唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

十五年前のカゲロウ。

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日垣隆公式サイト「ガッキィファイター」にある誤字に噴いてしまった(魚拓)。それこそ「罰金バッキンガムよ!」を聞いたときの結衣なみに。あんまりなのでかえって感動してしまう。
 なお、Amazonで日垣の著書を「懸垂百回」なる方がレビューされているが、これが本当にお見事。日垣の著書の中では評価の高い『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫)も厳しく批判されている(自分もこの本には気になる点がある)。実は唐沢俊一検証のしめくくりとして唐沢の著書のレビューを企画しているのだが(単著のみにするかそれ以外も含めるかは検討中)、自分も出来るだけいいものを書こう、と励みになった。


唐沢俊一京本政樹に関する悪評を広めた、という話が「トンデモない一行知識の世界2」で取り上げられている(その1その2)。後追いでやってみよう。
 まず、「裏モノ会議室」の1995年12月11日の書き込みで(一応発言者の名前は伏せておく)、『サイキック青年団』で京本政樹潮健児の葬儀に乗り込み地獄大使のマスクを無理矢理持ち出そうとして、制止しようとした遺族に向かって5万円を叩きつけた、と竹内義和が怒っていた、という話を紹介している。…この書き込みを見る限り、『サイキック青年団』が京本の悪評を広めたという事実は確かにあったのだろう。
 この発言に対して、唐沢俊一はやはり1995年12月11日の書き込みの中で「5万円」云々は虚偽であるとしたうえで、京本が潮健児の葬儀に当たって尽力したことも説明している。ただ、その後で京本が「形見分け」と称してメフィストの帽子と靴を持ち出そうとしたのをショッカーO野と2人で止め、潮健児が所有していたコレクションを2人で引き取ったことも記している。そして、

オタクというのは決して悪人ではなく、世間の常識を知らないだけなんですが、それにしてもさ(後略)

と唐沢は京本の振舞いについて嘆いている。また、12月15日の書き込みではやはり京本の振舞いの常識のなさについて書いている(「裏モノ日記」2002年7月25日とほぼ同内容)。
 …以上の経緯を見ると、唐沢俊一京本政樹の悪評の発信源になっていた可能性は高いように思われる。『デキゴトロジー』のネタ元になっていたこともあったしね(2月26日の記事を参照)。唐沢は「裏モノ会議室」1995年12月11日の書き込みで、

『星を喰った男』は来年、早川書房から文庫化で出版されます。そのときに、僕が潮さんをプロデュースした事情、出版記念パーティの大成功とその翌日の 死のことは追記として加筆するつもりです。ただ、死後のこういうゴタゴタはここ以外には書くつもりはありません。でも、これでなかなか大変だったんでありますよ。

と書いているが、実際のところ、方々でネタにしまくりである。ンモー、唐沢さんったら、本当におしゃべりなんだからー。 
 あと、興味深いのはメフィストの帽子」が「地獄大使のマスク」に変わっていることで、これはメフィストより地獄大使の方が一般ピープルに伝わりやすいので、どこかで「盛られた」のだろう。都市伝説が誕生する経緯を見たかのようだ。


 「裏モノ会議室」での書き込みを見る限り、唐沢俊一京本政樹の常識のなさを嘆きながらも(どうしても「お前が言うな」と思ってしまうが)、京本を一応フォローしてもいるので「そんなに悪く思っていないのかな?」と感じる。
 ところが、1996年4月20日に「オタクアミーゴス会議室」唐沢俊一「【オタク講義】反論に併せて(長文)」というタイトルの、岡田斗司夫の活動を擁護するそれこそかなり長文の書き込みをしているのだが、その中で次のような記述がある。

彼の活動は、いま、そこに集中しています。彼が大学にオタク講座を開設するのも、マスコミで海外のオタクシーンを紹介して回ってるのも、さらに我々とツルんでトークライブを開くのも、こういう会議室を主宰するのも、みんな、一日も早くオタクの存在を世間に認可させ、かつ、M君だの、宅八郎だの、京本政樹だのといった連中によって、マイナス面ばかりがあげつらわれるオタクという存在のイメージを払拭させるため、に他なりません。彼の興味はすでに、個々の作品の位置にとどまってはいないん です。作品と、その作品を受容しているオタクたち、というところまでをひっくるめて、その関係を分析し、社会の他の要素にまで波及させることのできるオタク理論を構築しよう、と悪戦苦闘しているわけですね。

