唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

男だけの世界。

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これで絶対に落とせなくなった。


 藤岡真さんのブログ唐沢俊一青山学院大学を卒業したのかどうか?という件についての論議が盛りあがっています。当ブログでの検証「トンデモない一行知識の世界」さんのご意見も参照。
 実は自分も『東京学食探検隊』に出てくる青山キャンパスの地下食堂で食事をしたことがあるのだが、テーブルでお茶を飲んでも別に怒られなかった。…どうして唐沢の思い出話ってどれもこれもリアリティがないんだろう。あまりにもリアリティがないので「そもそも唐沢は青学に入学すらしていないのでは?」という疑惑まで出ているほどだが、個人的にはさすがに入学はしていると思う。でないと、上京した理由がわからない。
 




 『熱写ボーイ』2010年1月号掲載の唐沢俊一『世界ヘンタイ人列伝』第10回は「サムライ達の世界・これが本当の「男」の道」である。…とうとう個人の話じゃなくなってしまった。ただ、『史記』にも「刺客列伝」があるし、『昭和ニッポン怪人伝』でカップヌードルとインスタントカレーの話をしていたのよりはマシか。

 武士たるものが金に目をくらませて武士道をないがしろにする、このイメージの原型というのは、『忠臣蔵』の吉良上野介とみて、まず間違いあるまい。原型というより集大成と言った方がいいかもしれない。

 「原型」「集大成」じゃ全然違うのでは。


 この後、津和野銘菓「源氏巻」の誕生秘話が書かれている。

 上野介は赤穂浪士討ち入りに先立つこと4年の元禄11年、やはり勅使饗応役になった津和野藩主・亀井隠岐守を徹底的にいじめぬいた。耐えかねた隠岐守は家老の多胡真蔭に、自分は明日、上野介を切って殺し、自分も切腹する、と告げた。多胡は殿様を制して、すぐに上野介の屋敷にかけつけ、津和野の銘菓でございます、と菓子箱を差し出した。上野介は不機嫌のままその菓子を受け取ったが、菓子にしてはやけにずしりとい。

 「ずしりとい」? まあ、「重」が抜けたんだろうけどね。東京三世社の編集者も校正はちゃんとしようよ。その辺の事情は額田久徳さんのブログを参照。なお、唐沢は多胡が上野介に贈った菓子について「カステラ風の生地に全部小判が包まれている」としているが、多胡が上野介に賄賂を菓子に隠して贈ったことについて疑問視する意見もあるようだ(多胡は『仮名手本忠臣蔵』の加古川本蔵のモデルとされている)。


 次に、浅野内匠頭磯田道史『殿様の通信簿』(新潮文庫)では女狂いで有名とされていることを紹介している。唐沢が書いていないので補足しておくと、『殿様の通信簿』で用いられているのは『土芥寇讎記』という史料。しかし、内匠頭は生涯側室を持たなかったので「女狂い」というのは疑問である。

 松の廊下事件で内匠頭が切腹、浅野家がつぶれたときに、浅野の領民が赤飯を炊いて祝った、という話があるくらいだから、よほど殿様の暗君ぶりは知れ渡っていたことと思う。

 三田村鳶魚『横から見た赤穂浪士』によると、伴蒿蹊『閑田次筆』に税の取立てに困っていた領民が餅をついて喜んだ話があるという。だから別に内匠頭の所業が問題だったわけではないのでは。

 女色にふけっていたという資料がある一方で、内匠頭は男色(ホモ)だった、という話もある。これは別に両立しない話ではない。領地にいればこそ、大名たちは好き勝手が出来るわけだが、江戸時代の大名というのは参勤交代が義務づけられており、一年ごとに国もとと江戸とで住むところを変えていた。
 ぜいたくな大名は江戸には江戸の女を置いてこれと遊び、国もとでは奥方だったり女中だったりを相手にしていたわけだが、浅野家は吝嗇(ケチ)で有名であり、それ故にあんな吉良のいじめにあったわけであるが、とにかく江戸用の女に手当てを支払うことがもったいなくて出来ない。だから、手近で間に合わせよう、というので、内匠頭は近侍の中小姓・片岡源五衛門に夜伽を命じ、それで男色の味を覚えたという。

