からさわの道。
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唐沢俊一・鶴岡法斎『ブンカザツロン』(エンターブレイン)第4章の検証を今回で一気にやってしまう。P.182〜183より。
鶴岡 どうもですね俺は疑惑あるんです。(原文ママ)推測の範疇を出ないんですが、どうも俺は、東浩紀という人間っていうのはぁ(原文ママ)最初に、なんていったらいいんでしょうか、“道”の側の人間だという。今、俺が物事を大きくふたつにわける、考え方なんですけど。この世の中には“スベ”と“ミチ”があるんですよ。要するに剣術と剣道、柔術と柔道。
唐沢 ああ、“ジュツ”と“ミチ”ね。
鶴岡 “ジュツ”と“ミチ”ですか。“術”と“道”。この術と道ってのがあって、やっぱ俺は術の方に立ちたいんですよ。
唐沢 技術の“術”ね。
鶴岡 技術の“術”。やっぱり柔術ってのは生き残るための、ていうか武術っていうのは生き残るための、ホントの戦いじゃないですか、一撃必殺の。術が道になったとたんですね、そこになんですか、社会的な制約とかですね、その中に……。
唐沢 魂とかだよな。
鶴岡 魂とか、クソくだらないことがですが、眠たいこととかが、ガツガツ、ガツガツ入ってくるじゃないですか。で、われわれはですね、やっぱり“オタク術”だとか“バカ術”の人間なんですよ。
そういえば、『小説宝石』最新号に掲載されている夢枕獏『獅子の門』で羽柴彦六が竹智完に「武術」と「武道」の違いを説いていたっけ。『餓狼伝』はまだまだ先は遠そうだが、『獅子の門』は彦六と久我重明の対決が近そうなのでやっと終わるのだろうか…と見せかけてまた別の話が始まる可能性の方が高いな。油断は禁物だ。
それはさておき、鶴岡氏の「術が道になったとたん」云々には首を傾げざるを得ない。というか、「武道」をやっている人にシメられてしまいそうなおっかないことは自分にはとても言えない。『ブンカザツロン』が発行された2001年には、総合格闘技におけるグレイシー柔術の猛威がいまだに記憶に新しかったから、鶴岡氏もそのような発言をしたのかも、とは思った。
「武術」と「武道」の違いを説明をするのは難しいが、少なくともこの対談に出てくるような「社会性の制約」「魂」の有無で区別することはできないと思う。武術だって「社会性の制約」は受けるだろうに。いわゆる「切り捨て御免」だって簡単にはできないものだったわけで。さらに、P.207を見てみる。
唐沢 (前略)“術”の国だよ、日本って実は。だから戦後、“武士道”なんてものが壊滅しても、平気で国を再興できたわけだ。司馬遼太郎が戦後日本の国民文学になったっていうのは、この“術”を持った連中を書いたからなんだな。
司馬遼太郎は『北斗の人』で千葉周作を取り上げているのだが、千葉は「剣術」に合理的な指導法を導入して後の「剣道」に影響を与えた人物で、司馬もそれが『北斗の人』を著した理由だったと本の最後で書いている。「術+合理的な指導法=道」というのは「柔道」にも言えることで(合理化したのはもちろん嘉納治五郎である)、そう考えた方が「魂」の有無で区別するよりはだいぶわかりやすいのではないか。
このゲームのせいで「武術」を「ウーシュ」と読んでしまう。
「武術」と「武道」にこだわっていると話が進まないので(自分も興味のあるジャンルである)、この辺で「オタク術」と「オタク道」の話に移るが、『ブンカザツロン』を読んでも「術」と「道」の違いが正直よくわからなかったりする。唐沢俊一は第4章の序文で次のように書いている。P.179より。
この対談の中で語られている、“道と術”の問題も、それに大きく関わっている。オタクは、たとえば美術品ひとつとってみても、どちらかと言えば道(アート)系のものより術(商品)系のものを好む。アートのベクトルが、製作者の意図や思想に収斂する方向性を持つのに対し、グッズ系、大量生産系のものは、そこに、買い手、集め手である個々人の、さまざまな思い入れを込めることを自由に認める性格があるためだ。さまざまな個人の記憶、思い入れ、ひっくるめて人格形成要素が、全国都々浦々(原文ママ)の商店に並んでいる。それ故に、術系のものを媒介に、人はそれぞれが共通の時代文化共同体(コーホート)に帰属していることを確認できるのだ。
術というものの総合的集合体である商業映像作品(アニメ、特撮)に、最近は道的なものを深読みして見い出そう(原文ママ)とする動きがあるが、オコの沙汰とはこのことだろう。通俗にある程度徹した“術”的作品こそが強力なアイデンティティのつながりを作り、バラバラになりそうな現代社会における共同体を、なんとか保持しているのである。
私が『新世紀エヴァンゲリオン』のような作品に対し、あまり積極的評価をしないのも、この作品があきらかに“術”を目指しながら、途中で“道”的なものへと方向転換してしまった、半チクな製作意図しか持たぬものだからなのである。もっとも、あれだけの騒ぎとなった現象自体は、見事な世代確認アイテム足り得るだろうが。
…うーむ、ある作品に対して本来込められた意味以上に過大な読みを呈示するのが「道」、ということなのだろうか。それなら理解できなくもないが…。ただ、その割りに唐沢俊一も通俗作品が「強力なアイデンティティのつながりを作り、バラバラになりそうな現代社会における共同体を、なんとか保持している」などと大仰なことを書いているので笑ってしまうのだが。「ねえねえ、昨日のテレビ観た?」という他愛ない呼びかけも実は大事なことなんですね。…唐沢俊一も実は「道」の人なんじゃないの?
