唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

オッタークロン氏の手。

彼のサンドウィッチにハムが入っているなら、それは誰かがそこに入れたからに違いない。
 ブログから文章がパクられたのは、誰かが盗用するために、そのブログを見たからに違いない。」



 黒沼健の訳に拠った。




 今回は、唐沢俊一岡田斗司夫『オタク論!』(創出版の中に出てくるオタク関係の話題について考えてみる。この本に収められた連続対談の収録中(2006年5月)に岡田によるイベント「オタク・イズ・デッド」が開催されたために、「オタクの死」がしばしば語られているのだ。



 まずはP.253より。

唐沢  (前略)アニメなどの実際的な知識で(範疇は狭いながら)深い考察ができるという、旧来の教養体系とは全く違う体系を、岡田斗司夫という人が『オタク学入門』(太田出版、1996年)で構築してしまった。オカルティズムで失敗したアカデミシャンたちが、今度はオタクという分野が勃興しはじめている、ここでその世界に論理的分析を持ち込めば食えるぞ、と思って続々参入してきて、みんな失敗したわけですよ。彼らを論破したのはごく一般的なオタクたちですよね。彼らには教養はなかったけど、あふれるオタ知識と強烈な愛情があった。これにアカデミズムは一敗地にまみれたわけです。(後略)


 この後、唐沢は「学者・イズ・デッド」とまで言っているが(P.257)、唐沢を東大の講義に呼んでくれた吉田正高先生もすでに死んでいたのだろうか(2008年10月23日の記事を参照)。某大学で『B級学【マンガ編】』(海拓舎)が教科書として使われたのを喜んでいたくらいだから、唐沢さんって実はアカデミズム大好きなんじゃないの?と思うのだけど。
 それから、唐沢が批判していた東浩紀にしろ斎藤環にしろ、「食える」と思ってオタク関係の本を書いたわけじゃないだろう。特に斎藤は医師としても働いているのであって。それに「論破」というが、唐沢が東と斎藤の著書に対して加えた批判といえば、細かいデータの誤りの指摘が主である。ミスを指摘すること自体は正しいし、ミスを指摘することによって著者の信用度を低下させる意味合いはあったのだろうが、それが東と斎藤の論考の核心を衝いていたかというと甚だ心許ない、と言わざるを得ない。「細かいミスはあっても汲むべきところはある」と思う人もいるだろうからね。むしろ「どうして唐沢さんは東さんや斎藤さんにそんなに厳しいの?」と不思議になる。『オタク学入門』をものすごい褒め方しているから余計にそう思う。向こうにオタク関係の知識を教える代わりにアカデミックな知識を教えてもらう、とかそーゆーWin-Winな関係を作ればよかったんじゃないの?と好き勝手なことを言ってみる。…まあ、その後、唐沢の著書に東や斎藤どころでない数々の「細かいデータの誤り」があることが発覚したのはかなり痛かったし、それに『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を「トンデモ本」扱いしたのはアンフェアな行為であった、と何度目になるかは知らないが記しておきたい。
 「学者・イズ・デッド」にしろ「オタク・イズ・デッド」にしろ、結局のところは自分にとって都合の悪い存在は「死んだ」「なかった」ものにしたいという心の表れにすぎないのではないだろうか。実際、唐沢俊一がアカデミズム系のオタク・サブカル関連の論考に言及したのは、伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』(NTT出版)批判がおそらく最後で(この件は後日あらためて)、たとえば斎藤環が2011年に出した『キャラクター精神分析』(筑摩書房)には触れた様子がない。『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫)はあんなに批判していたのに。そういえば、宇野常寛ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)もスルーしている。どうしてアカデミズム批判をやめたのかは知らないが、アカデミズムがオタク・サブカルを研究テーマにしなくなったわけではないので、そうなると「デッド」したのは学者ではなく唐沢俊一だった、ということになってしまわないだろうか。



 
 
 P.259より。

唐沢  (前略)岡田さんの『オタク・イズ・デッド』に対する感想で最も多かった勘違いが「萌えとかエロゲーがわからなくなったから岡田はオタクが死んだと言っているからに過ぎない」ってやつね。萌えのような“わかる必要のない”個人的感覚的嗜好が主流になった時点で、オタクは世界を語れる理論ではなく、一ジャンル化してしまった、という事実を指摘しているのに過ぎないんだけどねぇ、実際は。


