唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ウェルカム・トゥ・ザ・バラタック。

タコシェで既刊『唐沢俊一検証本VOL.1』『唐沢俊一検証本VOL.2』『トンデモない「昭和ニッポン怪人伝」の世界』『唐沢俊一検証本VOL.3』『唐沢俊一検証本VOL.0』「唐沢俊一検証本VOL.4」の通販を受け付けています。タコシェの店頭でも販売しています。
・初めての方は「唐沢俊一まとめwiki」「唐沢俊一P&G博覧会」をごらんになることをおすすめします。
・当ブログにコメントされる場合には誹謗中傷および個人を特定しうる情報の掲載はおやめください。守られない場合には厳正に対処する可能性があります。
・1970年代後半に札幌でアニメ関係のサークルに入って活動されていた方、唐沢俊一に関する情報をご存知の方は下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。
karasawagasepakuri@yahoo.co.jp



 2006年10月発行のオトナアニメ』VOL.2洋泉社)に唐沢俊一のインタビュー、唐沢俊一超人戦隊バラタックを語る」が掲載されている(インタビュアーは多根清史氏)。今回はこれを紹介していく。インタビューの模様は「裏モノ日記」2006年9月14日でも書かれている。


 インタビューの冒頭ではタイトル通り、『バラタック』の魅力について語られている。ササキバラ・ゴウ氏のサイトで紹介されている唐沢のメールとインタビューの内容がだいぶカブっているのでそちらを参考にしてほしい。
 唐沢俊一が『バラタック』を好きだった、というのはその通りなのだろうと思う。唐沢なをきも好きだったようだから(からまんブログ)、もしかすると兄弟一緒に観ていたのかもしれない。
 ただ、その一方で気になるのは、『バラタック』を『無敵超人ザンボット3』と対立させていることだ。ササキバラ氏のサイトにあるメールでも『ザンボット3』のファンを「俗物」扱いしているし、『平成極楽オタク談義』では以下のような発言をしている(2010年5月28日の記事を参照)。

私なんかみたいなアニメの歴(発言通り)が長くてひねくれていた人間には「こんなひとりの人間に、富野という人間に心を乗っ取られてはいけない」と、『ザンボット3』のサークルみたいのができて、人間爆弾だの泣いたのわめいたのという話をしている時に、こっちはとにかく必死で「アンチ富野」、「アンチ巨人」みたいなものですよ。われわれはなにか他のものを持ち上げなくちゃいけない、ということで『超人戦隊バラタック』のファンクラブを作ろう!ってことでですね、あまりにもしょうがないものなんだけど、あれの対極にあるものはこれなんじゃないか、そうだ!そうだ!と。

 この発言などは『ザンボット3』をクサすためにあえて『バラタック』を持ち上げたかのように読めてしまい、「本当に『バラタック』が好きだったのか?」という疑いを招きかねないものだ。「何かを持ち上げるために何かをクサす」という思考法が染みついていると見える。
 それから、唐沢は岡田斗司夫『オタクの迷い道』(文春文庫)の座談会で、『ブロッカー軍団Ⅳマシーンブラスター』を観るために彼女を振り切ってきたというモテ話を披露していて、岡田もまた『最強ロボダイオージャ』の初回を観るために彼女の家に上がりこんだ話を「オタク座談会」でしていて、どうも唐沢・岡田の周辺には「マイナーなロボットアニメをネタにしてウケを取る」という気風があったようにも思える。一番の流行作を避けてあえて他のものを、という流れは『エヴァ』ブーム時の「オタクアミーゴス会議室」でも見受けられたものだ。
 なお、『オトナアニメ』P.120の『バラタック』紹介文には「1974年〜」とあるが、『バラタック』が放映されたのは1977年7月から78年3月まで。
 

 それでは、気になった部分を紹介していこう。『オトナアニメ』P.119より。

(前略)アニメには理想と現実があるわけですよね。理想っていうのは、「この作品がすぐれているからアニメを見るんだ」っていう理屈。ガンダムあたりで、この風潮が最高潮に達したわけですよね。僕はそれが気に食わなかったので、例の『ぴあ』論争のときに、テーマとか、SF的にどうとかは、アニメそのものの魅力じゃないって言ったわけなんだけど。


