唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

唐沢俊一vs東浩紀(前篇)。

 久々に続き物である。今回は、唐沢俊一東浩紀氏の論争、というかバトルについて考えてみる。
 まず、今回調べていてビックリしたのは唐沢俊一の東氏への関心の強さである。ためしに『裏モノ日記』を“東浩紀”というキーワードで検索してみたらなんと85件もヒットした。凄いなあ。特に2000年前後は頻繁に言及されている。何が彼をそうさせたのか。

 『裏モノ日記』での東氏への批判をいちいち取り上げていくと大変なので、ひとつだけ取り上げてみる。『裏モノ日記』2000年7月2日より。

読売新聞の書評欄『戦闘少女の精神分析』における東浩紀氏の文章に曰く“本書の分析はおたくたちの閉鎖的集団を前提にしているが、書評者の実感では、むしろここ数年おたくの集団は解体し、“おたく”と“非おたく”の境界にある作品や商品が普通に蔓延している。(中略)おたく的感性を“病理”として捉えるのはすでに無理ではないか”。どうも精神分析現代思想とでメシのタネのオタクの取合いをしているようである。オタク諸君、今なら自分を高く売れるぞ。

 東浩紀氏の悪口はあまり言いたくない。“またか”と思われるからだが、それにしても東氏ファンに聞きたい。今日の書評もそうだったが、彼、文章があまりに下手すぎないか? 彼の著作におけるデリダ論などは内容が内容だけに、わかりにくいこともあたりまえ、と思ってその難解さを不思議に思ってもいないだろうが、多くの雑誌に掲載されている彼の文章を読むと、その著作の難解さの大部分は彼の文章の下手くそさに起因しているのではないか、と思わざるを得ないのである。今日の書評欄の文章(内容のことは措く)などは最たるものだ。悪文ならまだよろしい。単なる幼稚な文章なのである。ウソだと思うなら、同じ書評欄の他の評者の文章と比較してみるといい。読売の書評欄は評者に多く大学関係者を起用するという悪癖を有しており、大学関係者の文章の読みづらいことは(まあ、読みやすい面白い文章を、という要求を大学というところはそもそもされないところなので致し方ないが)夙に大方より指摘されている通りなのだが、その中でも東氏の文章は群を抜いて下手である。中学生以 下である。若くして名をなした故に、誰も直截にそれを指摘してくれないのは、東氏 の不幸だろう。東氏よ、師匠の浅田氏の文章は、そこはやはり学者文であったが、それでも若い読者に向けての工夫と、1パーセントの“売文の徒”としての媚びがあった。この媚びを卑下と思ってはいけない。自分の文章を金を払って読んでくれる者への礼儀としての愛想である。人脈を見るに回りにあまりいい文章書きがいないようだが、誰でもいい、今のうちに上手な文章を書ける人を選んで、半年くらいその人について作文のお勉強をすることだ。さもないと、後で苦労するよ。

…いやあ、今この文章を読んでみると笑えて仕方ない。唐沢俊一朝日新聞」の書評委員になってからの体たらくを知っていると「お前が言うな」としか思えない。東氏は蓮實重彦の書いたことをそのまま書いていたりしてたのかなあ?(詳しくは2月3日の記事を参照) 他には「アフリカという国」と書いたり、「老人性愛」を誤用したり(2008年9月3日の記事より)、ウディ・アレンについて先見の明を誇ろうとして失敗したり・・・(2008年12月16日の記事より)。まあ、当ブログ内を「朝日新聞」「書評」で検索していただければ他にも出てくると思うが。あと、唐沢俊一2007年の6月から10月末まで「朝日新聞」の書評欄から突然姿を消しているけど(理由はみなさんおわかりですね)、東氏は「読売新聞」の書評を担当している間に不祥事を起こしたりしたんだろうか?…結局のところ、他人に対して好き勝手なことを言っておきながら、いざ自分が同じ立場におかれたら全く仕事をこなせていないということなのだ。
 個人的に注目したいのは、まず「オタク諸君、今なら自分を高く売れるぞ」という部分。つまり、唐沢俊一は東氏への批判を「オタク業界」内での権力闘争(そんな大層なものでもないかな)として行っていたフシがあるのだ。だからこそ、あれほど執拗に批判していたわけだ。東氏の出現で自分の「メシのタネ」が少なくなるんじゃないかと心配したんだろうか。これは自分の邪推ではなくて、実は唐沢俊一自身が後になってそのように受け取れる発言をしているのである(詳しくは後篇で!)。次に「彼、文章があまりに下手すぎないか?」という部分。それを言うならどこが下手なのか具体的に指摘して欲しいが、唐沢はそれをしない。過去には柳下毅一郎氏の文章にも難癖をつけて激怒させていたこともある(詳しくはまとめwikiで)。でも、唐沢俊一だって文章はヘタじゃん。自分は親切だから具体的に指摘してあげると、一番問題なのは「わざと古めかした文章を書いている」こと。文法をよくわかってないのに古語っぽくしようとするから読みにくくてしょうがない。それに、格言を間違えるし、「脆弱」を「危弱」と間違えるし(タイプミスではありえない間違い)。上手な文章を書ける人を選んで、半年くらいその人について作文のお勉強をしたことがなかったから、今になって苦労しているんだろうね。…具体的な指摘も出来ないのに、他人の文章にケチをつけるというのは、「おまえの文章は気に食わない」とダダをこねてるだけとしか思えないので(もしくは「自分には読解力がありません」と公言しているようなものだ)、今後はやめておいた方がいいと思う。
 で、この日記に対しては東氏も反論している。ウンザリしているのがよく伝わってくる。東氏は唐沢俊一につきまとわれるのに嫌気が差しているのだが、唐沢俊一はこの後も東氏のことをしつこく批判し続けていくのであった。