 
 「萌えとかエロゲーがわからなくなったから岡田はオタクが死んだと言っているからに過ぎない」という理屈は「オタク・イズ・デッド」および『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書)に対する批判としては確かに不適当である。その理屈だと、岡田斗司夫がかつては萌えとかエロゲがわかっていたみたいになってしまうが、実際のところはそんな時期など存在しない。オタクが「世界を語れる理論」だった時期もあるのかどうか。
 岡田と唐沢俊一「萌え」について一貫して冷笑的な態度をとってきた人で、本田透電波男』(講談社文庫)への反応などは特にわかりやすい(2009年5月12日の記事を参照)。ただ、興味深いのは彼らと同世代でも「萌え」ている人がいることで、一例を挙げれば当ブログではすっかりおなじみの山本弘会長と唐沢なをきはしばしば女の子キャラへの好意を率直に語っている。だから、「オタク第一世代は“萌え”が理解できない」という話にはならないのであって、「萌え」への感度というのはあくまで個人的な問題なのだろう。
 また、岡田と唐沢俊一の場合には、「感度」とは別に「実在しない女の子」を好きになったり可愛く思ったりすること自体を恥ずかしく思っているフシがあるように感じる。それでいて、この2人はあけすけな下ネタ話を堂々とやったりするので、恥を感じるポイントは人それぞれなのだな、と思ってしまう。『オタク論!』P.96で唐沢俊一が指摘している、三島由紀夫北杜夫『楡家の人びと』(新潮文庫)に登場する少女に「萌え」ていた話などは、「萌え」を擁護するために結構有効だと思ったので、個人的に調べておこう。唐沢俊一にはいろいろと教えられるところが多い。



 「オタク・イズ・デッド」および『オタクはすでに死んでいる』を考える時に大事なのは、「そもそも岡田斗司夫による“オタク”の定義は本当に正しいのか?」ということではないか。「オタク」の定義が岡田と同じであれば「オタク・イズ・デッド」に納得するだろうし、定義が岡田と違っていれば「いや、全然死んでいませんけど」と思ってしまう。このように書くと何やら宗教めいた話になってしまうが、とりあえず「萌えやエロゲーがわからないから」「最近の流行についていけなくなったから」といきなり批判するのではなく、前提から疑ってかかる必要があって、来たる岡田検証でもそのようにやっていくつもりである。で、『オタク論!』で岡田が語っている「オタク」像というのはどうにも奇妙である。P.97〜98より。

岡田   (前略)これまで、オタクになるのは難し過ぎましたよ。オタクは勉強も必要だし投資も必要だし、しゃべれないといけないし、世間の冷たい目にも耐えないといけないし、オタクって実はめちゃくちゃハードル高かったんですよ。でも、萌えは簡単。わかればいいんです。萌えればいいんです。

 …結局、例によって「オタク=エリート理論」なわけだが、この「オタク」像は果たして世間一般の「オタク」像と合致するのだろうか?と疑問に感じる。オタクがそんな修行僧みたいな人ばかりとも思えないし、「あの人はアニメ大好きだけどしゃべれないからオタクじゃないよね」とか言わないだろう。それに「萌え」にも「世間の冷たい目」は注がれているのではないだろうか。岡田は「今のオタクは差別されていない」と思い込んでいるようだが(2011年7月6日の記事を参照)、おそらく年下のオタクが楽しそうにしているのを見てそのように考えてしまったのではないか。…なんだか申し訳ない。あと、「萌えは簡単」って言っているけれど、ならば岡田も唐沢俊一も「萌え」てみせてほしいものである。



 P.255〜256より。

岡田  整理すると、人間が幼児化することを理論で擁護したのがオタク化なわけですね。で、アニメとかマンガを自分が好きだというのを理屈で正当化するというのがオタク的な行為であり、一番最初にそれをスタートさせたのが『オタク学入門』であると。オタクが二層化していて、「幼児」と「オタク」に分かれているわけですね。「幼児」というのは、趣味としてアニメやマンガが好き、萌えキャラが好きという人たちで、それを理論化して正当化するのがオタクだと。僕は『オタク学入門』で、オタクとは何かというと、幼児的趣味に対して大人の知性で葛藤を持つことだと書いたんですね。葛藤を持つから正当化しようとしたり、正当化できなかったりする。そういう知性のあり方がオタクだと僕は思ってたんです。

