唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

唐沢俊一史の試み。

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karasawagasepakuri@yahoo.co.jp







 当ブログでの検証を終えた後に、関連の資料をまとめてネット上にアップするなり本にまとめるなりするつもりでいるのだが、今回は唐沢俊一のライターとしての活動をいくつかの時期に区切って気ままに論じてみたいと思う。要は試論であるが、本筋に入れるほどではないが書いておきたいエピソードは余談として別個にまとめておいた。いずれ書く予定の『唐沢(偽)のためのガイダンス(仮題)』ではきちんとまとめよう。検証が終わってから出す本に「ガイダンス」もないもんだ。以下全文敬称略。



何度目だキリ(以下略)。セカンドアルバムは今でもヘビーローテーションだ。



※第1期(1989年〜1995年)
 この時期の唐沢俊一は、ライター単体としての活動よりも実弟である唐沢なをきと組んだ「唐沢商会」としての活動の方が目立っている。そもそも彼のプロ・デビューは『Newパンチザウルス』で連載された唐沢兄弟商会(当時の名称)の連載マンガ『東方見物録』(後に『脳天気教養図鑑』に一部が収録)であって、唐沢俊一単体ではなく「唐沢商会」として業界に登場したことはきちんと記憶しておくべきであろう。
 唐沢が単独で活動しづらかったであろうことは、彼の初めての単著『ようこそ、カラサワ薬局へ』(1990年)から、次の単著『まんがの逆襲』(1993年)までかなりの時間を要していることからも察せられる。彼はこの時期伯父の芸能プロダクションの経営を引き継いで大いに苦労したそうなので、そういったこともあって満足に活動できなかったのかもしれないが、なにぶん当時の事情を物語るのは唐沢の自己申告しかないため、実際のところ真相は不明である。
 もっとも、唐沢俊一はなかなかしたたかなところがあって、最初は唐沢商会として仕事を引き受けた後で唐沢俊一単独の仕事を貰う、という流れがあったことが『ガロ』『少年キャプテン』で確認できる。特筆すべきは、後に彼の持ちネタとなる「古本」「脳天気本」ネタも、最初は唐沢商会のマンガ「古本血笑旅」で披露されたものであり、さらには「古本血笑旅」を読んだ藤倉珊が唐沢を「と学会」に入れることを提案したというのだから、唐沢商会なくして今日の唐沢俊一はなかったことは明らかである。
 この時期の唐沢俊一が関わった作品の傾向としては、薬局関係およびB級貸本漫画関係が目立つくらいで、駆け出しのライターらしく出来る仕事は何でもこなそうとする懸命さがうかがえる。特に注目すべきものとしては編集・構成を担当した潮健児『星を喰った男』(1993年)と抗議を受けて絶版となった『森由岐子の世界』(1994年)が挙げられる。また、『美少女の逆襲』(1995年)は後の『トリビアの泉』ブームの時にちくま文庫から増補版が出る予定だったようだが、結局取り止めになっていて、もし文庫化が実現していれば再評価の機会があったかもしれず、まことに惜しい話であった。

余談のコーナー


 唐沢俊一潮健児と知り合ったのは、伯父のプロダクションが潮のマネージメントを担当していたことがきっかけで、平山亨とも潮が接点になって知り合っている。こうして特撮関係者に人脈ができたのは、唐沢の後の活動にとって大いに助けとなっているのは間違いないところだが、かつて『ゴジラ』批判をしていて、実は今も評価そのものは変えていない人が『ゴジラ』のスタッフと付き合っているのはなんだかなあ、という気もする。

※第2期(1996年〜2001年)
 1996年は唐沢俊一にとって重要な著書が3つ出ている。ひとつめは『古本マニア雑学ノート』。古本マニアたちの奇妙な生態を面白おかしく描きつつ、知られざる「脳天気本」を紹介したこの本は注目を集めたようで、この時期以降唐沢は「古本」「脳天気本」関係の仕事をいくつもこなすようになる。
 ふたつめはトンデモ本の逆襲』。実は唐沢は『トンデモ本の世界』(1995年)には参加していないため、この「トンデモ本」シリーズ第2弾が初登場となる。唐沢は「と学会」幹部の肩書を最大限に生かし、「トンデモ」というタイトルのついた著書をその後量産していく。
 そして、みっつめは岡田斗司夫オタク学入門である。もちろん唐沢自身の著書ではないが、あとがきには岡田が唐沢に示唆を受けた旨が書かれていて、これ以降も岡田は唐沢をブレーン的な存在として扱っていたため、岡田とともに唐沢もいわゆる「オタク第一世代」の論客として見られるようになった。それにしても、唐沢が語っていた若き日の「武勇伝」に「濃い」オタクの人たちがツッコミを入れなかったのはある種のエチケットなのか本気で気づかなかったのかが気になる。一緒に話していて「こいつちょっと…」とか思わないのだろうか。
 客観的に見ても、この時期が唐沢俊一にとって最も充実したものであったと言うことができる。「古本」以外でも「雑学」「鬼畜」「オタク」といった後々彼の得意分野と目される仕事をいくつもこなしていて、具体的には『トンデモ一行知識の世界』(1997年)、『大猟奇』(1996年)、『B級学【マンガ編】』(1999年)といった著作が挙げられる。
 また、『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットに対して皮肉めいた態度を取りつつ、伊藤剛東浩紀を執拗に批判していたことも注目に値する。もっとも、『エヴァ』関連で言えば、唐沢は『国際おたく大学』(1998年)に寄稿した文章が原因で伊藤に訴えられ、1999年に実質的に敗訴に等しい内容で和解しているが、彼のライターとしての活動が当時は上り調子だったこともあってか、幸か不幸か(?)致命的なダメージを負うには至らなかった。とはいえ、それ以外にもこの時期には問題行動がいくつか見受けられ、今になってみると好調ながらも後々の災厄へとつながる要因を孕んでいた時期、と言えるのかもしれない。

