唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

岡田斗司夫検証blog7.

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 宮沢章夫東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜ライブラリー)は、宮沢が2005年10月から半年間東京大学で行なった講義を一冊にまとめた本で、「ピテカントロプス・エレクトス」などをキーワードに80年代の文化を考察した好著である(この本の担当編集者「E君」は榎本統太氏か?)。
 そして、この本は実は「オタク史」から見ても興味深い面が多々ある。宮沢は講義の最初にサブテキストとして大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)を紹介し、講義の中でも当時のオタク文化について長い時間を割いて語っている。「非おたく」である宮沢が「おたく」について違和感を隠さずに語っているのが面白いので、興味のある方は実際に手に取って読んでほしい。

 さて、宮沢は翌2006年10月からも東大で半年間講義を担当し、その内容は東京大学「ノイズ文化論」講義』(白夜書房にまとめられているのだが、この講義の3回目に岡田斗司夫がゲストとして登場し、「オタクの終わり」について語っている。「オタク・イズ・デッド」が開催されたのが2006年6月なので、その影響下にある話になっている。今回はそれを紹介していく。


 講義の始めに、岡田は「おたく」でなく「オタク」を使用する理由を説明している。ひとつめの理由としては「おたく」という表記を使うとひらがなの連続になって埋もれてしまうから、とのこと。小池一夫「ん」じゃなくて「ン」を使うのはなぎなた読みを防ぐためらしいが、それと似ている。
 しかし、重要なのはふたつめの理由である。『東京大学「ノイズ文化論」講義』P.62より。

岡田:もうひとつの理由は主題にかかわることなんですけれども、九〇年代に僕が『オタク学入門』という本を出すまでは、おたくは被差別民族だったわけです。
 そいつらが実際にやってることや、本当はどうなのかということを、周りの人が理解する以前にまず拒絶して貶める状態を僕は「差別」と呼んでるんですが、そういう状態にあったんです。宅八郎さんとかもそうでした。そこでみんな使っていたのが「おたく」でした。

 そして、差別感をなくすために表記をカタカナにした、と岡田は語っている。大塚英志は「おたく」から「オタク」へと表記が変わることによって集団のイメージそのものが変化したと岡田を批判していたが、岡田が「おたく」と「オタク」の違いを「どちらかというと政治的なものに近い」とも語っていることを考えると、イメージを変えることがまさしく岡田の狙いだったことになる。
 さて、気になるのは「オタク=被差別民族」論である。この後、この論調が延々と続いていくのだが、宅さんは「差別」されていたのだろうか。今でも「いかにもなオタク」がテレビではよく出てくるが、彼らも「差別」されているのだろうか。本当に差別されているのならテレビには出られないのでは…。また、岡田や唐沢俊一は若いオタクを「理解する以前にまず拒絶して貶め」てはいないだろうか。岡田の「俺くらいになれば見なくてもわかる」という発言も「差別」的なのだろうか。


 岡田はオタクの差別をなくすために公民権運動のスローガンである「ブラック・イズ・ビューティフル」を参考にした、と語っている。P.65〜P.66より。

岡田: 黒人より白人のほうが劣っているという証拠を集めて、「黒人だって白人と同じなんだ、すべての人間は平等なんだ」と正論を言っても、世の中の人はまったく耳を傾けてくれない。ですけど、極端に高い例を挙げて「黒人が一番美しいんだ」「人類はもともとアフリカ大陸から、黒人から発生したんだ」と言っちゃうと、それはそれで納得しちゃう人がいる。

 じゃあ、オタクも差別された状態をなんんとかしようと思ったら、「オタク文化というのがあって、それがいいんだ」くらい言わないと、なかなか世間一般にオタクは認められない。僕が九〇年代に『オタク学入門』を出して、東大で「オタク文化論」というゼミをやったときには、「政治的に正当な立場を取り戻すためにはちょい極端なことも言いましょうか、『海外でオタクがブームですよ』『海外では日本のアニメブームですよ』と言いましょうか」、と考えてました。
 そう思って証拠とかいろんな資料を集めると、実際にかなり海外でオタク文化がうけていたり、マンガやアニメがメジャーになっているということが同時にわかってきたので、「自分は政治的に利用するために極端なことを言ってるんじゃなくて、案外本当のことでもあるんだよな。こういうふうに世の中を見ることもできるよな」と、途中から極端なことを言わずに事実だけ並べて、世間の納得を取るようにしました。
 他人から差別される存在として、「バカ」とか「ブス」とかだったら、バカは勉強すりゃいいし、ブスやデブは「なんとかなる」と言えばなると思うんですけど、「オタク」って趣味の問題で、それを人からあれこれ言われるのは嫌だなと思ったので、なんとか政治運動に持っていってカタカナの「オタク」にしたんです。