 繰り返しになるが「そもそも岡田斗司夫による“オタク”の定義は本当に正しいのか?」という問題である。岡田の思いは別としても現状では「趣味としてアニメやマンガが好き、萌えキャラが好きという人たち」が「オタク」だと考えられていて、葛藤の有無、理論の有無で区別されているわけではない。そして、これも繰り返しになるが、岡田が「幼児」と呼んでいる人だって大人になって子供向けのジャンルを楽しんでいることに内心葛藤を感じていると考えられるし、自らの趣味によって周囲と摩擦を抱えていることも有り得るだろう。いや、平穏無事でいる人の方が少ないのではないか。他人を思いやることなく簡単に「幼児」と呼んでしまえることにこそ幼児性を感じるのだが、それはさておき。
 個人的には、「いい歳して子供向けのジャンルが好きであること」をどれほど理論武装して正当化しようとしてもどうしても無理があると感じていて、結局は「どうしても好きなんだ」という気持ちに立ち返った方がいいような気がしている。他人に自分の趣味を理解してもらおう、とするときも理屈で押すよりも気持ちを素直に話した方が相手に伝わるものがあるのではないか、とも思う。もちろん、それでも理解してもらえないこともあるだろうけれど。
 理屈を優先するか気持ちを優先するかは人それぞれであって、どっちが正しいとは決めつけるつもりはない。岡田は理屈の方を重視する人であって、それ自体は間違いでもなんでもないのだ。
 …そう思って、『オタク学入門』(新潮文庫)の中にある「オタクとは何か」を書いてある箇所をチェックしてみたのだが…。同書P.55〜59より。

たとえば、もっともポピュラーな疑問、「どうしてオタクは、いい年して子供番組なんか見ているのか」。

答は簡単だ。オタクは小学生ぐらいの時に、TV番組に対して見極めをつける。
「大人番組といったって、子ども番組と実はたいして変わらない」
「子ども番組の中にもレベルの高いものがある」
 この早熟で、冷静な判断が彼らにアニメを選択させる。
 つまり彼らは「自分も早く大人になりたい、大人に見られたいから大人番組を見る」という単純な考え方をしないだけだ。
 思春期に入っても、オタクの判断力は衰えない。マスコミが作った「ダサい大人じゃなく、かっこいいヤングのファッションはコレだ!」なんていう、若者文化・サブカルチャーには騙されないのだ。

総じてオタクたちは、別に社会からの「大人になれ!」というサインが感じとれないほどのバカではない。
 その圧迫をはねのけるほど自信家で「30すぎてアニメ見たからって何が悪い!」という気持ちと「へっ、おれって30すぎてアニメ見るような奴なのさ」という気持ちを両方持ってる、ナイーブでヤな奴なのだ。

 なお、もっと詳しく読みたい方は「岡田斗司夫公式サイト」を参照されたい。
 

 …それにしても、早熟な岡田少年と自分とでは全然違う、と思うばかりである。俺は「小学生ぐらいの時に、TV番組に対して見極めをつける」ことなんてできなかったもの。気になったのは「大人番組」というワードで、一体どんな番組を指しているのかわかりづらい。『11PM』とか『ギルガメッシュないと』とか? …たとえに出る番組が古くてスマン。というか、俺の場合は「子ども番組」「大人番組」と区別しないで観ていたけれど、結果としてオタクになってしまったから、岡田の書いているようなケース以外にもオタクの誕生パターンはあるのだろう。
 自分の話をさらに続けると、「子ども番組」「大人番組」と区別しないで観ていたので当然「大人に見られたいから大人番組を見る」という発想もなかった。どうも山本弘会長のクラシック話みたいだが、「大人に見られたい」ってそんなに他人の眼って気になるのかなあ?と不思議に思う。
 それから、「大人番組といったって、子ども番組と実はたいして変わらない」「子ども番組の中にもレベルの高いものがある」という考えからは、「大人番組≧子ども番組」としか判断できず、どうしてオタクが「子ども番組」に執着するのか明快に説明できないのではないか。やはり気持ちの問題になってしまいそうな感じである。
 ついでに書くと、「大人番組といったって、子ども番組と実はたいして変わらない」というのが岡田斗司夫らしい、という気はする。唐沢俊一は岡田の姿勢を「ペシミズム」「ニヒリズム」と呼んだが(5月30日の記事を参照)、シニシズムと呼んだ方が適切なのでは。



 もっとも、どうして岡田が「どうしてオタクは、いい年して子供番組なんか見ているのか」という疑問にこのような答えを出したのかは薄々想像がつく。要するに、「子供っぽいからいい歳して子供番組を観ているのだろう」という世間一般のイメージに対して「早熟だったからいい歳して子供番組を観ているのだ」と逆を行ったわけだ。もちろん、意表を突けばいいってものではないが。



 どうも、『オタク学入門』まで遡って考える必要があるなあ。岡田斗司夫検証は短期決戦でやると決めているけれど、さていつ始めるか。




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