れる。だからはっきり言ってしまうと、少年愛の行き着く先は快楽殺人(ルストマーダー)であると言えます」

 この理屈だとむしろペドフィルの行き着く先は快楽殺人、となるし、攻撃性が快楽殺人に行き着くというのならSMだって快楽殺人につながりかねない。…しかし、この文章の前まで少年愛が伝統や文化として成り立っているかのような書き方をしていたのになあ。“Lust Murder”=ルストマーダーは相変わらず。


 その次の部分を読んでビックリしてしまった。

(前略)少年愛者には虚言癖が多い、という意見に関してはどのようにお考えですか?


「あります(断言)。つまり、(彼らにはまず最初に)少年に愛されているという妄想、ストーリーが頭の中にあるわけですよ。何故ならば少年愛者と少年の性生活、付き合いというものは本来、幸福にずっと続くというのがあり得ない性質のものであるわけです。少年というのは少年のままでおらず、どんどん自分の理想の年齢から離れていくわけですし、また社会的に大っぴらにできる性質のものではない。そのような理由から、少年愛者自身もひとりの少年を愛するわけでなく、とっかえひっかえになる傾向が多いようです。
 そもそも少年と付き合ってうまく行く、と楽観的に考えて行動を起こすということ自体が妄想の産物なんです(笑)。
 現実の中で理想を叶えられないが故、先刻言った『男性は脳で感じる』ということと関連しますが、永遠の少年との幸せな生活といった自分なりのストーリー、自分にしか通用しないストーリーを築き上げていくわけですね。それを自分の頭の中だけで留めておけばよいものを、投稿欄に書き送ったり、人に自慢してしゃべったりということになると、ストーリーがだんだん妄想に近づいていく(後略)」

 ははははは!
 いやー、凄いわ。虚言癖の事例が唐沢俊一本人にあまりにもあてはまりすぎ藤岡真さんが唐沢の大学時代の武勇伝をまとめたら大変なことになっちゃったもんなあ。ちゃんと大学に行って勉強しろよ!って思ってしまうけど。さらに付け加えると「『ぴあ』の投稿欄で論争の中心人物となり手塚治虫に名指しで批判される」というのも大学時代の出来事になるんじゃないかと。あと童貞喪失も大学生の時だな。…しかし「それを自分の頭の中だけで留めておけばよいものを」以降は涙なくして読めない。ホント、自慢しなければよかったのにね。