 『オタク学入門』をノンキに読んでいた人間としては、そのような裏があったと聞かされて驚くばかりである。あれは「政治運動」だったのか! 
 しかし、岡田の言動が「目的を達成するためには極端な手段も許容される」という「運動」の最悪の側面をものの見事に体現していることには逆の意味で感心させられる。どうして「正論」をこうも簡単に軽んじてしまうのか、理解に苦しむ。「海外でオタク文化がうけていた」という主張が「たまたま」事実に合致していた、というのも凄い話だが。
 もうひとつ、「オタク=被差別民族」論については、はたしてオタクはそこまで差別されているのか?という疑問もある。「オタク差別」と「黒人差別」を比較するのは論外だろうし、「人からあれこれ言われるのは嫌だな」という程度のものを「差別」と言えるのか?とオタクである自分も不思議に思う。「ブラック・イズ・ビューティフル」を持ち出してきたのは、小林よしのりゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』(幻冬舎文庫)の影響か?と思ったが。岡田の話を受けて宮沢章夫「あきらかに八〇年代に「おたく」は差別されていた」と発言しているが(P.69)、岡田と宮沢の指す「差別」がどのようなものなのか、同じものなのかはわかりにくい。まあ、岡田が個人的に「差別されている」と感じていたのかもしれないが、P.66にある発言を見るとやはり大した「差別」はされていなかったように思われる。

岡田: 「オタク・イズ・デッド」はなにかというと、「差別されることは、必ずしも悪いことじゃないよな」って話なんです。

 本当に「差別」されていたらこのようなことは言えまい。


 岡田が「オタク・イズ・デッド」を唱え出したのは、「オタクが差別される時代が終わった」からだという。つまり、不当に差別されていたために連帯感を持っていた「オタク」という集団が、世間からの差別が薄れていったことによって縛りが薄れていった、それが「オタク・イズ・デッド」なのだという。…まあ、「オタク=被差別民族」論を信じている人にはそのように思えるんだろうけど、「オタク=被差別民族」論もその裏返しである「オタク=エリート」論も、そもそも立脚点からして怪しいものだと思っている自分にとってはまるでしっくりこない話である。

 P.68〜P.69より。

岡田:個々のオタクが今でも「気持ち悪い」とか言われることはあるんですけども、それはすでにオタク的な趣味だからではなくて、個々の人間が本当に気持ち悪いというレベルに(言いにくい話なんですけど)なっている。僕がオタクでダメだとすれば、それは僕がダメだからであって、オタク趣味をしているというのは、それに対して「おまけ」程度にしかつかないんですよ。「おまけにあいつは関西弁だ」とか、「おまけにあいつはデブだ」とか。
 オタクが差別される時代は終わった。個々人が自分で差別されることを引き受けて、自分が好きなことを選んでやっていきましょう。その意味で、オタクも他のマイナー趣味と同じなんです。

(前略)いまさらオタクが集まって、「オタクは差別されている! 権利を主張せよ、世間様に認めてもらおう」というみっともないまねはそろそろやめようや。それが「オタク・イズ・デッド」なんです。

 今までさんざん「オタク」が、「第一世代」が、という具合に自らの問題を集団の問題にスライドさせて論じてきた人が、後続の世代にはそれを許さないというのだから虫が良すぎる。わけがわからないよ(やや旬を逃した)。

 
 昔のオタク=オタク趣味のせいで気持ち悪がられる
 今のオタク=各人の個性のせいで気持ち悪がられる


 …こんな区別が本当に成り立つのだろうか。今だって「オタク趣味」を周囲に理解されなくてつらい思いをしている人も多いだろうに、「オタキング」がそういう人を見捨ててもいいのだろうか。「オタク文化」が「マイナー趣味」であることも昔から変わらないわけだし。「みっともないまね」云々は児童ポルノ法案改正反対派を揶揄する唐沢俊一を彷彿とさせるが、岡田も唐沢も自分の問題を引き受けることができない点は共通しているかもしれない。