それに最初に引用した発言の中で、鶴岡氏が「道」派の人物として東浩紀を挙げているのだが、東氏は別にオタクの「魂」について考えているわけではなく、「アート」方面の人でもないだろう。『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』(ともに講談社現代新書)はそれこそ一種の「技術論」とも読めるわけだし。同じことは『ブンカザツロン』が出るきっかけとなった斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫)にも言えるのであって、東氏にしろ斎藤氏にしろ彼らなりに「術」を追求しているのにすぎないのに、それをやみくもに否定しようとする『ブンカザツロン』の2人の方が自分には奇妙に見える。…もしかして、「インテリはオタク文化について語っちゃいけない」とかそんな話なのか?
P.186より。
鶴岡 そうそう、だから、俺はね、あの美術館とか行きますし、小説も読みますけど、それは好きな作品があってそれを見てるとなんらかの精神的カタルシスがあるから、それが好きなわけであって、そこで違うんですよ。“道”じゃないですよ、「何々から入って」とか「何々を押さえていかなければ一人前とは呼べずに」とか言われたくないんですよ。好きなものだけ見てたいんですよ。俺は。
また新たな「道」が見つかった。「何々から入って」「何々を押さえないとダメ」もまた「道」である、と。そういった考え方がうざったい、というのは理解できるけれど、まことに残念な話ながら唐沢俊一も大昔に『ぴあ』の投稿欄でその手の論法をかましていたりする(2008年11月19日の記事を参照)。唐沢さんは「俺も昔はそうだったんだよ」と言ってあげればよかったのに。
P.194より。
唐沢 うん。もちろん古書研究は収集から始まる。足で集めていないコレクションに価値はないけど、コンプリートに集めるってのは一種の落し穴なんですよ。そっちにハマってしまうと、集める本の価値より、集めるという行為そのものが目的になってしまうからね。(後略)
唐沢 ある程度の知的欲求好奇心ってのを満足できれば、コンプリートな収集というものにそんなに意味ってないんじゃないか、と思うのよ。
唐沢 だから俺は“古本術”だよね。“古本道”ではなく。
鶴岡 “道”、“道”の奴ら、やっぱりコンプリートじゃないですか。
コンプリートを目指そうとするのはオタク気質なんじゃないか、と思うのだけれど、この2人によるとそうではないらしい。唐沢俊一がこの時点で既に「古本マニア」から降りたがっているかのような発言をしているのも興味深いが、P.192ではこんなことも言ってたりする。
唐沢 (前略)大体オタク的なものはほとんどすべての人間が持ってるわけよ。蒐集癖とかね、それからそれにこだわるって意味での執着癖っていうものはね。でも、その集めたっていうところからなにを生み出していくかとか、どういう見解を自分の中で見出していくかっていうの、それはもう人それぞれなんですよ、様々。その中で濃い、薄いってのは数じゃないんだよね。数山ほど集めて薄い奴ってほんとにいるから。
鶴岡 います。すごい、います。
唐沢 うん名前は敢えて伏せるが(笑)。
自分も名前は敢えて伏せるけど、かなりの量の蔵書があるのに薄い人を知っています。コレクションが凄くても濃いとは限らない、というのはいい教訓かも知れない。
さて、ここまで来て対談で語られている「道」なるものの正体がようやくつかめた気がする。つまり、「道」というのは「自らを抑圧するもの」なのではないだろうか。インテリによるオタク文化の解釈、「何々を押さえていないと○○は語れない」「コレクションをコンプリートしなければならない」といった考え方などなど、そういったものが重荷として捉えられているわけだ。個人的には重荷を全部外してしまったらどこまでも自堕落になってしまわないか?とつい心配してしまうのだけど。
「道=抑圧」と考えたうえでP.212〜213を見てみよう。
鶴岡 でもまぁ、ほら今だとこれがだぶん(原文ママ)話が乱暴なんで読んだ人だと(原文ママ)、なんか技術的なことを語るのが“術”で、テーマを語るのが“道”だと思われるかもしれませんけど、俺が更にここでいいたいのが、あの『エヴァンゲリオン』の時とかもそうですけど、“これを語ることによって自分が賢く思われたい”とかですね、“これで偉くなりたい”とか、俺はそういう考え方する人間嫌いなんで。そういうのを敏感に嗅ぎ取ったんですよ、『エヴァ』のときは。(後略)
