唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

少佐がメジャーになってきた。

よろしい ならば検証だ




●discussao氏がTwitterで、

噂には聞いていたが、めきめきネトウヨ化の道を進む(元)オタク・カルチャーの人。

唐沢俊一Facebookの文章を引用したら、その後で唐沢がこんなツイートをしていた。

ネトウヨと保守思想くらいきちんと区別しろよ(やれやれ)。


 当ブログで「唐沢俊一は保守派の文化人になればいい」とくりかえし書いてきた甲斐があったのかな。とは言うものの、『社会派くんがゆく!』などに見られる数々の「鬼畜」発言が保守思想からどのようにして導き出されたのかは謎。むしろ「反動」と考えた方がわかりやすいんだけどね。リベラルに対する反動としての保守的な発言、世間一般の常識に対する反動としての鬼畜、『ガンダム』ブームに対する反動としての『ぴあ』への投書。反動という姿勢は一貫しているような気もする。というわけで「保守」と書くのも正しくない気もしてきたので、今後は唐沢俊一は反動的な文化人になればいい」と書くことにする。どこにニーズはあるかは知らない。『月刊反動』とか出てたらちょっと読んでみたい。



●本題。宣伝会議が発行している月刊誌『ブレーン』2月号P.82〜91に収録されている座談会「青山デザイン会議」Vol.185唐沢俊一が出席者のひとりとして登場していたので、だいぶ前の話になってしまったが今回はこれを紹介する。ちなみに、この座談会の冒頭部分は宣伝会議の公式サイトで公開されているので、興味のある方はチェックしてみてほしい。
 唐沢俊一以外の出席者は電通オタクコンテンツラボ主幹の柳田有一氏と脚本家の佐藤大氏。佐藤氏といえば最近では『怪盗ジョーカー』の構成を担当していたっけ。クイーンはかわいい。で、この座談会のテーマは「オタクがメジャーになってきた」なのだが…、正直この時点で「?」となってしまった。いや、だって、オタクはとっくの昔にメジャーになったものだとばかり思っていたもので。こうした感覚が自分だけでないことはGAINAX堀田純司編著『ガイナックス・インタビューズ』講談社)に収録されている赤井孝美の発言からもわかる。同書P.395より。

(前略)たとえば現代について「オタクブーム」だとか、「オタク文化」だとか言われていますけど、今はオタクというものが普通化していて、世の中が言うほどには、もうオタクパワーはないんだと感じています。(オタクは、たぶん20年くらいまえのSFファンと同じような運命をたどりつつある。)

 赤井のインタビューが収録されたのは2004年9月と2005年3月の2回とのことだから、10年前の話である。加えて言えば赤井のインタビューとほぼ同時期に『電車男』がヒットしていることを考えても、今頃になって「オタクがメジャーになってきた」というのはずいぶんとノンビリした話だという印象を持ってしまう。話は脱線するが、『ガイナックス・インタビューズ』はGAINAXに関わった人々のインタビューが多数収録されている非常に面白い本なのだが、一番面白いのは岡田斗司夫が登場していないこと。彼の不在が何らかの事情を雄弁に物語っているような気がしてならない…。GAINAXも10年前からはずいぶんと様変わりしてしまったので、新たなインタビューをする必要があるかもしれない。



 話を戻して、座談会の中での気になった発言を拾っていく。『ブレーン』P.85より。

唐沢 元々オタクはNHKで放送できない差別用語。高校時代、オタクと自称するのは、ゲイであることをカミングアウトするようなもので、勇気が入ったな(原文ママ)。今の子はアニメやマンガが生まれながらにある環境なので、抵抗がないんだね。


 唐沢俊一が高校生だった頃には「オタク」という用語はまだ一般化してなかったので、一体何をカミングアウトしたのだろうか。「アニメファン」とか?