 次に取り上げるのは、東氏の著書『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)への唐沢俊一による批判である。実は、この唐沢俊一の批判はわりとマトモである。唐沢は東氏の著書に散見される事実関係の間違いを指摘することによって、

 ここまで間違った認識、及び不足している知識をベースにオタクを語ろうとすれば、導かれる結論がゆがんだものになることも当然すぎるくらい当然のことである。

と批判しているのである。…まあ、現在、唐沢俊一同じような手法で当ブログによって検証&批判されているんだから皮肉でしかないのだが。
 唐沢俊一が批判している点を列挙すると、

・女性のオタクの総称は「やおい」ではない
・リミテッド・アニメについての誤り
『裏モノ日記』2001年11月27日を参照)
・『ホルスの大冒険』はディズニー・フライシャー兄弟の伝統に則った正統的なアニメーションではない
・「お涙頂戴もの」は過去にも存在したのであって、「泣きゲー」をもって「動物化」の表れとは言えない
・90年代のオタクも作品世界が伝えるテーマ・メッセージに関心を持っている

 個々の点においてはそれなりに説得力のある批判だと思う。ただ、これらの批判が『動物化するポストモダン』の決定的な弱点を突いているかというと、少々疑問である。自分自身も『動物化するポストモダン』を読んでなかなか興味深く感じたし(たしかに若干疑問に感じる部分はあった)、Amazonのカスタマーレビューでも「欠点はあるが評価できる」という評が多い。だから、どうして唐沢俊一が『動物化するポストモダン』を全否定しているのかが不思議なのである。ましてや、唐沢は岡田斗司夫氏と一緒に「オタク業界」で後進が育っていないことにたびたび不満を漏らしているんだから。オタクの先輩からそのような批判をされて後輩のためになるわけがないんじゃないか?…というわけで、以下に唐沢俊一の『動物化するポストモダン』批判の問題点を挙げていく。
 
その1.『動物化するポストモダン』は「トンデモ本」か?
 唐沢俊一による『動物化するポストモダン』批判の最大の問題点は、批判をよりによってトンデモ本の世界S』(大田出版)で行っていることである。しかし、唐沢俊一が『動物化するポストモダン』を取り上げた理由は、「トンデモ本」の定義である「著者の意図とは異なる視点から楽しむことができる本」とは少しズレているのだ。『S』P.117より。

(前略)UFOやオカルトといった“あまり褒められたものでないもの”への嗜好を哲学風思想で高級ぽくコーティングしてみせたジョージ・アダムスキーの信奉者たちの行動と似かよった匂いがプンプンする。自分に都合のいい予言者でさえあれば、例えインチキであってもそれを必要とするのは、トンデモ業界ばかりではないらしい。この本をトンデモ本紹介の本書で取り上げた所以である。