 そして、結論としてこのようなことを言っている。

「いやむしろ、ほんとにサブカルとか何とか、(表に)出過ぎるってのがよくないんです。ペドを文化として認めろだとか、ロリコン漫画であるとか、大きくなり過ぎて(社会的に)影響が出過ぎちゃうからいろいろ言われるわけで。昔の三流エロ漫画ですとか、『少年』といったマニア誌とかで出ては潰れて、また次のが出て……という頃ならば、社会からも『まぁ、あぁいうヘンなのもいるから』と言われるだけで済んでいたんですから。日陰者、という風に認知して、日陰者は日陰者の分際を守ろう、という昔のヤクザのようなカタギの人には手を出さない、というコンセンサスを築いておけば。逆にゲイリブなどで陽の当たるところに出ていくから、バッシングされてしまうといったことも起こるわけです。少年愛のようなゲイの中でも非常に数の少ないものまでが引きずり出されてしまい、バッシングされてしまうといったことも起こるわけです。しかし、じゃあお前たちは一生日陰でいろ、とは言えないですよね。
 私は存在を知らない、というのもよくないけれども、存在を正当化する、というのもよくないと思う。『正当でないものは存在してはいけないのか?』というのがサブカルの立場ですから。そして、異端な日陰者は日陰者としての道を持って、正当な者に迷惑をかけない、というスタンスを守っていた方がいいと思います。
 二丁目のバーのママさんに『ゲイリブはどう?』と聞いた時、『あの子たちは慎みってものがない』という答えが返って来たんです。一般の人たちの中に紛れ込もうとするより、一般人は一般人、私たちは私たちと分けて考えて、二丁目という聖域の中で私たちが王様、女王様、と思っていた方が生きやすい。
 その意味でペドを認めろ、ロリコンを認めろと言わない方がいいと思うんですよね。自分たちが異常だということを自覚して、その上で自分のいる位置というものを見つけている人たちが、精神的にも行動の面でも安定して、しかも(自らの異常性を)生かしているような気がしますね。天才というのは、自分の異常性を自覚し、生かしている人々のことなのですから。
 だから私も、殊更ペドファイルを擁護する意志はありません。同様にロリコン漫画、ショタコン漫画も殊更に正しい、出すべきだ、と主張するのではなく、あくまで売れるから、ニーズがあるからという商業的なベースに則って出していけばいいのだと思います。必要悪であってもニーズはニーズです。
 ペドファイルたちも、『私は法律に違反する趣味を持っています』ということをある程度発言できるような(自分自身に対する)客観的余裕を持って、『ただし、私は例えば漫画であるとか、違法性のない形でそれを解消しています』というカミングアウトする人が増えていく、ということが唯一の有効な対処法だと思います。
 また告発する側も、実態が判らないままに少年愛者やその周辺のものも総てを潰してしまうだけでは根本的解決にはならない。安全な妄想の手引きとなる(漫画や小説などの)媒体を奪ってしまうことで、(少年愛者たちが)地下に潜る、追いつめられて犯罪に走るといった事態を誘発して、悲劇を増やすだけです。告発には、常にそういった危険性がつきまとうことも忘れてはいけません。『共存しろ』とまでは言わないまでも、根本的な解決とは何かを考えていかないと、これからヤバいんじゃあないでしょうか」

 補足しておくと『少年』はゴッセ出版から出ていたマニア向け雑誌のことで、『ストップ!にいちゃん』などが載っていた漫画雑誌ではない。
 唐沢の発言に気になる点がいくつかあるので指摘しておく。第一に「お前たちは一生日陰でいろ」「異端な日陰者は日陰者としての道を持って、正当な者に迷惑をかけない、というスタンスを守っていた方がいい」というのは結局同じ事を言っているのではないだろうか。第二に「二丁目という聖域の中で私たちが王様、女王様、と思っていた方が生きやすい」というくだりは、文筆業から演劇へと軸足を移しつつある唐沢俊一の現状を思うとなかなか興味深い発言である。第三に「商業的なベースに則って出していけばいい」と言っても、そうしたらいずれ目をつけられてしまうわけだから「根本的な解決」とはとても言えない。第四に「違法性のない形」で解消できるのであれば趣味・嗜好自体が法律に違反することもないんじゃないかと思う。第五にカミングアウトを軽く考えすぎ。「自分は少年愛者だけど法律には違反してません」と言ってどれくらいの人が納得すると思っているのか。第六に『少年愛者』は2003年2月に刊行されているが、2002年にはロリコンに対して「地下へもぐれ!」と力説している(詳しくは4月19日の記事を参照)。…言っていることがまるで正反対なんですけど。 
 唐沢の結論を通して読むと「一般人に理解してもらうための努力を放棄している」ように感じてしまう。一般人から何か言われて「日陰者だから」と引っ込んだって「根本的な解決」にならないだろう。他人から理解を得ようとすること、自らの立場を訴えようとすることを「慎み」がないとスタイルの問題にしてしまっているのもおかしい。主張の中身こそ問題にすべきではないのか。


 インタビューを読んだ感想を一言で言えば唐沢俊一は同性愛についての本を書くべきだ」ということになる。だって、高校生の時からずっと研究してきたテーマなんだから本にまとめないともったいない。一応『トンデモ美少年の世界』があるけど、それ以降に知識も見識も深まっているだろうしね。もしかすると本を出すことによって「根本的な解決」に少しでも近づけるかもしれない。…でも、ガセを書かれるとかえって解決が遠ざかってしまうかも。

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