唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

参考作戦。

パクりつくす・ガセを書きつくす・追討しつくす


 唐沢俊一の同人誌『Bの墓碑銘』中巻の巻末には執筆に当たって参考にした書物・サイトの名前が挙げられている。


Einsiders.com
IMDb
新・緑色の部屋/映画人訃報情報
・『外国映画人名事典 男優編・女優編』(キネマ旬報社
・『外国映画監督・スタッフ全集』(キネマ旬報社
・『傍役グラフィティ』(ブロンズ社)


 実は唐沢は「Einsiders.com」のアドレスを間違って表記しているのだが、それはさておき、今回問題にしたいのは「新・緑色の部屋/映画人訃報情報」についてである。
 「新・緑色の部屋/映画人訃報情報」を参考サイトとして挙げているだけあって、『Bの墓碑銘』を読んでいると「ああ、参考にしてますなあ」と思う箇所が多々あるのだけど、「いくらなんでも参考にしすぎなんじゃないの?」と思われる項目がいくつかあるので『Bの墓碑銘』と「新・緑色の部屋」の文章を比較してみたいと思う。
 ひとつめはパトリシア・マックィーニィの追悼文。『Bの墓碑銘』P.85〜86より。

 モデルやトーク番組のホステスなどを経験したあと、俳優のエージェント・プロダクションを作った。彼女のプロダクションが抱えていた若手にはシンディ・ウィリアムズ、キャンディ・クラーク、チャーリー・マーティン・スミス、テリー・ガー、フレデリック・フォレストなど70年代?(原文ママ)80年代の映画を支える俳優が揃っており、中でもジョージ・ルーカス監督の『アメリカン・グラフィティ』(1973,「American Graffiti」)は彼らを大挙出演させてヒットした。その中の、小さな役を演じたのがハリソン・フォードだった(中略)が、辣腕マネージャーのマックィーニィは、ルーカスの次回作『スターウォーズ』にも自分の抱える俳優たちを売りこむ(レイア姫役にシンディ・ウイリアムズを推挙したりもしたらしい)。結局、ハン・ソロ役で大抜擢されたハリソン・フォードはこの役をきっかけに大スターになっていくのだが、彼女への恩義を忘れることはなかった。彼女が亡くなるまで、35年の長きにわたって一人のマネージャーとだけ仕事をしていたスターはフォードをおいて他にちょっとない。

「新・緑色の部屋」

モデルやTV番組のホスト等をした後、タレントのエージェント会社を開業。彼女の顧客にはシンディ・ウィリアムズ、キャンディ・クラーク、チャーリー・マーティン・スミス、テリー・ガー、フレデリック・フォレスト等若手俳優がいて、彼らの内何人かは「アメリカン・グラフィティ」にまとめて出演することになった。その中の一人にハリソン・フォードもいて、フォードはマッキーニィに個人的にマネージャーになってくれるよう頼む。以後二人の協力関係は30年に渡って続いた。マッキーニィの名前は17歳の時に結婚(すぐに離婚)した俳優で後にプロゴルファー、そして神父になったロバート・マッキーニィ(2002年没)から。


 2つ目。ムスタファ・アッカドの追悼文。『Bの墓碑銘』P.100より。

 “同じ映画の出演者が時を隔てず連続して亡くなる”ジンクスにまたひとつ実例が。05年3月に『ハロウィン』(1978,「HALLOWEEN」)の脚本を書いているデブラ・ヒル、9月にプロデューサーのジョセフ・ウルフが亡くなったが、ウルフと共同でシリーズ全作の製作を担当していたアッカドがヨルダンの首都・アンマンで起きたホテルのテロで亡くなった。シリア生れで、ロサンゼルスに出て映画を学び、サム・ペキンパーの助監督を務めたあと、地の利を活かしたアンソニー・クイン主演の大作『ザ・メッセージ』(1976,「The Message」)と『砂漠のライオン』(1981,「Lion of the Desert」)でプロデューサー兼監督を務めた。監督としては力量不足が目立ったが、しかしこの二作で得た資金を若いジョン・カーペンターの才能に注ぎ込む決心をして、大成功を収めたのである。

「新・緑色の部屋」

「ハロウィン」シリーズには数人のプロデューサーが名を連ねているが、今年3月に脚本も書いているデブラ・ヒルが、9月にはジョセフ・ウルフが亡くなったばかりだった。しかし同様に1作目から「ハロウィン リザレクション」まで「ハロウィン」シリーズ全作品の製作を担当しているムスタファ・アッカドまでもが亡くなると、何か呪われているのではないかとすら疑ってしまう。しかもアッカドは9日に起きたアンマンでのホテル・テロの犠牲者の1人だった。アッカドの娘もこのテロで亡くなった。ムスタファ・アッカドはシリア出身、UCLAで映画作りを学び、ペキンパーの「昼下りの決闘」の助監督に就いた。そしてアンソニー・クイン主演の大作「ザ・メッセージ」と「砂漠のライオン」の監督を務め、この仕事で得た資金を「ハロウィン」に投資し、プロデューサーになった人物である。