 …何故そこで京本政樹が出て来るんだろう? 京本のせいでオタクがどんなマイナスのイメージを与えられたというのだろう。


※追記 うっかり書き忘れたが、宅さんと京本政樹宮崎勤といっしょくたにしているのはあんまりだ。


●さて、この「【オタク講義】反論に併せて(長文)」という書き込みは、現在の視点から見ると大変面白いのでもう少し紹介してみよう。
 この書き込みは、「オタアミ会議室」の他の参加者(この方も名前は伏せさせていただく)から岡田斗司夫が『エヴァンゲリオン』の評論をするなどクリエイターの仕事をしないのは何故なのか?」という疑問が投げかけられたことに対する反論である。
 最初に唐沢は、(1996年の時点で)アニメや特撮が「飽和状態」に陥り、過去の作品から独立したオリジナリティーのある作品が生まれていないにもかかわらず、活況を呈している理由を、

これは、今までのファンとか、マニアとかと違った、別の楽しみ方、情報の受容の仕方を受け手サイドがしはじめているからではないか。その受容方法こそ、世間でオタクと呼ばれているやり方ではないのか。


と分析している。そして、

敢て言ってしまいますが、いまやクリエイターは、どんなに優れた作品 を作ったところで、アニメや特撮という大きなワクの中でのワンオブゼム でしかない。しかし、一端、これらの作品を自分の論理の中で受容し、自分なりの解釈を加えて独自の楽しみ方を“創作”し、さらにその楽しみ方 を第三者に伝えることができたならば、その受容者は創作者よりはるかに豊かな世界を持ち得ることができる。彼はそこに新たな価値観を見いだすことができる。この考え方がどれだけ魅力的なものか、あなたは理解できませんか? エヴァンゲリオンにしても、岡田氏や僕、それから眠田氏にとって、あれは別にどうってこともない作品にすぎなかった。それが、あの最終回二話によって、いわゆるオタクたちの反応が沸き立って、われわれにとってはオタクのものの考え方、作品の味方(原文ママ)を観察できるすばらしい作品、になったわけです。別にみなさんを実験動物に使った、という意味でなく、オタク論を構築しようとしている者たちにとって、またとない実地観察の機会を与えてくれた、ということです。


 …うーむ、クリエイターより「受容者」の方が「豊かな世界を持ち得る」と言い切ってしまうとは。ある意味凄い。
 ただ、「しょうもないものを評価しなおすことで新たな価値を与える」という流れは1990年代後半に確かに存在していたような気もする。『と学会白書VOL.1』(イーハトーヴ出版)P.163での唐沢俊一山本弘会長の発言も参考になるかもしれない。

山本  トンデモ本とは違うけど、例えば唐沢さんなんかも昔のコマーシャルとかマンガとか、ああいうのを取り上げた本を書いて紹介されてるでしょ。だからああいうのも本来だったら全然価値なんて認められてなかったし、評価もされなかったけど、こういうふうに見れば、これも宝物じゃないかっていうふうに、提唱しているわけね。


唐沢  今そういう見方をクズ分野にしてみよう、っていうコンセプトがどんどん広まっているじゃないですか。ただのつまらない、ヒットしなかった歌っていうのがあの「幻の廃盤復活同盟」たちが取り上げて笑えるようになった、とか。


山本  だから、僕たちは自分らで価値を見出してるのね。

 幻の名盤解放同盟ね。『エド・ウッドとサイテー映画の世界』(洋泉社)も95年か。ただ、「しょうもないものを評価しなおすことで新たな価値を与える」という一種の遊びは昔からマニアがやっていたことで、たとえば唐沢俊一の得意分野のひとつである「B級貸本マンガ」などは80年代から評価する動きが存在していた、という事実は頭の片隅に置いておく必要はある。
 なお余談だが、同じP.163で山本会長が、

僕らは、既成の価値っていうのがやっぱし嫌いなのね。これは名作だから読めとか、そういうのは。そうじゃなくて、くだらないやつでもそれなりに自分たちの楽しみ方が絶対あるはずだと、そういう方向がはっきりしてる。