この場合だと、「『エヴァンゲリオン』について語ることで賢いと思われている人」というのが鶴岡氏への「抑圧」になっているわけだ。…それにしても、いったい誰がそんな理由で『エヴァ』について語っていたんだろうか。たとえば東浩紀氏や伊藤剛さんはそんな理由で『エヴァ』について語っていたのではないと思うけれど…。俺も当時『エヴァ』に関する論評をあれこれ読んでいたけど、どれも「へえ、そうなんだ」としか思わなかったので(ちなみに『エヴァ』関連で唐沢俊一が当時目についた覚えはない)。鶴岡氏ほど敏感でないのが恥ずかしいけれど、今考えると誰かの受け売りで熱く語らなくてよかった、と思うばかり。『Q』を劇場で観た後で一駅分歩きながらじっくり考え込んだ程度には今でも『エヴァ』ファンな俺ではあるけども。
で、鶴岡氏の発言を受けて唐沢俊一がこんな話をしている。P.213〜214、216より。
唐沢 それはねぇ、私も“イッセー尾形”の時に感じたの。
“イッセー尾形”ってものすごく、観客ひとりひとりにビンビンくるから、“俺のイッセー”とかいうのが全員にあるのね。
これって技術でしょう。
(中略)
ところがね、いつのまにかそのイッセーにどれだけハマっているか、という事実が自分がどれだけ偉いかっていうの(原文ママ)段階の“兵隊の位でいうと〜”みたいになっちゃう。
私も勘違いしてた時期もあるけれども、
(中略)
ところが、いわゆるお笑いの技術を言葉にできない奴らが、あの舞台の中に“人生のなんの”って言いはじめて、だんだん彼もそんな気になってきてしまったみたいなんだな。で、さっきあなたが言ったように、どんどん、周りのファンがダメになってきた。“イッセーにハマっている自分はエラい”というエリート意識が生まれちゃったのね。ここで、俺、もうガックリきた。俺、実は二〇歳の頃は無茶苦茶な演劇青年だったんですよ。ところが、どこへ行っても、この根拠のないエリート意識持った連中にさんざんイバられて、とうとう演劇までキライになっちゃった。寺山修司や唐十郎は確かに偉いかもしれないけどな、それにハマっている人間って偉くもなんともないじゃん。
私は案外、そういうところ潔癖症で、不純なものをどんどんどんどん排除して、ここもダメあそこもダメここもダメって否定していって、最後に行き着いたのが“イッセー”で、ここにはそういう奴はいないだろうと思ったら、まぁ確かにスタッフにはあまりいなかったけども、ファンにいやがった。それで私、怒ったのね。でまぁ、いろいろドタバタ、ここで言いたくない、もう思い出したくもないようなことがいろいろあった末に、森田さん(引用者註 イッセー尾形の舞台を演出している森田雄三氏)とぶつかって。「俺とファンとどっち取る」って言った時に、あの人が「俺はファンを取る」って言って、そりゃまぁ確かに当然だわな(笑)。
長くなったが唐沢俊一と演劇との関わりを考えるうえで重要な発言なので引用した。唐沢がイッセー尾形の舞台の前説をやって観客を激怒させた事件については2009年2月18日の記事を参照してほしいが、『ブンカザツロン』での発言と「裏モノ日記」での文章には若干ズレがある。一番疑問なのは、当時のイッセー尾形のファンがみんな「俺のイッセー」みたいなのめりこみ方だったのか、ということ。永六輔や中野翠もそうだったのか? 「裏モノ日記」と照らし合わせると、「人生のなんの」と言っていたのは永六輔ということになるが…。あと、唐沢青年はやっぱりどこかの劇団に入ろうとしていたんじゃないか? とあらためて感じた。単なる観客だったら「イバられ」ないだろうから。まあ、『トリビアの泉』のブームの後で演劇に行ったのが唐沢俊一の運命の分かれ道だった、と常々感じているのだが、彼をそのように決断させたのは若き日の苦い体験だったのかもしれない、などと思ったり。もちろん、彼の決断の是非を判断するつもりなどはないのだが。
オタク文化についてインテリが分析したり、メインカルチャーにおいてファッションとしてオタク文化が取り上げられることに抵抗を覚える人が一定数存在していて、そんな人たちの不満の受け皿のひとつとして唐沢俊一は機能していたのではないか、と考えることがある。さらに付け加えるなら、「萌え」に走る若い世代のオタクへの不満の受け皿でもあった、とも言えるかもしれない。まあ、例の盗用事件が発覚するまでは権威だと思われていたわけだしね。そのあたりに関しては検証終結時に個人的な見解を書いておくことにしたい。もうすぐ書けるんだなあ。
うーん、一章を一度にやるとさすがに長くなってしまうな。『ブンカザツロン』はあと2回やります。
またしてもTHE BOOM。鉄板。
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