 面白いことにこの2つの文章は同じミスを犯している。読んでいれば気付くはずだが、『砂漠のライオン』は『ハロウィン』より後に作られているから、『砂漠のライオン』で得た資金を『ハロウィン』に投じることはできないのだ。

 もうひとつ、アッカドの追悼文にも名前が出ているジョセフ・ウルフの追悼文より。『Bの墓碑銘』P.91〜92より。

 ホラー映画のヒット・メイカー。『ハロウィン』『フェイドTOブラック』『ヘルナイト』『ブギーマン(ハロウィン)』『エルム街の悪夢』などのプロデュースを全部手がけているのだから、まさに70年代以降のホラーキングと言っていい。村川透仲村トオル主演で撮った東映映画『ニューヨークUコップ』(1993,「NewYork Cop」)の企画にも参加している。世界で最初にビデオソフトのライセンス事業を始めた人でもあった。

「新・緑色の部屋」

「ハロウィン」「フェイドTOブラック」「ヘルナイト」「ブギーマン(ハロウィンⅡ)」「エルム街の悪夢」等の大ヒットしたホラー映画のプロデューサー。村川透監督の東映作品「ニューヨークUコップ」(93)の企画にも参加している。ウルフはビデオ・ソフトが出始めた頃、世界で最初にビデオのライセンス事業に目を付け、ビデオ配給会社メディア・ホーム・エンタテイメント社を創業した人物でもある。最新作『HellBent』のプレミア上映は9月14日に行われたが、その前に倒れて入院中だったウルフは参加出来ず、結局回復しなかった。

 『Bの墓碑銘』には「新・緑色の部屋」に書かれていること以外の事実がないのが凄いなあ。唐沢は『ハロウィン』が2度出てくるのをおかしいと思わなかったのだろうか。それから、IMDbではジョセフ・ウルフは『ハロウィン』のプロデュースをしていないことになっている。


 …これ以外にも「新・緑色の部屋」とカブっている部分は多々あるものの、パクリとまでは言えないと個人的に判断したので紹介しないでおく(もしかするとあらためて紹介する可能性はある)。まあ、『Bの墓碑銘』の下巻が出ないのは、「新・緑色の部屋」が2006年4月で休止しているのと関係があるような気もするのだけど…。参考にできなくなっちゃったわけだからね。
 というか、一番残念なのは『Bの墓碑銘』より「新・緑色の部屋」の文章の方がずっと優れていることだ。一例として、アン・バンクロフトの追悼文を『Bの墓碑銘』「新・緑色の部屋」とで比較してみてほしい。プロとアマを分けるものって一体なんなんだろう。


 おまけ。『Bの墓碑銘』中巻P.105〜106のハーバート・L・ストロックの「追討文」より。

『GOG』(1953)では、宇宙ステーション研究開発所の描写では、無重力実験を見せるのに、サーカスの芸人(なのだろう)を呼んできて、部屋で飛び跳ねたりさせて、それで無重力を表現したりする。なるほど、これはまだ特撮技術の進歩していない時代に、無重力を表現するのにいい手法なのかもしれない。しかし、この二人の男女、やはりサーカスのクセが抜けないのか、無事床に着地すると、にっこり笑ってポーズをとったりする。そこまでやるんなら、最後まできちんと無重力の演技をさせればいいのに、そこで撮り直す予算がないのがすなわち、B級映画なのである。

 おなじみ「最低映画館」より。

それから、宇宙服による訓練のシーン(右写真)。
「この服を着ると身軽になります」。
 とか云うのだけれど、訓練中のこの二人、どう見てもサーカスの軽業師なのだ。女を持ち上げたり、宙に飛ばしたりと、とても宇宙旅行に必要な訓練だとは思えない。しかも、芸の後、二人でポーズをとったりする。

 まさか…。また「マジソンズ」からか?(過去の被害については2009年9月29日10月26日の記事を参照)


 なお、『Bの墓碑銘』中巻が発行されたのは2007年7月、すなわち『新・UFO入門』での盗用が発覚した直後であることは特に記憶しておくべきであろう。

 
タコシェにて『唐沢俊一検証本VOL.1』『唐沢俊一検証本VOL.2』『トンデモない「昭和ニッポン怪人伝」の世界』、通販受付中です。タコシェの店頭でも販売しています。
・初めての方は「唐沢俊一まとめwiki」「唐沢俊一P&G博覧会」をごらんになることをおすすめします。
・1970年代後半に札幌でアニメ関係のサークルに入って活動されていた方は下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。
karasawagasepakuri@yahoo.co.jp
 

証言・南京事件と三光作戦 (河出文庫)

証言・南京事件と三光作戦 (河出文庫)

砂漠のライオン [DVD]

砂漠のライオン [DVD]