唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

デリダって誰だ?

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karasawagasepakuri@yahoo


明日11時45分から日本テレビ系で放送される『スクール革命!』に唐沢俊一が出演するのでみんなで観よう!


 本題。今回は『東大は主張する2000』(シーズ・プランニング)P.8〜17に収録された唐沢俊一のインタビューを紹介する。もともとは東京大学新聞』に掲載されたインタビューである。なお、唐沢の肩書は「B級学評論家」となっている。

 21世紀が知の世紀、と言われる時代だとすると、間違いなくその知のかなりの部分を受け持つのがオタクと呼ばれる人々ですよね。もちろん、オタクを嫌う人々はまだ数多いし、正直言って確かにかなりの問題を持った人種なんですが、それでも今のわれわれはオタクの持つ知識、情報量、そして発想の余慶を享受しなければ未来を生きていけないことは明らかです。
 僕などもそのオタクの一人、それも代表の一人、と呼ばれているわけですが、正直言って、オタクという生き方、オタクという考え方のその源がどこにあるのか、数年前まではあまり考えたことがなかった。オタク第1世代と呼ばれる僕らを育て、僕らの思考パターンを作ってきたものは何かを知らなければならない、という欲求が、21世紀を迎えるにあたってむくむくと湧いてきたわけです。

 「オタク」をやたら持ち上げるなあ、と思ったら自分を「代表の一人」に位置づけている。ちゃっかりしてるね!

 ところが1970年代に高度経済成長が終わりかけた頃から、現代思想では答えが見つからないんじゃないかって、日本人もやっと気がつきはじめたんですね。このあたりから、小松左京さんあたりが音頭をとった、民俗学文化人類学、さらに行動生物学などの大衆レベルでのムーブメントが巻き起こってきた。これはそれまでの、自分という存在の成り立ちを大きな思想潮流の中のひとつの事例として捉える考え方でなく、個々の文化的歴史的な伝統の中、生物としての必然の中で形づくられた個性あるものとして捉えたいという欲求のあらわれだったと思うんですね。小松さんのこういった活動は創作に比べてあまり評価されていないようですが、実はわれわれの世代がアイデンティティを獲得するのにあずかって、大きな影響があったと思います。

 それならば、1980年代初頭のニュー・アカブームはどうなるのだろう。1970年代の日本で退潮したのは現代思想ではなく共産主義ではないだろうか。

 よく、僕は現代思想を軽蔑している、などと言われているんですが、純粋学問としては非常に興味も持っているし、面白いと思うんですよ。しかし、これを現実の自分というものを規定するツールに使用できるか、というと、首をかしげざるを得ない。われわれ在野の者の考えは、常に“それは何の役に立つか?”から起こされるんです。例えば80年代に浅田彰さんの著作から、現代思想のムーブメントが起こってきましたけれども、それが現実問題の解決の何の役にも立たなかったことはオウム真理教の事件であまりにも分明になってしまった。オウムのインテリ幹部連中はあきらかに、自分の居場所を哲学や思想では見つけられず、あのようなキッチュであやしげな宗教の内部でそれを発見した。それは何故かというと、曲がりなりにもオウムはその現世と自分とのアツレキ(原文ママ)に、何か積極的な解決を示そうとしていたからなんですね。私はあそこで現代思想は完全に大衆から見放された、と思っています。

 ポイントその1。唐沢俊一「無用な知識」である「一行知識」を収集していたのに、哲学や思想を有用か無用かで判断するのはヘン。
 ポイントその2。前に「現代思想では答えが見つからないんじゃないかって、日本人もやっと気がつきはじめた」と言っているのに、その後で「現代思想のムーブメントが起こってきました」というのは矛盾していなイカ? 
 ポイントその3。オウムとニューアカについて論じるなら浅田彰よりも中沢新一の名前を出した方がいいのでは。
 ポイントその4。オウムの信者はみんながみんな「哲学や思想」で自分探しをしていたわけでもないのでは。「現代思想」を否定したいのかもしれないが、話の流れが強引である。

 若いころに僕も悩んで哲学にかぶれて、ヘーゲルから西田幾多郎まで本を漁ってみたんですが、その結果と言えば、何か利口になったような気にはなったけど(笑)、自分が何かという答えは結局見つからなかった。むしろ、司馬遼太郎などの小説から、学ぶことが多かったな。