と発言していたのは興味深い。山本会長は『オタク座談会』でも面白い発言をしているので、いつか紹介しよう。


 話を戻そう。クリエイターより「受容者」の方が優れている、という考え方は有り得るかもしれない。ただ、疑問なのは、岡田斗司夫唐沢俊一が(眠田直も)「新たな価値観」を付与したことがあったのか?ということだ。たとえば、唐沢の書き込みの中に登場している『新世紀エヴァンゲリオン』に彼らの解釈によって「新たな価値観」が与えられたか?というと、正直かなり疑問である。ブームからだいぶ経って『BSアニメ夜話』で「エヴァは純文学」などと言ったことはあったとしても、だ(「序破急」を参照)。「受容者」の優位を説く以前に「新たな価値観」を示すことができないのでは看板倒れ以外の何物でもない。…まあ、「オタクアミーゴス」の活動によって「新たな価値観」が生まれたことはあったのかも、と一応フォロー。
 可笑しいのは、「受容者」の優位を説く唐沢俊一がその一方で以下のようなことも書いていることだ。

誤解のないように申し添えれば、クリエイターであるところの唐沢俊一としては、やはり自分の創作した作品の受容のされかたにまでレールを引きたい。これは岡田氏や眠田氏も同じでしょう。では、それと、受け手と しての欲求との折り合いはどこでつければいいのか。これはまだ、これからの課題と言えます。ただ、作者もまた、自作をオタク的に勝手に受容している一人だ、という認識のもとに立てば、決してクリアできない問題とは言えないでしょう。


 …なるほど。貸本マンガの欄外にツッコミを書き加えたのは「レール」を敷きたがる心性によるものなのか。しかし、ワガママな話である。大雑把に言えば「他人の作品にはアレコレ言いたいけど、自分の作品にはアレコレ言われたくない」というのだから。


 もうひとつ可笑しかったところ。

そして、これまで何かというと日陰の存在としてイジイジしていたオタクたちが、自由に発言し、社会に参画していくことのできる場を作ってい くことが、たぶんこれからの岡田斗司夫のライフワークなのでしょう。知り合いの監督をバカというのも、裏話をするのも、みんな、これまでの評論のワクにとどまらず、自由にアニメオタクしていこうじゃないか、という誘い水なんですよ。


 へえ。「俺は平成ウルトラマン見るほど貧乏してませんもん(笑)」(『回収』P.58より)にもそのような志があったとは。唐沢は岡田を助けるつもりで理論武装しているのかもしれないが、逆にみっともなく見えてしまう。いっそ「与太話がしたいんだ!」と開き直った方がいいと思う(岡田の与太話には面白いものもある)。



 最後。

さて、では、岡田斗司夫をこのような、美挙に突き進ませている原動力は何か?  まあ、思うところ、やはり、そういう世界観を構築した上で、その世界で何か商売して儲けたい、というところでしょうな、あのデブのパターン から言えば(笑)。しかし、これまで彼が儲けた『おたくのビデオ』だの『トップをねらえ!』だの『南の海のナディア』だので、みんな、楽しんだわけでしょ? こっちは楽しい、向こうも儲かって楽しい、なら万々歳じゃないですか。さんざ楽しませてもらっておいて、その上で動機が不純だ、とかなんとか、それでも文句をタレる奴が世の中にはおりますが、そういう野郎はただのロクデナシ、であります。楽しんで儲けるのがプロです。アマチュアは楽しむのみ。ここらへん、誰とはいいませんがまだ、誤解している人がいるし、岡田氏も口ごもっているところがあるからキチンと言っておきます。冒頭でも言っているように、われわれは芸人です。プロの芸人は、タダでは楽しませてあげません。


 ふしぎの海のナディア。一見マジメな文章にボケを混ぜてくるとは、さすが芸人。なお、「オタアミ会議室」でこのボケにツッコミを入れる人はいなかった。



 しかし、まさか岡田斗司夫の活動にそんな壮大な志があったとは。まあ、正確に言えば唐沢俊一による岡田斗司夫の活動の解釈」なので、この解釈が正しいのかどうか岡田に尋いてみたい気もする。贔屓の引き倒しでなければいいけれど。クリエイターより「受容者」がエラい、という考え方についてはもう少し考えてみたいところだし、「裏モノ会議室」「オタアミ会議室」での唐沢の書き込みについては後日再度取り上げる予定。


※ 一部文章を書き直しました。



何度目だキリンジ


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