余談のコーナー


 『オタク学入門』において唐沢が岡田にアドヴァイスしたのは、オタク文化は日本の伝統文化につながっている、という部分だが、こういった考え方の先駆的な作品は大塚英志『少女民俗学(1989年)なのでは?と思ったりした。「朝シャン=みそぎ」というのが有名だが、それは浅羽通明大月隆寛に批判されてもいる。「若者文化と伝統文化を関係づけたい」という欲望はいつの時代にも存在するのかも知れず、時代を遡ればさらなる前例が見つかる可能性もあるので、今後の課題としたい。

 

※第3期(2002年〜2006年)
 2002年はなんといってもトリビアの泉の放送開始である。深夜番組からゴールデンタイムへと進出して一大ブームを巻き起こした番組にスーパーバイザーとして名前を連ねたことで、唐沢俊一は「雑学王」「雑学の神様」としてTV・雑誌等に登場することが多くなる。とはいえ、『トリビアの泉』で唐沢の著書から使われたネタはそれほど多くなかったことは頭の片隅に置いておく必要がある。また、『トリビアの泉』のヒットのせいか、以前は「雑学=役に立たない」としていた唐沢が「雑学=頭のおやつ」などと称するようになり若干路線を変更したのも興味深い点ではある。
 しかし、実は『トリビアの泉』のブームの中で出された唐沢の新著に注目すべきものはあまりない。東京都内の見落とされがちなスポットを散策する『近くへ行きたい』(2003)が一番いいだろうか。似たようなコンセプトの『スコ怖スポット・東京日帰り旅行ガイド』(2011年)と比較するとよく見えるだけなのかもしれないが…。そして、『トリビア』ブームの勢いで出されたいくつもの雑学本は、ネットからのコピペとガセビアが満載で、後にネットで検証した人々を呆れさせることになる。
 別の視点で言えば、唐沢が演劇に深入りするようになったのもこの時期からだが、筆者の知る限り唐沢が演劇に関わるのを喜んでいる近しい人は居らず、唐沢本人も岡田斗司夫に怒られたと言っていた。また、夫人と別居状態になったのもこの時期だと推察される。

余談のコーナー


 唐沢俊一唐沢なをきの現時点での最後の共著は2004年に出た『お怪物図鑑×物々冒険記』である。唐沢商会名義となると1997年の『ガラダマ天国』までさらに遡らなければならない。
 兄弟での仕事が減ったのは単純に二人ともそれぞれの仕事が忙しくなったためなのだろうが、個人的にはお兄さんはいずれ弟さんに再結成を呼び掛けるのではないか?という気もしている。『まんが極道』での「実録・唐沢商会」シリーズの新作もまたそろそろ読みたいところである。…今ふと気づいたのだが、お兄さんは甥御さんにまだ逢ってないんじゃ。

※第4期(2007年〜)
 2007年5月に出された『新・UFO入門』において盗用が発覚したことが致命的だった…のではなく、同年12月に出された『社会派くんがゆく! 復活編』の中で盗用された被害者をクレーマー扱いして開き直ったことこそが致命的だったと言える。筆者が検証を始めたのもそれがきっかけである。
 別の意味で致命的だったのは『昭和ニッポン怪人伝』(2009年)で、またしてもネット上からのコピペが発覚したうえにメジャーな分野の知識がないことがわかってしまったのは痛かった。「トリビアルな物事にあれほど詳しいのならメジャーな物事にも当然通じているのだろう」というのは残念ながら幻想だった。それ以外にもこの時期に出た著書はどれも低調と言わざるを得ない出来で、『博覧強記の仕事術』(2009年)では「博覧強記」の意味を間違え、『トンデモ非常時デマ情報レスキュー』(2012年)では実践的なデマへの対処法が語られず、『日中韓お笑い不一致』(2012年)ではネット上のジョークをコピペして国民性を考えるという無茶なことをしていた。
 盗用が発覚して以降も、唐沢俊一はいくつもの連載を抱えていたのだが、村崎百郎の死による『社会派くんがゆく!』打ち切り、東京三世社倒産に伴う『世界ヘンタイ人列伝』打ち切り、原稿の二重使用(後に三重使用と判明)が原因と思われる『トンデモクロペディア』打ち切り、白夜書房の不祥事による掲載誌の休刊に伴う『エンサイスロペディア』打ち切り、といったラッシュはリアルタイムで見ていても壮絶極まりなかった。
 その一方で、唐沢はまずます演劇にはまっていき、とうとう演劇ユニットを結成するに至り、現在では「劇作家」と名乗ることもある。

余談のコーナー

 
 『昭和ニッポン怪人伝』がヒドく思えるのは、似たようなコンセプトの『すごいけど変な人×13』(2001年)がまだ読めるせいなのかもしれない。『近くへ行きたい』→『スコ怖スポット』と同じパターン。
 「前の本の方がよかった」と思えるということは、つまり「唐沢俊一も以前は少しはよかった」ということになりそうなものだが、とはいえ『ようこそ、カラサワ薬局へ』の時点でダメなところは既にあったわけで、じゃあ何が変わって何が変わっていないのか、その辺は総括で考えることにしたい。

 20年余りの活動をざっとまとめるのも無茶かもしれないが、ひとまずはこんなところ。頭の中ではわかっているつもりでも、実際に要約してみるといろいろと見えてくる部分があって面白い。ぐねっとくもんだし、やってみるもんだね。本番ではもっときちんとしよう。



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