 要するに「哲学は難しくてわからなかった」んだよね。はっきり言えばいいのに。

 で、中途半端にそういう問題をほうり出したまま、僕はオタク活動にのめりこんでいったわけです。オタクムーブメントの発端は、“われわれが子供時代に聴いていたテレビマンガ(アニメのことをその当時はこう言っていた)の主題歌をもう一度聴きたい!”と、われわれの世代がラジオのDJ番組にそういう曲を大挙してリクエストしはじめたことから始まっているんです。だから、最初は“なつマン(懐かしのテレビマンガ)ブーム”とか言われた。これが何を意味するか、長いこと判然としなかったんですね。
 それが明確になってきたのは、つい最近、「アメリカ人にはデリダは要らない。我々にはジミ・ヘンドリクスがある、我々にはハリウッド映画がある」って主張する、アメリカのカミール・パーリアという学者の本を読んでからです。デリダなどはヨーロッパの片田舎の思想でしかない、なぜそんなもので自分たちの存在を測らねばならないのか。ジミ・ヘンドリクスを聞き、ハリウッド映画を見てハリウッド映画を見てアメリカ人は育ち、人となったわけだから、その研究をしないと本当のアメリカ人は分からないんだっていう趣旨なんですが、それを論じた彼女の文章(『セックス・ポップ・アメリカンカルチャー』)を読んだときには膝を叩きましたね。長いこと僕が漠然と感じてきたことはこれだったんだ、って目からウロコが落ちた。

 結論から先に書けば、唐沢俊一カミール・パーリアの主張を誤解している。そもそも彼女の著書のタイトルからして間違えている。正しいタイトルは『セックス、アート、アメリカンカルチャー』である(日本語版は河出書房新社から出ている)。
 唐沢が読んだのは『セックス、アート、アメリカンカルチャー』所収の『ジャンクボンドとコーポレイト・レイダー』という文章だと思われる。その中の一節に次のようにある。同書P.296より。

 アメリカの六〇年代には、すでに革命的な思想のすべてが包含されていた。わたしたちにはデリダは必要ない。アメリカにはジミ・ヘンドリックスがいる。この黒人の天才が炎のように燃えたたせるサイケデリックなギター演奏の中で、時間、空間、形体、声、人間そのもの、すべてが脱構築(デコンストラクト)される。たゆたうような東洋風の音のたわみの中で、ヨーロッパ人を縛っている分類のくびきが解かれる。大地、空気、水、火などの自然の要素をとりこんだヘンドリックスの過激な芸術表現は、自然と文化の両方に訴えかける。それにくらべれば、あくまでも社会にこだわるフランス思想などちっぽけなものだ。デリダとちがって、サイケデリック脱構築はたった一つの目的―拡大されたヴィジョンを視ること―のために身の安全と既知の世界を破壊する。(後略)

 藤田和之がジェームズ・トンプソン戦で『パープル・ヘイズ』を入場テーマに使ったのはよかったなあ(試合自体も壮絶だった)。
 それはさておき、唐沢は誤解しているようなのだが『ジャンクボンドとコーポレイト・レイダー』という文章の主眼は、フランス現代思想およびそれを崇拝する学者たちへの批判に置かれている。デリダだけでなくラカンフーコー(この人が一番こっぴどくやられている)も学問としてダメだと否定したうえで、彼らよりもアメリカン・ポップ・カルチャーの方が現代を捉えていると言っているのである。唐沢の書き方だとパーリアは素朴なナショナリズムを訴えているかのように読めてしまうが、そんな生易しいものではない。逆に言えばパーリアの主張を利用して日本のアカデミズムを攻撃すればよかったのに、とも思うのだが。日本にだってフランス現代思想を崇拝する学者はいるだろうからね。もっとも、『東京大学新聞』でアカデミズムを攻撃するわけにもいかないだろうし、批判できるほどフランス現代思想を勉強していないから仕方がなかったのだろう。ついでに書いておくと、パーリアは主張の過激さばかりが注目されがちだが、『ジャンクボンドとコーポレイト・レイダー』では学生には基礎的な教養を徹底的に勉強させるべきだという主張をしているあたり、単に過激なだけの人ではないとわかる。

 オタクイラストレーターの水玉蛍之丞さんという方がいらっしゃるんだけど、彼女はマンガ、アニメ、SFなどを語るとき、“自分はそういうもので出来ているから”という言い方をされているんですね。これは図らずもパーリアの言と重なります。なぜ、われわれオタクはアニメやマンガを特権視するのか。それは、自分を構成している要素だから、なんですよ。日本にはソシュールデリダを読んでいる人よりも、手塚治虫を読んでる人の方がはるかに多いわけですよね。手塚治虫なんかしょせんマンガで、もっと人間の本質に近づいた現代思想をやらなきゃいけないって言われても、僕は日本人はデリダじゃあ“できていない”と思うんですよね。手塚治虫を研究しないで、日本人のアイデンティティとは何かなんて言えないんじゃないか、すでに日本人の行動様式を左右しているのはジブリの宮崎アニメなんじゃないか。それが私の考え方の根本なんですよ。(後略)