 同じくP.85より。

唐沢 私は『宇宙戦艦ヤマト』ブームの火付け役にあたるオタク第一世代。オタクという概念がまだ確立していない頃に興味を持ちはじめ、発言もしてきました。今やオタクとしては半ば引退状態ですね。ただし、オタクが現代文化を解読する一つの鍵になるという立場は変えてません。

 「オタクという概念がまだ確立していない頃」の発言というと例の「ガンダム論争」か。ただ、オタクという概念が確立していないと「オタクアミーゴス」などとは名乗れないわけだから、唐沢がオタクとして振舞いだしたのはオタクという概念が確立されて以降の話になるのだろう。いったいいつオタクを引退したんだろう…。



 P.85〜86より。

唐沢 僕はオタクの原型の一つにシャーロキアンと呼ばれるホームズファンがあると思うんだけど、彼らは原作にあるミスも愛している。そこらへんアニメファンは余裕がないですね。原作に描かれてない余白を想像して楽しむという遊びがない。


佐藤 『エヴァ』はまさに余白だらけ。それこそ評論家も含めファンが作り上げたファンタジー。一方、『進撃の巨人』は、誰もつけ入る隙がないほど世界観があらかじめ作り込まれています。今後、どう裏切っていくかが作り手の腕の見せどころです。


 上のくだり、両氏の意見が微妙に食い違っているように見えるが、この対談では他にも同じような流れが見られるのが興味深い。口論をしても仕方ないからね。佐藤氏は活躍中のクリエイターだけあって、最近ヒットした作品を具体的に挙げて説明するので話がわかりやすくていい。



 P.86より。

唐沢 オタク第一世代は、コミケという「場」を開拓したけれど、今の世代は内輪で楽しくやっているだけで、自発的にクリエイトする意識がないように見える。(後略)


 今の状況はオタクが楽しく遊べるための状況がかなり整備されていて、自分から切り開いていく必要はあまりない、ということは言えるだろうか。でも、今のオタクが努力していないわけではない、ということは一応書いておきたい。「具体的に唐沢さんはどこを開拓したんですか?」とか聞いてもいいのかな。


 P.86、91より。

唐沢 世界観を崩されるのが嫌なんでしょうね。ある種の潔癖性なんです。補完していくことで作者が考えもしなかった作品に育つ良い面もあるのに、今の子は精巧に創り上げた完全な世界を成立させようとしている。このことはオタクに限らず日本のありとあらゆる文化の一つの特徴かもしれないけれども。

唐沢 人間の多面性を描くのが文学だったけれども、今はそのキャラに反すると「設定と違う」と指摘されてしまうんだな。


佐藤 実際、僕らは脚本を書いていて言われますからね。心の移り変わりを「成長」として描いているのに、キャラ設定の「裏切り」として捉えられてしまう。

佐藤 オタクの同調圧力の強さには驚きますね。今アニメの作り手はその圧力からどう逃れるか、どこまで逃走できるかがポイントになっています。


 「補完」というのは本来不完全だったものを完全にしようとすることなのではないか? と思うのだが、気になる点が2つあるので書いておく。ひとつめは、オタクがキャラの変化を嫌っている、というわけでも必ずしもないのではないか、という点。…いや、だって、二次創作だと結構ものすごい改変を見ることがあるので、オタクはキャラを変えて遊ぶ楽しみを知っていると思うのである。たとえば、『まどマギ』のほむほむを変態扱いするのはよく見かける(ニコニコ大百科)。あと、ベジータがビンゴしていたのもわりと好意的にネタにされていたようだった。だから、「キャラ設定と違う」と騒がれるのは、ひとえにそのキャラクターの変化の仕方がファンに受け入れられなかったからなのでは? という気がする。…ただ、俺はほむほむは変態じゃないと思うんだよね…。
 ふたつめは、佐藤氏は「オタクの同調圧力の強さ」という発言に対して、唐沢俊一「オタクに限らず日本のありとあらゆる文化の一つの特徴」という発言が実はカウンターになっていること。同調圧力の高さはオタクのみの問題ではなくて、一般のドラマや映画でも一度批判に火がつくとなかなか止められない。マンガを実写化すれば「原作の良さを台無しにしている」と言われ、職業もののドラマを作れば「実際の仕事と全然違う」と言われるのはもはやお決まりの流れのようになってしまっている。面白いのは『まれ』が「キャラが崩壊している」という批判にさらされていることで、(mixiニュース)、キャラへのこだわりをオタクの特殊事情と考えるのは誤りなのではないだろうか。ともあれ、クリエイターにとって現在がつらい状況であるのは確かなようだ。ツッコミのスキルが上がった世の中のつらさ、と言えるだろうか。佐藤さんもクレームつけられたことあるんだろうなあ。



 P.91より。

唐沢 オタクというカテゴリーが拡散したがゆえに、オタクであるためにはどういう行動をすべきかという模範と義務感に駆られているんですよ。僕らの世代は一国一城のオタクでしたから、それぞれ好きなものに埋没すればよかった。今は強要・強制をしてくるわけですよ。