 P.70より。

岡田: 僕の中の音楽というのは、歌詞があるかないか。自転車を漕ぎながら歌えるものは歌なんです。それ以外の音楽は、テクノもノイズも全部同じ。信号機で「通りゃんせ」って流れるじゃないですか。それと同じ、意味のない曲なんです。


宮沢: 僕は中学生くらいから洋楽を聴くようになって―


岡田: 外人の歌う曲(笑)。なんでそんなもん聴くんですか? べつに「日本人だから日本の歌を聴け」ってことはないんですけど、外人が歌っているんだから、心に本質的に響かないじゃないですか。翻訳した小説は読むけど、原書は読まないし。

 岡田斗司夫は子供のころから軍歌が好きだったというから、歌詞から入る人なのかもしれない。でも、個人的には「外人の歌う曲」であっても心に響く、というか「いい」と思えるのだけど。俺、歌詞カードとかあまり読まないしなあ。日本人だからといって日本語しか理解できないわけではないのだし。そういえば、岡田斗司夫は『スター・ウォーズ』の『インペリアル・マーチ』に歌詞をつけたことでも知られるけど、あの曲は心に響いたのだろうか。作ったのは外人(ジョン・ウィリアムズ)ですが。


 P.74より。

岡田: 小学校三、四年の間に僕の中であったし、同じ世代のオタクの人に共通にあった「差」というのは、クラスの男子が次々と裏切っていく。昨日までウルトラマンの話をしていたやつが、急にもう「子どもっぽい」って言い出すんです。それがもう、めちゃめちゃ腹が立つんです。


宮沢: 僕、そっち側です(笑)。


岡田: 「同じくくだらない」か「同じくすばらしい」だったらOKだけども、「ウルトラマンは子どもっぽくて、レッド・ツェッペリンはそれより上」という考え方が、許せなくて許せなくて(笑)。そのときに保守と革新があるとしたら、保守を選んだ人間がオタクなんです。


宮沢: 革新かどうかはわからないけど、いわばアニメだってロックだって、結局はサブカルチャーですよね。


岡田: でも、僕らの世代はロックがメインカルチャーでした。「それに入らなければダメだ、かっこ悪い」と抑圧してくる対象が、ロックであり洋楽だったんです。外人が歌う歌に媚を売って今の若者文化・消費文化を投げ込むか、あくまで男を貫きアニメを選ぶか(笑)。その道を小学校から中学校で選んでいた気がするんです。そういうふうに見えたんです、世界が(後略)。

 なるほど、岡田斗司夫は青春期の経験から洋楽に対してコンプレックスを持っていたわけで、それで「外人の歌う曲」などという物言いをしているものと思われる。しかし、洋楽とオタク文化を同時に好きになることは可能なのではないだろうか。現に自分はどちらも好きで、ウルトラマンレッド・ツェッペリンも「同じくすばらしい」と言える(それとも「同じくくだらない」のか?)。どっちか選ばなければならない、ということはないはずだ。まあ、岡田のケースにしろ宮沢のケースにしろ、多くの人が思い当たる話ではあるだろうけどね。
 宮沢章夫は岡田の拒否反応を受けて、ロックの歴史や「日本語でロックを歌えるか」という問題について語っているが(真面目な人である)、昔懐かしの電気グルーヴのオールナイトニッポンの投稿にも「洋楽聴いていれば大人だと思っている世代」とか「“マルコムX”の帽子をかぶって『マルコムX』を観に行くやつの純和風な顔」というネタがあったから、自分を客観視してツッコミを入れられる洋楽ファンは少なからずいたように思う。岡田が思うほど洋楽ファンは「勝ち組」ではない。ザ・スミスを特別視していた唐沢俊一に通じるものがある。
 それから、ロックは「メインカルチャー」でなく「メジャーなサブカルチャーと言うべきだろう。それに対して、アニメや特撮といったオタク文化「マイナーなサブカルチャー」。最近ではメインとサブの区別が曖昧になってきているようだけど。岡田は同じサブカルチャーの中でロックの方がオタク文化よりも優位を占めている理由がわからず、それを「差別」だと受け取っているのではないか?という気もする。産業としての規模の違い、ファン人口の違い、と言ってしまうのは単純すぎるだろうか。とはいえ、「芸術としてどちらが優れているか」と判断することもできないのが難しい。