…だそうである。唐沢俊一が読んでいて楽しかったわけじゃないらしい。しかし、科学的に明らかな虚偽であるアダムスキーの理論と、理論そのものが誤りであると証明されたわけではない東氏の理論を同じように扱うのは疑問である(宇宙人と現代思想を一緒にするのはどうなんだろう)。それに唐沢俊一の批判は事実関係の誤りを指摘し続けるだけで、読んだところで『動物化するポストモダン』を「著者の意図とは異なる視点から楽しむことができる」ようになるわけではない(後で紹介するが唐沢の批判はかなり口汚い)。どうも、「と学会」運営委員である唐沢俊一のお気に召さなかったために『動物化するポストモダン』は「トンデモ本」にされてしまったんじゃないか?と思われてならない。他の運営委員は何も言わなかったのだろうか?俺様基準で「トンデモ本」を認定するのもどうかと思うが、せめてもっと読者を楽しませる努力をしてほしいところだ。それにしても、『動物化するポストモダン』が「トンデモ本」になるのなら、唐沢俊一は同じように「誤った知識をもとに歪んだ結論を導き出している」と伊藤剛さんの『テヅカ・イズ・デッド』を『サイゾー』や『創』のオタク対談で(しかも2回にわたって)批判しているんだから、『テヅカ・イズ・デッド』も「トンデモ本」になってしまうのだろうか(この件についてもいずれ取り上げます)。まあ、「誤った知識をもとに歪んだ結論を導き出している」ことにかけて唐沢俊一の右に出る者はいないと思うけど

その2.唐沢俊一のオタク蔑視がヒドい。
 唐沢俊一は東氏の文章に登場するオタクのイメージが歪んでいると言うが、唐沢俊一のオタクのイメージだって相当なものである。『社会派くんがゆく!死闘編』(アスペクト)のコラムより。

オタク向きのエロゲーに登場する女性たちは、設定こそ小学生とか中学生の美少女なのに、みんなメロン並の巨乳なんである。乳房がそんな馬鹿デカく発育しているのに、下の方はつるぺたの無毛なのである。しかも乳首はツンと上を向き、Tシャツの布地を持ち上げてポッチから乳輪まであらわに見えているんである。……でもって、ちょっと体に触られるともう濡れぬれにヌレて、「あはぁん、お兄ちゃんいやぁん」などとみだらな声を立てるのである。入れると処女でもいきなりヨガりはじめるのである。……一部妄想も入っているが、いやしかしまったく、秋葉原で売っている、エロゲーエロマンガの女性たちってみんなこんなんなのである

…いや、そんなキャラ、今の「エロゲーエロマンガ」に出てこないよ。なんという貧困なイメージ。あまりにもひどいので石黒直樹氏に突っ込まれている(石黒氏は東氏も批判しているが)。まあ、唐沢俊一が「萌え」を理解できないと言ったり、若いオタクをバカにしているのは今に始まったことじゃないんだが、その割には東大の講義で「江戸川由利子はツンデレ」などとウケ狙いに走っていたので、「生き残るのに必死なんだなあ」と受講していたオールバックにスーツの男も思わず涙をこぼしてしまったという(詳しくは2008年10月23日の記事を参照)。…というか、「オタク第一世代」の第一人者とされている人が、どうしてこんなことを書くんだろう?この文章を読んだ人は間違いなくオタクに対して悪いイメージを持つと思う。それに『トンデモ本の世界S』P.116〜117にはこのような記述がある。

自分の内部にあるオタク性にコンプレックスを持つ者にとり、それを現代思想用語で語ることであたかも時代の先端を行き高級なものであるかのように変貌させられる東式オタク理論は、一定数のニーズがあるのだろう。

…どうも、唐沢俊一にはある思い込みがあるようだ。それは「オタクには現代思想が理解できない」という思い込みだ。…いや、東氏に限らず、オタクな趣味を持ちつつ現代思想を勉強している人間はたくさんいると思うのだが。おそらく「現代思想は難しくてわからない」という思い込みも唐沢にはあるのだろう。しかし、『動物化するポストモダン』という本はさほど難しくはないから、現代思想のことをよく知らない人でも理解できる内容になっている(そもそも新書なんだからあまり専門的なことが書かれているはずがない)。自分が「自分の内部にあるオタク性にコンプレックスを持つ者」だからといって、自分が『動物化するポストモダン』を理解できないからといって、みんながみんな自分と同じだと思ってはいけない唐沢俊一のオタク蔑視というか同族嫌悪を感じてあまり気分は良くない。