 いまどきそんな風に必死こいてるオタクいるかなあ。かつて「ガンダム論争」で海外アニメを観た自慢を何度もしていた人がいたくらいだから、むしろ昔の方が強要や強制をしてくる人がいたのでは。まあ、今となってはオタクをエリートだと思い込んでいるのはTRPGのイベントで「我々が上で、わかんねえお前らのほうが下だ!」などとシャウトしていた井上純一氏くらいなものだろうけど。

2:25あたりから。『中国嫁日記』の人、逸材だなー。




 いったんここで話を変えて、新潮45』9月号に掲載された内田樹桐野夏生の対談を紹介する。内田は桐野の小説『抱く女』(新潮社)に描かれた1970年代初頭の空気についてこのように語っている。『新潮45』P.233より。

内田 (前略)僕は高校を中退したあと、お茶ノ水のニューポートってジャズ喫茶店でバイトしてたんでジャズ喫茶文化というのはよくわかるんです。あの頃のジャズは「尖っていればいい」「わかりにくければわかりにくいほど上等」という独特の美学で律されていましたよね。だから、ラムゼイ・ルイスとかハービー・マンとかマル・ウォルドロンなんて、僕は好きだったけれど、ジャズ通は眼を三角にして怒ってましたね。あんなのはコマーシャルだって。


桐野  よくわかります。



内田  どうしてダメって言われるのか、意味が判らないわけですよ。
(中略)
オスカー・ピーターソンをリクエストしたら店の人から舌打ちされた。チェット・ベイカーがかかったら立って帰る客がいたり(笑)。でも、これが本当のジャズで、あれはインチキっていう基準って、本当に微細な、言ってみれば空気みたいなものなんです。



桐野  何でなのか説明してよと言っても、とーしろ(素人)が! でおしまい。ジャズ名人みたいなのがいて、どうにも太刀打ちできないんです。


 読んでいるだけで「ジャズ名人」が嫌いになってくるが、「ジャズ名人」さんたちは40年後の現在、どうしていらっしゃるのだろうか…。これは「オタク」ではなく「マニア」の話になるのだろうが、こっちの方が「どういう行動をすべきかという模範と義務感に駆られている」例として適切なのではないだろうか。エリート意識らしきものも感じられるし。まあ、今のほうがずっと敷居が低くなっているのは確かなのだろう。今は今でそれなりに煩わしいことはあるけど、趣味に生きる人間にとってはいい時代だと思う。今のオタクでもこの手の他人からは窺い知れない独自の基準を発動させている人っているのかもしれないけど、ネットに書き込んでもスルーされてオシマイにされそうだ。…もっとも、そう言う俺の基準も独自なものかも知れず、学戦都市アスタリスク落第騎士の英雄譚がよく似ているとネタにされていたから観てみたらどちらも面白くて、「あまり笑いものにすることないのに」と思ってしまった。でも、そう感じたのはただ単に俺がチョロいヒロインに弱いからかもしれないので、あまり胸を張って言えることでもない。…そんなわけで(どんなわけだ)、みなさんも自分の基準に自信を持ってほしい! と無理矢理いい話風にしてみる。
 



 オタク話はさておき、さらにもうひとつ内田の発言から。同誌P.235より。

内田  あの全共闘世代に固有の自己処罰・自己否定のロジックが僕はほんとうに嫌いでしたね。ピュアでクリーンで、身体も生活も軽んじて、ほとんど自殺すれすれの生き方をしている人間が一番偉い。そういう人間には対抗できない。


 この対談の締めくくりで、内田は安倍政権を「自己否定」そのものだとかなりエキサイトして批判しているのだが、とりあえずそれは措いておく。個人的には「自己否定」は今でもごく当たり前のように世の中に広く出回っている気風だと思う。普通の人間が大事にしているものを犠牲にして何かを成し遂げる、そのような美談を聞くことは決して珍しくなく、自分もそのような話に触れると少なからず感動してしまう。「自己否定」を否定するのは実は難しい、そういう気がする。
 そして、もうひとつ大事なのは「オタク」や「マニア」に「自己否定」という概念はつきまといやすい、ということで、現に唐沢俊一は『古本マニア雑学ノート』(幻冬舎文庫)で「身体も生活も軽んじて」古本収集に血道をあげるマニアの生態を描いていた。日常生活を犠牲にしてオタクを極めたからエラい、たくさんお金を使ってたくさん時間を費したから凄い、といった話は疑ってかかったほうがいいのかもしれない。
 唐沢検証の締めくくりに自分なりのオタク観を書くつもりだが、その際も1970年代前半の時代状況に触れるはずなので、今回参照した内田と桐野の対談を読んで意欲が湧いてきた(ちなみに内田は連合赤軍事件の後から自らの趣味に居直れるようになった、と発言している)。