 この後、宮沢は「おたく」が80年代の「文化のヒエラルキー」の最下層に存在していたのではないか?という推論を唱え、岡田もその意見に賛同している。P.77より。

岡田: 最下層でなくなったから、「オタク・イズ・デッド」になったと思うんですね。

 最下層の文化は、逆に言えば純粋性が保てるんです。かっこいいことしたいやつは上へ昇っていけばいいわけですよ。「上」へ向かうベクトルはあるんですけれども、「下」に対しては、よっぽど行く理由がないかぎり行かないんです。つまり、よっぽどのやつしか来ない。僕らの業界では「濃い・薄い」って言うんですけれども、「血中オタク濃度」が高いやつ、濃い人間が集まった。

 この発言や前に紹介した「差別されることは、必ずしも悪いことじゃないよな」という発言は、一種のノスタルジーなのかもしれない。もうひとつ言えば、「文化のヒエラルキー」の最下層から脱出したときにどうするのか計画がなかったのでは?という疑いもある。「政治運動」をやっていたにしては迂闊な気もする。


 P.77より。

岡田: オタク文化っていうのは、基本的には男子の文化なんですよ。七〇年代の男の子の趣味だったモデルガンやバイクとかって、女にはわからない男の文化ですよね。それが、七〇年代の終わりに「POPEYE」が創刊されて、「すべての男子は恋愛をしなければならない」という、「男女混ざりましょう」文化が強くなった。そのときに残ったのがこいつら、最下層のオタクなんですね。「男女混ざらなくてもいい」。

 唐沢俊一東浩紀に対して「オタク女子に対する考察が出来ていない」と批判していたが、岡田も同じようなものではないか。第1次アニメブームにおいて女子のファンが少なからず貢献していたことを岡田は当然知っているはずなのだが。それと「恋愛をしなければならない」という思想は、『ポパイ』より『ホットドッグ・プレス』が煽っていたのでは。で、「恋愛をしなければならない」という思想が広まったことによってオタクが「恋愛弱者」とみなされるようになったとして、そのような状況に対するプロテストとして発表されたのが本田透電波男』(講談社文庫)というのはみなさんご存知のとおり。


 この後、宮沢が「面と向かってオタクを差別したことはない」と言ったのに対し、岡田は「『ロッキング・オン』や『STUDIO VOICE』を裏返して買ったりしないが、『アニメージュ』は裏返して買う」「部屋に女の子を連れ込んだ時に、レッド・ツェッペリンのポスターを貼っていても恥ずかしくないが、『ガンダム』のポスターを貼っていると恥ずかしい」という話をして、オタクとしてのルサンチマンの根深さを語っている(実際に岡田は女の子に部屋に貼ってあった『ガンダム』のポスターを見られているという)。
 …それにしても、岡田には「オタク=カッコ悪い サブカル=カッコいい」という強い思い込みがあるようだ。隣の芝生はなんとやら、ってやつなのかもしれないが、何故そんな風に思い込むようになったのか、とても気になる。俺は表紙がアニメ絵の雑誌でも余裕で裏返さずに買うけども。ちなみに、先月号の『SWITCH』の表紙はこんな感じ。思わずペロペロしたくなるが、サブカル系の雑誌でも最近はオタク系の特集を組むので侮れませんよ(だいたい「オタク」と「サブカル」は明確に分けられるものなのか)。


 宮沢の六本木ヒルズに集まるIT関連企業にも80年代の「おたく」と同じルサンチマンが感じられる」「堀江貴文も「おたく」だった」という意見に対し(この意見は『「80年代文化論」講義』の中で詳しく述べられている)、岡田は否定的である。P.80、P.82より。