 …またしても小学校高学年の社会科の勉強をしなくてはいけないようだ。学研キッズネットより。

さんきんこうたい【参勤交代】

江戸幕府(えどばくふ)が大名統制(とうせい)のため,諸(しょ)大名を一定期間,江戸(えど)に住まわせた制度(せいど)。原則(げんそく)として大名を1年交替(こうたい)で江戸(えど)と国もとに住まわせ,その妻子(さいし)は江戸(えど)に常住(じょうじゅう)させた。徳川家康(とくがわいえやす)*のころから一部の大名が行っていたが,1635年に武家諸法度(ぶけしょはっと)の改正(かいせい)で制度(せいど)化された。これによって大名は人質(ひとじち)のような形となり,国もとと江戸(えど)の間を往来(おうらい)する費用(ひよう)の負担(ふたん)が大きく,経済(けいざい)力も弱められた。

振り仮名がふられているので唐沢俊一にもわかりやすくなってますね。…っていうか「入り鉄砲に出女」って知らないのか。国許に奥方がいたんじゃ人質にならないんだって。いずれにしても、内匠頭が江戸にいる間に男色にふける理由はないわけなんだけど。あと、片岡源五右衛門ね。この後ずっと間違っているんだけど。

 元禄時代は非常にこの男色が盛んだった時代であり、赤穂事件のときの将軍・綱吉は、美少年だった小姓の柳沢吉保と深く愛し合い、彼が将軍になったとたん、吉保を側用人に召し抱えて、その愛に報いようとしたという。

 綱吉が将軍の座についたのは1680年。吉保が側用人になったのは1688年

これと同じことが内匠頭と源五衛門(原文ママ)の間にあった。殿様の愛を一身に受けた源五衛門(原文ママ)は何度も加増を受け、ついに350石を頂戴するまでになる。家老の大石内蔵助が1500石であるから、その4分の1近い石高を、一介の中小姓が貰ってしまったことになる。あの有名な堀部安兵衛でさえ200石、討ち入りの副将であった吉田忠左衛門さえも200石である。いかにホモ関係の愛が強いものかというところがわかる。

 堀部安兵衛高田馬場の決闘で名を上げて堀部弥兵衛の養子となるとともに浅野家の家臣になっているわけだから、家禄が少なくても別に不思議ではない。それに四十七士の中では吉田忠左衛門より原惣右衛門の方が家禄は高い(300石)。


 この後、上野介も男色家だったとする史料があるとして、上野介が内匠頭の小姓を譲ってほしいと申し出たのを断られ、それを恨んで内匠頭につらくあたった、としている史料がある、と書いているが、それぞれの史料の信頼性を検討している様子はないので困ってしまう。

 井原西鶴の『男色大鑑』には、男同士の愛で、相手に自分の心を伝えるために命を捨てるという話がいくつも書かれている。不思議なことに、女性に対してならあきらめられる恋愛感情も、男同士のそれだとなかなか思い切れずに、ヤキモチで相手を殺してしまったり、また自分の命を断ったりというところまで突っ走ってしまうのだ。それは、男同士の場合、肉体の結びつきが女性とのつきあいに比べてどうしても薄くなるため、精神的なつながりを強く求めるようになるためだ、と言われている。

 そうだろうか? 「男女関係のもつれ」で事件に発展するというのはよく聞くけれど、「男男関係のもつれ」(と言っていいのか)なんてあまり聞かない話だ。

 こういう風潮を日本に持ち込んだのは弘法大師だとよく言われているが、広まったのは名前にカマの字がつくことでも縁のある鎌倉時代武家が女のない戦場で、男同士で性欲を発散させたためだと言うのが定説である。

 鎌倉時代に起こった合戦はそんなに多くないと思うのだけども。承久の乱元寇か?

そして、そもそも徳川将軍家というのが、男色将軍家と言われるほどにホモが多い家柄だ。徳川家康は自分が今川家の人質としてつらい少年時代を送ったいたとき、家臣の鳥居彦右衛門元忠が、若き主君の足を抱いて温めたという。この二人は肉体というよりは精神的な男色関係であったようで、はるか後年、家康が石田三成と戦ったとき、伏見城を取り囲む9万3000の石田軍を、62歳になった元忠は会津攻めに向かっている家康が立ち戻る時間を稼ぐために自ら進んでその守備を願い出、よくこれを長期間にわたって守り、最後は切腹して死んでいる。功名をあげることを願う当時の武士としては異様な忠義の死であり、単なる君主と家来の関係を超えて、男色的な心理がそこにあったと見ていいだろう。

 関ヶ原の戦いは「東軍」と「西軍」の戦いである。「西軍」の総大将は毛利輝元。一般的には、関ヶ原に集まった「西軍」の軍勢は約8万とされているので、伏見城を包囲した軍勢はそれより1万も多いことになってしまうのだが。それにしても、「忠義」も男色に変換してしまうのか。

