唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

言葉につける薬が必要。

『薬局通』P.207〜9

 最初は朝鮮、そして中国と、常に海外からの医学・薬学に依存して自らの医療制度を変えてきた日本は、その後、またも外部からの制度導入によって大きな変化を余儀なくされた。いうまでもなく、明治維新による欧米の制度導入である。
 明治七年八月十八日、わが国で最初の医制が公布された。ただし、東京・京都・大阪の三府のみである。いまでいう医薬分業を決め、医師と薬剤師の区分をはっきりとさせるのが目的であった。……もっとも、これも例によってアチラの制度の丸輸入という日本お得意のやり方であり、明治政府の役人が医薬分業の意味をどれだけ心得ていたか疑わしい。そのなによりの証拠としてそれから十年後の明治十七年、政府は法律上は医薬分業をうたい続けながら、医師の薬舗(薬局のこと)兼業を認める方針を打ち出したのである。その不徹底さが、なんと今日に至っても(現行の医師法で、例外規定を除いて薬剤の使用は処方箋による、と規定されているにもかかわらず)まだ完全な医薬分業がわが国で行われていないという現状のモトとなっている。
 もっとも、この不徹底は政府の責任ばかりではない。われわれ庶民の方にもだいぶ原因がある。そのひとつは日本国民のお上に対する柔順さである。お上というよりはおエライさんだ。
「末は博士か大臣か」
 などといわれた時代の、大臣が認可を与えた医学博士のやることにマチガイはない、よしあったところでわたしどもシモジモのものが口出ししてもどうなるものでない、そういった諦観をわれわれ日本人はあまりにもちすぎた。ようやく最近になり、医者というものはかなりヨコザマなことをしているのではないか、ということに気づきはじめたらしいが、ちょっと前まで、医師の出した処方に患者はまず、文句はつけられない雰囲気だったのだ。
「患者はよらしむべし、知らしむべからず」
 というのが医師たちの合言葉ではなかったかと思うほどだ。インフォームド・コンセントなどという考え方は、それこそクスリにしたくもなかったのは、『白い巨塔』などの作品を見ればあきらかだろう。あそこでは、医師にとって患者は自分の出世のための道具でしかない。
 そういう密室医療は、必ず患者の人権の軽視につながる。たとえばツイ最近までの病院用語では、入院患者に出す食事のことを「食餌」といった。犬猫なみの扱いである。

 まず、「よらしむべし、知らしむべからず」は、正しくは「民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず」である(出典は『論語』泰伯編)。これはしばしば「人民は従わせれば良いのであって、何故従うべきかについて知らせる必要はない」というような意味で使われていて、唐沢俊一もその意味で使っている。しかし、本来の意味は「人民を従わせることはできるが、何故従うべきかを理解させることは難しい」ということなのである。こういうことを言ってると、呉智英に怒られるんじゃないか(ちなみに伊藤剛さんによると、呉氏は唐沢の盗作事件を知っているとのこと。詳しくは漫棚通信ブログ版2007年7月11日のコメント欄を参照)。
 次。「食餌」というのは「食べ物」を意味する言葉であって、患者を差別した用語ではない。その証拠に「食餌療法」という用語は今でも使われている。また、「餌」は人間の食事を意味する言葉でもある(『漢字源』によると「やわらかくした食べ物」の意味もある)。「やっとエサにありついた」という言い方もあるのだ(ただし、食事を作った人が気を悪くするおそれがあるので、あまり使わないほうがいいだろう)。それに、唐沢俊一だって、「人あれば餌あり」という言葉を作っていたではないか(詳しくは8月11日の記事を参照)。あれも「人」を「犬猫なみの扱い」にしているということなのか?
 しかし、言葉の間違いもいただけないが、引用した文章全体が非常に底の浅い医療批判でしかないのはもっといただけない。

言葉につける薬 (双葉文庫―POCHE FUTABA)

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