唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

アカデミズムなんかこわくない。

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 唐沢俊一『奇人怪人偏愛記』(楽工社)収録の「生人形にアツくなる」(P.99〜P.105)より。なお、この文章は「裏モノ日記」2004年9月24日の中の文章とほぼ同じである。

 この展示会のパンフレットに、展示会実行委員長である熊本市現代美術館長・南嶌宏の文章が掲載されているが、その文章の中の、生人形を美術とみなさなかったアカデミズムに対する怨念とも言うべき怒りのパワーには、ちょっと驚くものがある。

として、既存のアカデミズムを批判する南嶌の言葉を紹介した後で、

 いささか興奮しすぎの感はあるが、今、アニメや漫画に対し、遅ればせも極まりながらもコミットしてきたアカデミズムが、これまでのこの分野への冷ややかな仕打ちをまず頭を下げて詫びるどころか、“われわれが論ずることによってアニメやマンガを芸術の域に引き上げてやろう”的な居丈高な態度をとっていることに以前から腹の立っていた身としては、このタンカに思わず快哉を叫んでしまうのも確かなのである。いいぞ、南嶌。

と喜んでいる。生人形よりむしろアカデミズム批判にアツくなってしまっているようだが。それにしても、唐沢俊一は本当にアカデミズムが嫌いなんだなあ。「居丈高な態度」とか言われても学者さんも困ると思うが。

 とはいえ、これはまだ序の口である。アカデミズム憎しの余り墓穴を掘ってしまったこともあるのだ。同じく『奇人怪人偏愛記』P.129〜P.130より。

(前略)一時、カルチュラル・スタディーズ(文化研究)を旗印にするアカデミズムの一派が、「ホラー映画には当時のアメリカ社会の抱えている諸問題が形を変えて反映されている」
 という説を唱えていたことがあったが、これなどもその一つだろう。でなければ、あんなチャチな映画を大衆が大喜びするはずがない、という理論である。単に内容がなくて楽しめるからヒットした、とは考えられない人種なのだ、インテリというのは。

 水野晴郎が映画の解説で「病めるアメリカを象徴している」とすぐに言ってしまうのを思い出したが、しかし、アメリカのホラー映画とアメリカ社会を関連づける見方は別に珍しいものではない。たとえば、『アメリカン・ナイトメア』というホラー映画のクリエイターたちにインタビューした映画もそのようなスタンスで作られている(そして、クリエイターも社会的なことを意識して作っていることもわかる)。また、SF映画も同じような見方をされることがある。たとえば、ドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』に「反共的」な部分を見出すとか。つまり、研究者にとってSFやホラーといった分野は当時の世相を知るための格好の素材になっているわけだ。大衆のために作られた作品には、当時の大衆が何を考え何を望んでいたかが色濃く反映されている、ということなのだろう。
 …不思議なのは、ホラーやSFから社会の動きを見る、というのは、むしろ唐沢俊一のやっていることとカブるはずなのに、どうしてこうも反発するのか?ということである。唐沢だって世間から低く見られがちな「裏モノ」を取り上げてあれこれ語っているのだから、同じ方向性を持って活動する人が多くなれば、より深い研究ができると歓迎してもよさそうなものなのだが。…いや、逆に自分のやっている事とカブるからこそ反発しているのかもしれない。東浩紀を潰そうとしたようなもので(詳しくは2月5日の記事を参照)。
 で、心の底から呆れてしまうのは、唐沢俊一も「映画から社会を読み解こうとしている」のに、同じことをしている研究者を批判していることだ。…じゃあ、『007』と『男はつらいよ』を「観光映画」として分析していたのは一体なんだったのかと(詳しくは5月19日の記事を参照)。あと、『EX大衆』10月号でこんなことも言っている(詳しくは10月11日の記事を参照)。

 怪獣映画の原点は社会不安だと思うんです。怪獣映画とホラー映画は交互に流行ると言われていて、戦争や原水爆といった目に見える恐怖のアナロジーが怪獣映画で、公害や伝染病といった目に見えない恐怖はホラー映画で表現されています。

おいおいおい! 
「ホラー映画には当時の日本社会の抱えている諸問題が形を変えて反映されている」って言っているじゃないか(ただし、唐沢の見方はおかしい)。なんで自分と同じことを言っている研究者を批判するんだ? あと、『ゴジラ』は「御霊信仰」の映画だとも言ってたし(詳しくは2008年11月6日の記事を参照)。これからは映画について聞かれたら余計な分析などせず「内容がなくて楽しめる」とだけ答えてほしいものだ。そんな批評に意味があるかどうかはわからないが。


 …唐沢俊一が自分のやってきたことを思わず否定してしまったのは、それほどアカデミズムが憎かったからだと思う。そして、唐沢俊一を支持している人の中にもアカデミズムに対する反感を持った人が一定数いるのだとも思う(当ブログにもそのようなコメントが寄せられたことがある)。自分自身は学者さんがサブカルチャーを研究することに特に抵抗を感じないのだが、もしかするとこれは世代的な問題なのかもしれない。自分がサブカルに興味を持ち始めた時点では既に漫画や映画などのサブカルを批評できる状況がある程度できあがっていて、後になって多くの評論家が大学の教壇に上がることになっても「みなさんそれだけのことをやっていたからなあ」と不思議には思わなかった。そういえば、自分も大学の社会学の授業でレポート発表の時にある特撮映画を紹介したことがあるのを思い出した(幸いにもわりと好評だった…はず)。その時も別に「ウケを狙ってやろう」と思ったわけではなくて、「この映画だってレポートのテーマに含まれるんだから」という意識でやっていたのだ。だが、自分より年上の人にとっては、サブカルがまともな学問として取り上げられるという状況を想像できなかったのかも、と考えると、アカデミズムで「オタク」的なジャンルが取り上げられることに反感を持つ人がいてもおかしくはない、と思う。ただ、アカデミズムに反感を持っているからといって唐沢俊一を支持するのはやめておいた方がいい。学者に負けたくないあまりに唐沢みたいに「内容がなくて楽しめる」とか「理屈抜きで楽しい」(最近の『エンサイスロペディア』で頻出する意見)と、自らすすんでバカになろうとしているのはどうかと思うので。あと、唐沢とカルスタの方向性がそれほど違わないところを見ると(もちろん実際にやっていることは大違いだが)、唐沢のやっていることは結局のところ「アカデミズムまがい」なのかなあ、とも思った。「まがい」をやるくらいならちゃんとしたアカデミズムをやった方がいいに決まっているけど。
 なお、自分のアカデミズムに対する見方は2月7日の記事のコメント欄で書いてあるのであらためて引用しておく。

アカデミズムを「難しい」と思う必要はないと思いますし、ちゃんとオタクをやっていれば十分に対抗できるはずです。たとえば、東さんについては、話は面白いんですけど、具体的な指摘になると「?」となることが少なくありません。「東さんはどれだけ下調べしたんだろう?」と思ってしまうのです。そういうあたりを「それって本当なの?」と突っ込みを入れるのはなかなか有効だと思います。唐沢俊一の『動物化するポストモダン』批判に説得力があったのは、まがりなりに東さんの弱点を突いていたためだと思います(人格攻撃をやって台無しにしてしまいましたが)。まあ、アカデミズムはディティールにこだわることが好きなオタクに全体像を提供する役割もあるんじゃないか?と思うので、両者が対立する必要は無いのに、と少し残念に思います。

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