 続く二代目将軍の秀忠は凄まじい恐妻家であり、こういう人間は女性恐怖症になる。で、当然のことながら男色に走り、森川重俊という近習といい関係になった。
 関ヶ原では、二人揃ってあの真田昌幸にホンロウされて、戦場に間に合わなかったりしている。秀忠は彼への愛の証として森川を大名に取り立て、さらに老中に列しているが、寛永9年、秀忠が急死すると、森川はその後を追って殉死している。正しい男色の形だろう。

 恐妻家で女性恐怖症だから「当然のことながら」男色に走る、というのが凄いな。なお、森川重俊が老中になったのは秀忠が隠居した後のことである。

 続いての三代将軍家光、これは何しろ若い頃は女装癖があったとされているくらいの変態将軍である。映画『柳生一族の陰謀』にもあるように、彼は小さいときから政権奪取のための道具として扱われ、人間不信に陥っていた。こういう人間もまた、心ではなく肉体での結びつきを求めて変態に走る。もちろん、男ばかり相手にしていたので(原文ママ)嫡子が出来ない。これではせっかく将軍職につかせても徳川家が断絶すると乳母の春日局がむりやりかみさんを持たせたが、それと別居してまで男との関係を保ち続け、結局、春日局が、ボーイッシュな百姓の娘を見つけ出してきて、これを側室として差し出して、やっと男児出産まで漕ぎ着けたという。

 …唐沢俊一の中ではちょっとしたことで「変態に走る」ことになっているようだ。…って、いやいやいや、同性愛は現在では変態性欲に含まれていないんだって。そして、江戸時代においては男色・衆道というのが奇妙な嗜好であると考えられていなかったことにも気をつけるべきだろう。もうひとつ、前の方では男同士の愛では「精神的なつながりを強く求める」と書いてあったのに、今度は「心ではなく肉体での結びつきを求めて変態に走る」としているのはどうなんだろう。

 ……こんなエピソードにことかかない徳川家であるが、特に赤穂事件の時の将軍だった綱吉は特筆もののホモ将軍だった。大岡越前守の兄はこの綱吉の要求を断ったために島流しにあっているという。

 大岡忠相の兄である大岡忠品は八丈島に流されているが、流された理由は不明。

 ともかく、元禄時代は日本に咲いた一時のホモ天国の時代であった、と言えるだろう。そう言えば、大石内蔵助の息子の主税は、芝居などでは京都で遊び狂う父親をいさめたりしているが、実際は自分も四条河原で、歌舞伎俳優の相山幸之助というものと男色の契りを結んで遊び、あまり遊び過ぎて、少しいい加減にしろ、と父親の内蔵助から注意を受けている。芝居とはまるで逆なところがオモシロイ。

 先にも挙げた三田村鳶魚『横から見た赤穂浪士』によると、主税は内蔵助のすすめで遊んだ際に幸之助と出会っている(内蔵助が注意したかどうかは不明)。そして、主税の死後、幸之助は出家したという。…これも「男色の正しい形」として紹介すればよかったのに。

 とにかくにも(原文ママ)、事件は松の廊下で起こり、あの討ち入りは起った(原文ママ)。すでに武士が武士の意気地を失っていた時代だっただけに、この事件は長く人々の口に伝えられたが、また、
「なぜこんな事件が起こったのか」
 が長いこと謎とされているのも事実だ。それは、日本人が上から下まで男色文化に染まっていた、いわば性倒錯感覚に支配されたヒステリー時代だったため、と解釈するのが、尤も(原文ママ)適しているのではあるまいか。

 松の廊下の刃傷は増上寺に引き寄せられた「徳川を祟るパワー」のせいじゃなかったっけ? 同じ月に出る雑誌で全く違うことを書いているとは凄いなあ。赤穂浪士の討ち入りと男色がどのように関係しているのかもさっぱりわからない。そんなこじつけが許されるなら、最近の猟奇事件について「日本人が上から下まで萌え文化に染まっていた、いわば性倒錯感覚に支配されたヒステリー時代だったため」とでも言ってしまえそうだ(『社会派くんがゆく!』でそのうちやるかも)。 
 しかし、唐沢の同性愛に対する見方にはいささか辟易とさせられる。江戸時代において男色がさほど奇妙な嗜好と受け取られていなかったことをスルーして、「あれも男色」「これも男色」と変態行為として紹介しているのはどうかと思う。「差別的だ」と言い募りたくはないが、隙の多い迂闊な書き方であることは間違いない。まあ、「マジソンズ博覧会」からの連続パクリ記録がストップしたのはいいことだけれども。



 同人誌制作に入らなきゃいけないのに大ネタ続出なのは一体全体何かの罠なのかと。

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