岡田: あいつらね、友達の感じがしないんですよ。本能的に。


宮沢: 匂いがちがう(笑)。


岡田: ホリエモンのTシャツと僕のTシャツは違うんですよ(爆笑)。
 僕は大人になって、お金をある程度使えるようになってから、行きたいときにフロリダに行って「ケープケネディ」っていう宇宙服のTシャツを買ってくるんですけど、あいつね、ブランドもんのTシャツ着てるんですよ。金の使い方わかってねえんじゃねえか。

岡田: オウムはオタクだと思いますけれども、IT関係の人らというのはあまり友達の匂いがしないですもん。この間宇宙へ行こうとして結局行けなかった……榎本大輔さんか。二回くらい会ったんですけど、二回とも会ったこと忘れてましたもん。ほんとに面白くないやつだったから、覚えてないんですよ。宇宙旅行も金があるから行くだけで、べつに好きじゃないんですよ。
 宇宙好きだったら、宇宙がどんなに嫌な場所かも知ってるんですよ。二十億も払って行くやつはいないですよ。ほんとの宇宙好きに。

 …などと言っていたのだが、その後岡田は堀江貴文と一緒にトークイベントを行い、さらに堀江は「オタキングex」に入社しているので、宮沢の指摘の方が正しかったような気もしてくる。岡田と堀江というとそれ以外にも共通点がありそうだが…。宇宙飛行士は「宇宙好き」じゃないのか?とも思うけれど。


 続いて、岡田は「本当にクリエイティブな人間は毎日服を着替えたりしない」「バランスを取るやつはクリエイターになれない」という話をしている(松本零士の「生ガキを食ったときは歯を磨け」という話は「オタク座談会」でもやっていた)が、オタク業界で「クリエイティブ」な仕事をしていた人の意見を見てみよう。小牧雅伸アニメックの頃…』(NTT出版)P.75より。

この手の仕事をしていると不潔な人間は嫌われる。どんなにいい加減な身なりであっても、風呂に入らないライターは、いつか仕事が来なくなるものである。

 どの業界でも最低限の社会性は求められるということなのだろうね。なお、小牧は『アニメックの頃…』の中で、「オタク」についてかなり批判的な見方をしていて、これはいずれ紹介したい。そういえば、福田和也ユニクロのおかげでオタクのファッションが一般人に近づいてきたと言っていたが、それは別に悪いことではないだろう。思うに、「バランスの悪さ」を称える人は自分自身が逸脱することができないから、それに憧れているのではないか(同様に「狂気」に憧れる人も多いが)。現在の岡田は毎日服を着替えているだろうしね。ダイエットに成功して以来オシャレだもんなあ。


 『「ノイズ文化論」講義』P.86より。

岡田:(前略)「オウムは差別されているからすごいものが作れるんだ」っていうのは、オタクの間の暗黙の了解だったんです。
 差別されているからすごいものが作れる。それはほんとなんですけど、でもすごいものがいいとは限らない。というのが、オウム事件が僕らに与えた解答なんですね。
 オウム事件が起こる以前のオタクにとっては、オウムも友達の匂いがしてたんです。

(前略) オウム事件を作品として見たら、かなり芸術性が高いんじゃないかと思うんです。人が死んだことも含めて。でもそういうのは現代では「芸術」って言っちゃいけないから評価できない。オウムとかサリン事件をいかに薄めて表現するかが、日本のアーティストのやることなんでしょう。

 …なんというか、これは「ベタ」な意見ではある。「差別」とか「反体制」に対して憧れを持つ文化人は珍しくないわけで、ただ、それをここまで包み隠さずに言ってしまう人は珍しい。
 オウム事件の「芸術性」って何を指して言ってるんだろうなあ。地下鉄サリン事件でビニール傘を使ったり、サティアンの発泡スチロール製の像とか、個人的には「手作り感覚」を強く感じるのだけど。オウムの幹部と同世代のオタクにとってオウムは「友達」なのかもしれないが、いわゆる「オタク第三世代」の自分にとっては何らシンパシーを抱ける存在ではなかった、と言っておきたい。あと、岡田はオウム事件と同様にホロコーストや9・11にも「芸術性」を見出せるのだろうか。自分は別に「「芸術」って言っちゃいけない」とは思わないから、どうぞ堂々と評価してほしい。