 くりかえしになるが、パーリアは「自分を構成している要素」だからアメリカン・ポップ・カルチャーをフランス現代思想より上位に置いているわけではない。彼女はフランス現代思想には誤りが多いと主張しているのだ。だから、唐沢はデリダもいいけど手塚もね!」みたいな書き方をしているが、それはパーリアの主張とは重ならない。そもそも唐沢がデリダを読んだらしき形跡は見当たらないのだが(ラカンフーコーも同様)、どうしてわざわざデリダの名前を持ち出したのかわからない。デリダを読んでいるなら東浩紀を攻撃した時(『検証本VOL.4』を参照)にデリダについて何かしら言うはずだよなあ。
 それに、唐沢が手塚治虫を持ち上げているので驚いてしまうが、デリダ手塚治虫を比較するのはかなり無理がある。哲学と漫画を比較されても…。欧米でも子供の頃からデリダを読んでいる人は少ないだろう。だいたい、唐沢はかつて「自分を構成している要素」であるはずの『ゴジラ』を否定する投稿を『ぴあ』に送っていたではないか(『検証本VOL.0』を参照)。


 この後、「オタク第一世代」は戦争も学生運動も知らない世代なので「モノ」によってアイデンティティを築いてきた、というお馴染みの話になる。

 そういう“モノ”の力を今まで真面目に捉えてこなかった、その空白を取り戻さなきゃいけないと思うんですよ。借り物の思想とかではなくて、具体的に自分を育てて来たものを分類し、整理し、そしてそれはわれわれの人格にどう影響を与えていたのか、ということを、現段階では研究まではいかないにしろ、将来のそれに備え、ラベルを貼って整理分類しておかなくちゃいけない。主要じゃないものだからと見向きもしなかったものを今語っておかないと、我々の自己というものは空白になってしまう気がするんですよね。

 「借り物の思想」というのはどういうことを意味しているのだろう。思想が「我が物」になるか「借り物」になるかを決めるのは各個人の努力の結果でしかないのは当然の話だが、唐沢の口ぶりだと大学で勉強した思想は所詮借り物であるかのように読めてしまう。唐沢も一応大学では勉強しているだろうに…。まあ、唐沢の著書を読んでいると「借り物の思想」にはしばしば出くわすけどね。


 この後、唐沢は「すべての学問は在野の好事家から始まる」として、伊藤悟が『ひょっこりひょうたん島』のデータを記録していたことを紹介しつつ、在野の人間が残したデータを研究の基礎にしていくべきなのに、日本の大学ではそれができていないという主張をしている。

 イギリスあたりでは伊藤さんみたいなエキセントリック・ピープルを本当に大事にします。OED(オックスフォード英語辞典)は伝統的に、項目として載せた単語の文例を一般から募集します。つまり、その単語がその意味で用いられた最古の文例はいつごろの、どんなところの文章か、ということを、編集部だけで調べていては時間も予算も足りっこない。そこで募集すると、いろんな人がこれが一番古い文例だって調べて、その成果を送ってくるんですよ。その20世紀初めての版を作っていたとき、その投稿者の中にやたら古い文献に詳しい奴がいて、おかげでかなり画期的な発見もできた。それで、是非御礼したいって話になって探したんですけど、その投稿者の住所を調べたら、なんと刑務所だった。無期懲役刑の囚人だったらしいんです。退屈だったから古今東西のあらゆる本を片っ端から読んだそうで。
 これまでの日本のアカデミズムは、そういった在野の奇人変人を排除してきました。南方熊楠なんかがいい例でしょうね。日本の学問が基礎分野で海外のような足腰の強さを持てないのは、そういう野の知を利用できない体質にも関わっているような気がします。

 OED編纂のエピソードについては、サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人』(ハヤカワ文庫)で詳しく描かれているが、ウィリアム・C・マイナーは精神病院からOEDの編纂に協力するために投稿を続けていたのである(マイナーは男を銃殺した罪に問われたが、精神異常が認められたため保護処分となっていた)。唐沢の書き方だと『終身犯』みたいだが(あの映画も実話が元になっている)、マイナーは妄想に苦しみながら仕事を続けていたのであって、「退屈だったから」というのは適切なのかどうか。
 あと、南方熊楠は本人がアカデミズム嫌いだったこともあるだろうし、日本のアカデミズムの体質についてあれこれ言えるほど、唐沢は日本の大学の事情に通じているのだろうか。唐沢俊一東大の講義に参加できるくらいなんだから、日本の大学は「在野の奇人変人」を排除していないようにも思うのだが。

