唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

唐沢俊一の最終目的地は?

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 今回は『フィギュア王』№79に掲載された唐沢俊一『カラサワ流奇想怪想玩具企画』第17回手塚治虫というキャラクター」を取り上げる。

手塚という存在を日本マンガ史の中で出来るだけ相対化させようという動きが最近のマンガ研究界では大きいようだが、そのこと自体は否定しないまでも、やはり手塚は日本のマンガのテクニック史の節々に顔を出しているのである。そればかりではない。私は、日本のオタク史は、手塚治虫から説き起こすべし、という主張を唱えている人間なのである。
 一九五〇年代後半から六〇年代生れのオタクを、通称第一世代と呼ぶ。オタクのライフスタイルを作ったのがこの世代なのだが、その彼らのモデルとなったのが、手塚治虫ではないか、と私は見ているのだ。

 というわけで、唐沢は手塚治虫こそがオタクのモデルとなった人物だと書いているのである。
 第一に、『バンビ』にのめりこんで何十回も観て全てを記憶してしまったことが「オタク」的だという(『ぼくはマンガ家』によれば80回以上観たとのこと)。小林信彦も『ウエストサイド物語』を30回以上観たんじゃなかったっけ。なお、唐沢は『バンビ』の日本公開を「昭和二十四年、有楽町のスバル座で」と書いているが、正しくは昭和26年5月公開である(IMDb)。
 第二に。

オタクは仕事より趣味を優先させるのが常だが、手塚は医学校を卒業したとき、四国の無医村の病院への赴任を勧められたが、
「その村では映画が見られない」
 という理由で断っている。医者としての自覚とか使命感などというものはなかったようだ。また、そういう人格を疑われるような話をツラリとして語ってしまう無神経さもまた、オタク的ではある。

 この話も事実のようだ(ただし『ぼくはマンガ家』で手塚は「三日に一度はネオンの灯を見ないことには気が休まらない」ので話を断っている)。しかし、「自分には向いていない」と決断することも立派な責任のつけ方ではないだろうか。この論法が通るなら、唐沢俊一に対しても「親の後を継いで薬剤師にならなかったのは…」とか言えてしまうし、だいたい唐沢にライターとして「自覚とか使命感」があれば盗用なんてしていないだろう。「人格を疑われる」のはむしろ唐沢の方ではないのか。…っていうか、一般のオタクのみなさんは仕事と趣味を両立させているはずだし、別に無神経でもないと思うのだが。
 第三に。

(前略)仕事が忙しくてなかなか結婚できず、独身生活が長く続いたときには、独りで映画館で映画を観ながら、
「オレの女房はマンガなんだ……」
 と自分に言い聞かせていたという。独身オタク諸氏なら、この“マンガ”の部分に、フィギュアとか、ゲームとか、萌えキャラとか、いろんな文句を当てはめて自らに引き寄せられるセリフであろう。そして、いよいよ結婚となるわけだが、その理由が“美人だったから”だという。凄い。後には手塚氏も、自分の妻の案外性根の座った人格に尊敬の念を抱くようになったようだが、結婚当時の彼は自他ともに許す面食いで、美人以外の女性は女性でない、という思想の持ち主だったそうである。なにしろ、後に練馬区富士見台で虫プロを設立したとき、男性社員の面接は人にまかせても女性社員の面接は全て彼がとり行い、その結果、当然のことながら美人だけが入社を許され、大根畑しかないような富士見台駅にやたら美人が降りるという噂が立ち、
「美人と結婚したいなら富士見台に行け」
 とまで近郷近在で言われたほどだったという。話半分にしても傑作で、外見を何より重視するオタクの根性が、ここでも現れている。

 オタクが本当に「外見を何より重視」しているのならもう少し自分のオシャレにも気を使うんじゃないかなあ。唐沢俊一はオタクはみんな「チェックのシャツに肩掛けカバン」だと決め付けていたけど(詳しくは8月31日の記事を参照)。それにオタクだから「面食い」というわけでもないだろうし。

 こういう人物に影響を受けた第一世代が、極めてオタク的な人格形成をとげたのも、無理はない気がするのである。論より証拠、彼の息子の真氏は、そういう親父の背中を見て育って、立派なオタクとなった。

 いや、父親に影響を受けるのと作家に影響を受けるのはわけが違うだろう。ある作家のファンだからといって、その作家の性格に似てしまうわけでもないのだから。手塚の作品を見た人間が、性格まで手塚に似てくると言うのは何やらホラーみたいだ。唐沢俊一自身がどのようにして手塚に影響を受けたのか、という話をすればよかったと思う。本当に受けていればの話だけど。
 それに手塚治虫に「オタク」的な部分があったということは、「オタク第一世代」以前の世代の人間にも「オタク」がいたとも考えられるのではないのだろうか。そうなると、「オタク第一世代」は実は「第一世代」ではなかったという話になりそうなものだけど。…唐沢俊一は無自覚の内にヤバい話をしているような気がする。


 その後、手塚がアニメーションを手がけたことについて「オタク的行動理念」があったとしている。

 日本のオタク発生の出発点に手塚治虫の名を置くことには、異論も多い。手塚の名はマンガ史、アニメ史、SF史、その他の文化に非常に多岐にわたって関わっており、ことオタクに限ってその元祖的存在と位置づけることに意味がないのでは、という意見もある。
 だが、敢えて、ここで手塚という存在がなければ、オタク文化というものの、日本における独自性はなかった、と断言しておきたいと思う。それは、手塚治虫の考案した、ある手法に非常に密接に関係しているのだ。

 として、手塚の用いた動きの少ないアニメーション(リミテッド・アニメーション)によって、日本のアニメファンはアニメの「動き」よりもキャラクターや声優の方に興味を持つようになり、1970年代のアニメブームの下地は手塚の手法が作ったものだったとしている。さらに、

 彼ら(引用者註 アニメファン)が好んだのは自分たちが模写しやすい、止めの多く入った作品であり、また、動きを強調する曲線よりは、シャープな直線を用いたメカニックのデザインの方に賛辞が送られた。
(中略)
 美少年・美少女を中心としたキャラクター設定と、その声を受け持つ声優、そしてメカニック描写。この三点セットこそが、アニメーションの略語としてではなく、独自の意味合いを持った《アニメ》を、日本のオタク文化の基礎にまで成長させた要素だ。いまや、《ANIME》は世界で通用する、オタクが作り上げた日本語になっている。
 日本におけるアニメを語る際に、多くの識者がおちいるのが、アニメーションとアニメが同一平面状にあるという誤解であり、またその違いを手塚治虫が無意識に育てあげたという事実を忘れている(または最初から気がついていない)者がほとんどなのである。

 手塚治虫の作ったアニメは動きが少なかった→ファンはキャラや声優に興味を持つようになった→日本独自のアニメが発展した、ということなのだろうか。『ファイナル・デスティネーション』みたいな流れだなあ。…っていうか、「三点セット」のうちカニック描写は手塚治虫と関係が無いじゃん。あと、日本のアニメが世界的に見て独特のものであることについて「多くの識者」はちゃんと触れていると思うのだけど。

 まあ、唐沢俊一にはぜひとも「日本のオタク史」を手塚治虫から説き起こしてほしいものだと思う。著書の中で1回は必ず手塚へのあてこすりをしているくらいなのだから、やる気はあるんだろうしね。

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