 P.86〜P.87より。

岡田: オタクは弱者を好む文化でもあるわけです。女の子だったらたとえば「メガネ男子」―知的なんだけどメガネかけてなきゃいけない、ちょっとハンディキャップのある男の子萌えだったりするそうなんです。男の子でも「幼女」とかそういうものは、文化として煮詰めていくといいものだと思ってたのが、どうなるかわかんない。
 九五年あたりから、幼女に対する犯罪がどんどん増えてきました。それまでは「子どもにいたずらするロリコンはいない」っていうのが、僕らの持論だったんです。僕らは幼女を見るのが好きで、バードウォッチャーが焼き鳥を好きなわけじゃない(笑)(後略)

 「弱者を好む文化」というのはオタク文化に限った話ではなく、差別や障害がロマンチックに描かれた物語は決して珍しくない。まあ、「メガネ男子」「幼女」が「弱者」だから好まれているかというと疑問だが。稗田おんまゆら女史かちゃんみおに聞いてみようか(笹原先輩は伊達だけど)。「ロリババア」とかどうなるんだろと思うし、オタクに人気のある属性で言えば、たとえば「ツンデレ」「委員長」「幼なじみ」って「弱者」か? 
 それから、「幼女に対する犯罪」が1995年以降増加したという話はどのようなデータを元にしているのだろうか。山本弘会長の説明とはどうも違うような…。岡田斗司夫が「幼女」を好きだったとは初耳。


 P.87より。

岡田: ところが九五年以降、「子どもっぽいものを観よう」とか「特撮が好きだ」とか、あえて子どもの頃好きだったものにこだわろうとする「あえて」がなくなっちゃって、「世間の流行についていけないからアニメでも観よう」と、負け犬的になりつつあるのが現状なんです。その変化が九五年。
 ひとつはオウム事件によって、僕らがオタク文化に自信をなくしてしまったことですね。もうひとつがカミングアウトです。「おたく」が「オタク」へと、ひらがなからカタカナになったことで、カミングアウトが始まった。芸能人なんかも「オタクだ」って言い始めた。
 あと、自分の活動に責任があるんですけれども、「オタクは世界で認められてる」とか、「アニメはいいもんだ」と言ったことによって、「オタクである」というバリアが下がっちゃっている。それによって一般社会の人たちが入ってきて、オタクの総体的なレベルが下がりました。それが九五年のスタートで、変換が始まって、結果が出だしたのは二〇〇〇年に入ってからだと思います。

 いやー、マジでビックリするわー。年下のオタクを本当に容赦なく切り捨てるんだもんなあ。
 まず、今のオタクが「負け犬」だとしたら、岡田だって「負け犬」だろう。岡田が今まで「洋楽」や「サブカル」に対して不満をぶちまけていたのと「世間の流行についていけないからアニメでも観よう」という考え方は同じなんじゃないの? 「オタク」も「洋楽」も「サブカル」も好きな人間からしてみると、岡田が勝手に「負け犬」になっていくのが滑稽で仕方がなかったのだけども。
 それから、岡田はオウム事件阪神大震災について触れているが、1995年といえばなんといっても新世紀エヴァンゲリオン』の放送開始である。オタク史としては絶対に外せない大事件なのに、なぜか(あえて?)『エヴァ』に触れないあたり、岡田の『エヴァ』に対する屈折した思いがうかがえるようで興味深い。 


 …いい加減長くなりすぎたので、ここで終わっておこう。
 講義を読んでいて一番に感じるのは、岡田斗司夫被害者意識の強さである。講義の中で岡田は学生から「オタクとマニアの違い」について質問され、「マニアは人に言える趣味、オタクは人に言えない趣味」と答えていて(P.90)、岡田にとってはオタクは「差別されている」「恥ずかしい」ものなのだろう。結局、「オタク=被差別民族」論もそれの裏返しである「オタク=エリート」論もベースは岡田のそういった個人的な感情に基づくもので、「オタク・イズ・デッド」というのは「オタク=被差別民族」論か「オタク=エリート」論を信じている人間にしか通じない話であると思う。根本にある理論から疑ってかかる必要があるのではないか。
 このあたりは、『オタクはすでに死んでいる』を検証するときに詳しく書くつもりだが、岡田に対しては今回でだいぶ言いたいことを言ってしまったような気もするので、別のやり方を検討してみたい。


東京大学「ノイズ文化論」講義

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