 僕は、今のオタク・ブームをちょっと懸念しているんです。あまりにマスコミがオタクオタクと騒ぐことで、正統的アカデミズムがその反動でゆり戻しを起こさないか、とね。オタクは僕に言わせれば、アカデミズムを畏怖させるものではないんです。オフ・アカデミズムとして、別個の価値観で動き、そして、その蓄積されたデータが、やがてはアカデミズムにも余沢を及ぼすものでなければいけない。

 やっぱり「ブーム」が嫌いなのか。結局のところ、唐沢はオタクに関連した研究が大学で扱われることを快く思っていないのだろう。理由はよくわからないけれども。実際に大学でオタク系の研究をしたり学生に指導している人たちも結構大変な思いをしているのではないか?と思うのだけど、唐沢にはそこまで思いが至らないのか。

 事件の記録は残ります。しかし、日常の記録は残らない。太平の世を謳歌していた江戸の人が何を考えていたのか、どんな人生観を持っていたのかということなどは、実は今でもよく分からない部分が多い。誰もそんな記録を残そうとしないからですね。だから、一方で江戸を理想郷のように語る杉浦日向子のような人がいるかと思うと、小谷野敦さんのように、江戸はそんなところじゃない、人権も衛生思想もない暗黒街だったんだ、と唱える人もいる。将来、われわれの生きた平成に関し、そんな論争が起こる可能性も十分にあるんですね。

 小谷野敦『改訂新版 江戸幻想批判』(新曜社)P.13より。

 けれども、私は近世が暗黒時代だったと言いたいのではない。そういうことではなく、<江戸ブーム>のなかで、近世文化に対する研究が、低いレヴェルで推移していることを憂えているのである。

 パーリアに続いて読み違えている。それに『江戸幻想批判』の中で杉浦日向子の名前は冒頭に一度出てくるだけ(主なターゲットとなっているのは佐伯順子田中優子)なので、どうして杉浦なのか?と不思議に思う(「裏モノ日記」2000年3月17日も参照)。唐沢による杉浦日向子の「追討」を読む限り(「discussaoの日記」を参照)、何か含むところがあったのかも、と邪推したくなってしまう。

 学問と呼ぶにはまだ値しない未熟な段階にしか過ぎないけれども、僕はB級学を今後、そういう時代の記録のツールとして、もう少しシャープな形にして出していきたいなって思ってるんです。とりあえず、どういうコンセプトでものを記録するのか、そういうガイドラインがないと、そもそもほぼ無限といっていいほどにあるモノを集めることなど不可能ですから。で、B級学のまず最初の本で、マンガを取り上げたのは、われわれ戦後高度経済成長期以降の日本人にとって、まずマンガこそ、理解しなくてはいけない日本文化の代表じゃないか、と思ったからです。 

 「B級学のまず最初の本」とあるが、『B級学【マンガ編】』(海拓舎)以降続編は全く出ていない。

もちろん、かなり前からマンガをアカデミックな視点で取り上げようという動きがないわけではない。しかし、どうもそういうところで大学の先生が研究なさるのは評価の定まったようなものになりがちなんですよ。鉄腕アトムだとか、のらくろ、ひどい時には鳥獣戯画(笑)。学生たちが今、一生懸命読んでるマンガは扱わない。マンガは今が大事なのにね。少年マガジンとジャンプの部数戦争みたいに。名作と定まった作品を分析するテキスト学ではなく、マンガ流行のうねりが、日本にどう影響を受け、どう影響を与えていったか、その関係から捉えないと、ただの作品分析で終わってしまう。そう考えてあの本を書いたわけで、その意味で、ある大学であの『B級学【マンガ編】』を教科書に使ってくれる先生がいらっしゃって、お話をうかがったときにはうれしかったですねえ。

 このくだりはいいことを言っていると思う。ただし、唐沢本人が自分の言っていることを実行できていないのが問題なのだけど。「マンガは今が大事」と言っているわりには最近のマンガに疎いし、最近のアニメや特撮をロクに観てもいないのにクサしているしね。…それにしても、ふだんアカデミズムを嫌っているのに、いざ自分の本が大学で教科書になるとすっかり喜んじゃっている唐沢俊一が微笑ましい。