その3.東氏への批判が自分へとはねかえってきている。
 唐沢俊一による批判は、『トンデモ本の世界S』が発売された2004年当時はそれなりに支持されたようである。ただ、それは唐沢俊一がオタクとして十分な知識と経験を有していると思われていたからこそ批判に説得力があったわけで、盗用発覚という壮絶な自爆を遂げた今となっては唐沢への幻想はほとんど存在しない。まあ、自分も「ガンダム論争」を発掘したりして「幻想殺し」(イマジンブレイカー)を発動させてしまったので、機会があれば唐沢俊一に「いや〜、メンゴメンゴ☆」と自分なりに精一杯の謝罪をして見たいと思う。…ともあれ、5年が経過して唐沢俊一による東氏への批判はかなり味わい深いものになっている。ヴィンテージが芳醇の時を迎えたわけである。『仮面ライダーG』は「昭和のノリが入った平成ライダー」という感じで最高だったが、みなさんにも唐沢俊一の批判を紹介してみたいと思う。検証しながら笑っちゃってしょうがなかったもの。それでは、『トンデモ本の世界S』より「今日の唐沢俊一迷言集」をどうぞ!(BGMはジェームス・ラスト・バンド“vibrations”)

 これに限らず東氏の理論が、実際のオタクシーンをよく知る者にとってピントはずれなのは、まず第一に、東氏自身のオタクに関する記述が嘘(穏当に語を選ぶなら間違い、もしくはミス)だらけだということが理由として挙げられる。(P.111)

(前略)などと、一から十まで間違っていることを自信満々に語っている。こういう誤りは、もちろんその分野に詳しい人たちから、目につくたびに指摘されているのだが、東氏はそのような指摘をほとんど無視するばかりか、新しい本が出るたびに、懲りずにそういう発言をやらかしている。ミスは人間誰でもおかすが、こう続けばトンデモとみなされる。(P.112)

(前略)などというトンチンカンな発言をして得々としているのを見ると、この人にはものを実証した上で語るという、学問における基礎の基礎とも言える姿勢が根本的に欠落しているのではないか、と思えてならない。かなりの確率で東氏は、『ホルスの大冒険』を実際には見ていないと思えるのである(実際に見ていてこういうことを書いたなら、それは映像作品を鑑賞する能力がテンから欠けているということだ)。(P.112〜113)

しかし、肝心の、それによって分析しようとするオタク的事象については、その証明を大きく省略するか、あるいは、全くはぶくことが多い。(P.113)

つまり、まず自分の新説(論壇向けに受けのいい、新奇な主張)ありきであって、それに適合しない“現実”の方は、見て見ぬふりをするのである。
 いや、見て見ぬふりをするなら、まだ、いい。そこらでタヌキぶりを発揮できるのは、むしろ学者として後の大成が期待できる。東氏のこういう言説は、どうも天然であるらしい。視野があまりに狭いために、自分の論と合致しないオタク業界の他の部分は、最初から目に入らないのだ。
(P.114)

つまりミもフタもなく言ってしまえば、この『動物化するポストモダン』なる本は、ちょっと周辺文化に対する知識があれば常識にすぎないことを、知識不足の故に、まるで自分が新発見した事実であるかのように騒ぎ立てている、幼稚園児が捕まえたセミを興奮して大人に見せて回っているような本でしかない。(P.116)

…文中の「東氏」を「唐沢俊一」に置き換えてもまるで違和感なし!なんという見事なブーメランっぷり。しかし、よくぞここまで罵詈雑言を並べ立てられたものだ。東氏の理論に間違いがあるというのなら反論すればいいのであって、東氏本人を攻撃する必要はないと思うのだが。どうやら、この人には根っこのところに「荒らし」体質があるらしく(「ガンダム論争」の時からそうだし)、他人を攻撃しないと気が済まないらしい。『動物化するポストモダン』への反論として「オタク文化は過去からの連続で成り立っているのである」という内容の本を書けば、その本で読んだ人たちから新しい物の見方が広がったかもしれないのに(あ、でもガセばっかりだったら困るな)、ただただ東浩紀(および東氏の支持者)への個人攻撃に終始している唐沢俊一って一体何を考えているんだろう?


…さて、以下は次回に続くわけだが、『トンデモ本の世界S』での『動物化するポストモダン』批判で、唐沢vs東は終わっていると思っている人が多いかもしれない。ネットで検索をかけてもあまりヒットしないのだ。だから、自分は今回唐沢vs東の第2ラウンドについてまとめようと思ったんだけどね。なかなか面白い話だと思うのでお楽しみに。


※追記  文章の一部を訂正しました(2013.5・21)。  



動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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