痴愚人退散。
唐沢俊一『猟奇の社怪史』(ミリオン出版)
第11講「生と死をめぐるアンビバレントな欲動」P.108
チャップリン後期の代表作に『殺人狂時代』(一九四七年)があるが、ここでチャップリン演じる殺人者アンリ・ヴェルドゥが処刑台に上がる前に言うセリフ
「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」
という言葉は、多くの名言集にチャップリンの言葉として引かれているが、実はギリシアの哲学者エラスムスの言葉だそうである。似たような言葉も紹介されており、こちらの方がより含蓄がありそうだ。
「一人の人間を殺すと、殺人者である。幾百万の人間を殺すと、征服者である。すべての人間を殺すと、神である」(生物学者ジャン・ロスタン)
・・・初めて読んだ時はひっくりかえりそうになった。エラスムスはオランダ出身だよ!エラスムスがルネサンス期に活動していた人文主義者だと知っていれば「ギリシアの哲学者」とはならないはずだ。もちろん、唐沢がネタ元にしているロベール・サバチエ『死の辞典』(読売新聞社)も「オランダの人文学者」と紹介している。…何を言ったらいいのか、雑学以前に教養がないとしか…。それから、『死の辞典』にあるエラスムスの名言は「たった一人を殺せば極悪人となる。多数を殺せば英雄となる」である。いつものことながら不正確な引用である。なお、『殺人狂時代』のチャップリンのセリフは、“One murder makes a villain, millions a hero. ”だが、この言葉はイギリスの司祭ベイルビー・ポーチェス(Beilby Porteus)が言ったものだとされている。ついでに書いておくと、ジャン・ロスタン(Jean Rostand)は、『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者であるエドモン・ロスタンの弟。
「生と死をめぐるアンビバレントな欲動」での『死の辞典』の紹介はどれも不正確なのでいちいち指摘していく。
ローマ皇帝コンモドゥスは素人医術マニアで、みずから臣下たちの病気を治療して瀉血(悪い血を抜くという当時の医療)を施したが、いつも失敗して最後の一滴まで血を抜いてしまった(『猟奇の社怪史』P.103)
ローマ皇帝コンモドゥスはみずから医術を行い、病人たちにしゃ血(原文ママ)の治療を施したが、いつも最後の一滴までしゃ血してしまった(『死の辞典』P.570)
コンモドゥスは暴君として有名なんだから(『グラディエーター』でホアキン・フェニックスが演じていた皇帝である)わざと血を抜いて殺していた可能性も有ると思うのだが。
トロツキーは何故か、死ぬ際に理髪師に髪を整えてもらいたいと望んでいた。暗殺された方法が頭にアイスピックを突き立てられたためで、医者が傷の回りの髪を整えたので、彼は満足して死んだ(『社怪史』P.103)
(前略)トロツキーは、自分が死ぬ日には、理髪師を呼ばせようと心に決めていた。当日、傷のまわりの髪を整えてもらいながら、妻に向かって、やはり理髪師は来てくれたね、とつぶやいた(『死の辞典』P.592)
唐沢の文章がかなりひどい悪文。そして、トロツキー暗殺に使用された凶器はピッケルである。わざわざガセビアを付け加えなくても。
フランス革命で凄まじい数の人間の首をギロチンにかけて殺したロベスピエールだが、最後は自身もギロチンにかけられた。彼の首が落ちたとき、民衆から声がかかった。“アンコール!”(『社怪史』P.104)
アリサン・ド・シャゼがその『回想録』で思い出していることである。二人の息子の命をロベスピエールに奪われた母親がいた。その母親が口にした驚くべきことばを思い出すたびに、シャゼはいつも身震いを禁じえなかったという。その母親はテルミドール月九日の処刑に立ち会ったのだが、最初の息子の首が切り落とされた時、彼女は力の限りに叫んだ。「もう一度!」(『死の辞典』P.747)
これは『死の辞典』の文章もよくわからない。とはいえ、唐沢の文章も内容の伝え方が不十分である。
イングランドのジェームズ一世は禁煙論者でたばこが大嫌いだった。彼が廷臣だったウォルター・ローリー卿を処刑したのはローリーが英国に煙草を伝えた人物だったからではないかと言われている(『社怪史』P.104)
イングランドのジェームズ一世はたばこを嫌った王である。たばこを非難する『嫌煙論』を書くだけにとどまらず、喫煙者はすべて絞首刑にするというお触れを出した。喫煙者を皆殺しにすることは実際にはむずかしかったので、英国にパイプをもたらしたローリを絞首刑にして満足した(『死の辞典』P.827)
ウォルター・ローリーの処刑の理由には異説がある(植民地での略奪行為、黄金探しの失敗など)。
十八世紀のフランスの名家シャロレー伯爵家の跡継ぎシャルル・ド・ブルボンの趣味は猟銃だった。猟銃といっても、鹿や鳥を撃つのではなく、彼の的はもっぱら、パリ市内の屋根の上で働く煙突掃除や瓦葺きの職人たちであったというから始末におえない。
まったく、エラい人間というのはエラくない人間たちの命を粗末に扱う。これも、ひょっとしたら、自分の死に対する恐怖をまぎらわす行為なのかもしれない。自分は人の命をここまで軽く扱えるのだから、自分自身の死でさえ好きにできるのだ、という妄想を得るための。(『社怪史』P.106)
シャロレー伯のシャルル・ド・ブルボンは屋根の上で働く職人たちをマスケット銃で撃つのが大好きだった。告訴を避けるため、伯爵はルイ十五世に赦免を請い続けていたが、ある日、憤慨した王は伯爵に言った。「まただ、だが、いいか、今度はしっかりと申しておくぞ、おなじことをまた繰り返したら、お前を殺す者の赦免状には前もって署名しておく!」(『死の辞典』P.142)
唐沢スルーの法則発動。面白い話なんだからカットせずに書こうよ。
…『死の辞典』は厖大な資料から「死」にまつわる数多くのデータを集めたものであり、データが多い(900ページもある!)だけに中には誤りもある。だから、誤りを検証しながら内容を紹介していくというのはアリだと思うのだが、唐沢俊一がやっていることはただ単に自分の都合のいいように改変しているだけであって、とても容認できるものではない。…こんな具合にいくつものトリビアが台無しにされたのかも知れないなあ。エラスムスも知らないし、雑学に向いてないんじゃないか?「それは君、エラスムスやないか」って思わずビーグル38の大御所漫才(3人組だったと知ってビックリ)みたいに突っ込みたくなってしまったよ。
※追記 筑前の猪さんのご指摘に基づいて、トロツキー暗殺の凶器についての記述を追加しました。
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