 21世紀を迎えるにあたり、現代人が今一番関心を抱いているのは個々のアイデンティティ確認という問題です。ここまでのアイデンティティ危機をいったい何が招来させたのか、というと、自己形成の中での閉鎖性否定なんですね。他人の考えと協調しよう、みんなで力をあわせよう、国や生まれで人を分類するのはよそう、という、開放系一本槍で戦後の世界はやってきた。……ところがですね、成長期においてアイデンティティを形成していくためには、ある程度の閉鎖性が絶対必要なんです。ああいう奴には絶対なりたくない、こういうことだけはしたくない、と茫漠たる価値観の平原の中に囲いを作り、よそ者を排除することで、自分の存在がやっと見えてくる。ところが、安直な平和理想主義がはびこり、開放々々とやっているうちに、自分の居場所がどこなのか、わからなくなっちゃった。
 そんな中で、なんでオタクがここまで自己主張ができるまでに増えたかっていうと、価値観を閉じている小さな共同体の中では、比較的楽に自分を認識できるんですよ。オタクのアイデンティティというのは、どれだけ自分に知識があるか、ということだけではかれるから、自己規定も比較的安直にできるんですね。これがいいことだとは言いませんよ、さすがに(笑)。でも、アイデンティティを見失って右往左往している人々よりもある意味でオタクは常に自己規定を極めて明確にできるわけです。その自己規定と世間との齟齬が大きな問題として浮上しているのが現状なわけですが、一概にオタクで世間とのつながりがないからダメだ、というこれまでの理論は、もう通用しない。

 社会の枠組みと一般的な人間関係をゴッチャにしているおかげでおかしな話になっている。オタクでない人も当たり前のように「小さな共同体」を作っているわけだし、また、オタクの「自己規定」はきわめて脆いものだと思う。だからこそ、「オタクであるか/そうでないか」といった「オタク論」は注目を集めやすく、唐沢や岡田斗司夫などが「オタク論」を長々と続けてこられたのもそのためだろう。唐沢俊一が10代後半から現在に至るまで、小さな集団の中に居続けているのは、アイデンティティを確認するためなのだろうけどね。「ああいう奴には絶対なりたくない」「よそ者を排除」し続けてきたわけだ。…なんか後ろ向きだな。

 共同体が無制限に大きくなっちゃうと、その集団の中での個性がどんどん希薄になっていって、無名の一人になってしまう。所詮自分なんて平凡で必要のない人間だって思うことは、人間の中で大きな恐怖だと思うんですよ。個々のアイデンティティが溶けてなくなっちゃうっていう。それを避けるために、とりあえずこの空間の中では俺はこれだけの知識とこれだけの情熱を持っているっていうのを証明するために、自分のエッジを高くしてやる。そんな自己防衛の行きついた先がオタクなんですよ。これからは、そのオタク価値観を非・オタクサイドの人々に、これはあなたがたにも有益なものなんだよ、と教え、いたずらな恐怖心を抜き去り、かつ、共存の方向を見つけていくことが肝要でしょうね。オタクというものを正当化させて意味付けをする段階はすでに終わったとみていいでしょう。次に、今の日本という共同体の中でどうやって活性化させ、活用して行くか。オタク文化があるおかげで日本の文化の底が上がるような、オタクの平和利用法(笑)を考えないといけない時代になってるんですよ。

 …なるほどねえ。「濃い」ことがそのまま自己の証明になっているわけだ。自分は今までほとんど集団に属することなく、同様の趣味を持つ友人を持つこともなく、オタク趣味をやってきたので、「濃い」=個性としている唐沢の話がよく理解できない。もうひとつ、唐沢俊一にとっては「平凡」であることは恐怖なのだろう、と感じた。だから、「個性的」であろうとするわけだ。あくまで私見だが、「個性」というものはどうしたって浮き上がるもので、個性的であろうとすること自体が「平凡」な人間のやることなのだ、と思う。そして、「平凡」というのは別に悪いことではない、とも思う。
 それに、「共存の方向を見つけていくことが肝要」というのは「地下にもぐれ」と矛盾していなイカ? 


 …このインタビューを読んでいると、唐沢俊一アカデミズムへの憧れを感じてしまう。だからこそ、読んでもいないであろうデリダの名前を出したのだろうし、発言もいつもに比べるとだいぶ穏当である(その結果、よそでの発言と矛盾してしまっているのだが)。
 唐沢俊一がオタクのために学問的に貢献できたことってあるのだろうか?と考えてしまった。反面教師としての面は除いて。


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