 
 『ブレーン』の座談会に話を戻す。『ブレーン』P.91より。

唐沢  今は一般の人たちも「オタク」に理解を示しているけれど、そのうち揺り戻しで、脱落する人たちが出てきて、収縮してくる可能性がある。オタクの進化系であるモデルケースを導く中心人物(リーダー)に誰がなるか?で変わっていくでしょうね。  

唐沢  言語化も必要だよね。今の若い子たちは自分たちが享受しているオタク的なものを言葉で表せていないんですよ。東浩紀さんとかが一時挑戦したけど、やはりムリだった。たしかに複雑だけれどもこれはどこかで誰かがやらなければならない。


 先に挙げた『新潮45』9月号の対談の中で、内田樹は高校生の頃にジャズを聴こうと思い立って最初にとった行動が『スイングジャーナル』を定期購読してコラムに赤鉛筆を引きながら読むといういかにも秀才らしいものだったことを告白していて、桐野夏生には「お勉強好きなんですね」とそのままに評されている。つまり、かつての内田少年は趣味を知的作業として勉強のようにこなしていたわけだが、自分には唐沢俊一の上の発言もオタク趣味を知的作業の一環として捉えているからこそ出た発言だと思う。単なる趣味ではなく知的な作業であるから、よりレベルを高めてくれるリーダーを必要とする思い込みが生じたのではないか。もちろん、今でもオタク趣味に知的な側面はありはするが、それはだいぶ薄れたといってもいいのではないか。まとめブログを赤鉛筆引きつつ読む人はいない(冗談)。
 唐沢も岡田斗司夫も「自分たちに代わるオタクのリーダーが出てこない」と言って『オタク対談』を続けていたものだが、それには彼らの仕事上の都合もあるにせよ、オタクは知的でなければならないとする思い込み、またはアカデミズムのように師弟関係が確固として存在するジャンルに対する憧憬が「オタクのリーダーがいない」という話につながっているようにも思われる。唐沢自身は修業した経験もないのに誰かを「師匠」と呼んだり、ライターとして駆け出しの頃から弟子を取りたがっていたが、それもアカデミズムあるいは職人といった師弟関係が存在する分野への憧れがなせるわざだったのだと思う。師匠の下で修業に励む苦しさ、その反対に弟子を鍛える重圧という現実に存在するいくつもの困難をスルーしたまことにハッピーな思い込み、としか言いようがないけれど。
 もうひとつ言えば、オタクに限らず現在はリーダー、とりわけ唐沢が想定しているであろう理論的指導者がきわめて出づらい状況である。何か目新しいことを言った人間がいたとしても、SNSでのちょっとした言葉足らずや過去の発言の矛盾を突っ込まれて、あっという間にネタ扱いされて消費されていく。とはいえ、そもそも最初から理論的指導者になろうとしている人もいないはずで(唐沢と岡田は違うかもしれない)、偶然が重なった結果たまたま祭り上げられてしまった人、というのが大半だろうとは思う。あと、言うまでもないことかも知れないが、「オタク的なもの」言語化はネット上の至る所、あるいは現実の書籍等で既になされていると思う。嘆く前にググってみたほうがいいのでは。ご自分でやってみては、とは言わない。



 『ブレーン』の座談会を一通り読んだ感想としては、オタクの問題点として取り上げられている話が実はオタクに限った問題じゃない、というパターンが複数回見られたので少し整理した方がいいのでは、と思った。同調圧力などはネット社会において全般的に見られる問題だろう。

 
 
 で、実はこの座談会のラストである話題が出されるのだが、既にだいぶ長文になっているのに加えて、それに関連してある人の論考にも触れたいので、やむを得ず次回にまわすことにする。



“Ground Control to Major Tom”
 
 
 

タコシェで既刊『唐沢俊一検証本VOL.1』『唐沢俊一検証本VOL.2』『トンデモない「昭和ニッポン怪人伝」の世界』『唐沢俊一検証本VOL.3』『唐沢俊一検証本VOL.0』「唐沢俊一検証本VOL.4」の通販を受け付けています。タコシェの店頭でも販売しています。
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