 せっかくなので、その投稿の一部を引用しておこう。なお、『ぴあ』での「ガンダム論争」については2008年11月17日から7回にかけて紹介しているので参照してほしい。

テーマのある作品(例えばゴジラ)が即ち優れた作品である、と思い込んでいるから、TVアニメなんかにもそれを求めるようになる。そこで商売上手なのが、陳腐な作品を愛だの戦争だのといった重そうなコトバでデコレーションし「ヤマト」だ「ガンダム」だといって売りつける。

見る方はそんなテーマなど理解できるアタマもないのだが、何となく「ガンダムにおけるテーマは…」などと口走れば理知的に見えそうなので争ってファンを自称する様になる。もっともいくら愛のなんのとワメいたってファン以外の人間からみれば阿呆としか見えないから、ファン同士徒党を組んで、お互いに「このメカの魅力は…」「SF的設定が…」とバカのエール交換をやるようになる。そうして自己満足にひたっているうちに、ふと周りを見渡すと、いつの間にか自分達が多数派になっていることに気がつく。そうすると、こういう連中はグレン隊と同じで、今度は少数派の非SFファンたちをイジメにかかり、「ゴジラ」だの「ガンダム」だのの悪口をいう人間をよってたかってぶちのめす…僕のやり方で今のブーム(狂暴的と形容詞をつけたい)のルーツをたどれば、このようにやはり「ゴジラ」にその諸悪の根元(原文ママ)があることになるのです。

 引用している部分でも分かる通り、唐沢俊一の『ガンダム』批判は『ゴジラ』批判がスライドしてきたものである。…それにしても、『ゴジラ』や『ガンダム』とそのファンが気に食わないと雑誌の投稿欄で駄々をこねていただけの話をよくもまあ武勇伝みたいに語るものだなあ。


 P.119〜120より。

疲れた頭でボーッと見て楽しめる作品が、その後はSFアニメからは駆逐されちゃったんですよ。行き着くところが『エヴァンゲリオン』。今やアニメを見るってことは、その作品に真っ正面から対峙していかなくちゃいけないことになっちゃった。だからこそアニメは日本を代表する文化なんだっていうような風潮もあってね。はっきり言うと、別に文化じゃなくっていいんですよ。アニメ作品に頼って自分の格付けを上げるというのは、情けないなって思うんだよね。

 僕がB級のマンガとか、B級文化がすごく好きなのは、かなりの精神的余裕がなければできないからですよね。

今の若い人たちに聞いてみると、放送されるアニメを全部見るだけでも大変なのに、いちいちコメントして、論評しなくちゃいけない。
 いろんな萌えアニメでも、一応おたくと名乗るからには、ひと言あってしかるべしとかね。『萌えーー』だけでいいと思うのにね(笑)。

 いや、難しいことを考えずに楽しめるSFアニメって今でも普通にあるんじゃないかなあ。現在放映中の作品だと『モーレツ宇宙海賊』とかそうなのでは。…まあ、難しいことを考えたがる人は何を見たってそうなってしまうもので、「七咲のおなか枕が象徴するものは…」とか考えている人もいるかも。「エフガミ」(その1その2その3)ゲーム化しないものか。いずれにせよ「SFアニメ」という括りが大きすぎる。
 あと、「最近のオタクは窮屈」理論は『オタクの迷い道』巻末座談会でも見られたものだが(2011年12月24日の記事を参照)、別に「全部見なきゃいけない」「論評しなきゃいけない」という決まりはないはずである。自分などは、気になった作品だけ観て「萌え―」「燃えー」「いやー、笑った笑った」だけで済ませてますが何か問題でも? オタクのみなさんは思い思いに楽しい生活を送っているはずなので、唐沢俊一は安心していいと思う。
 というか、「作品を追いかけなきゃいけない」「論評しなきゃいけない」という強迫観念にとらわれていたのはむしろ唐沢俊一だったんじゃないか?と思えてくる。現に唐沢は「ガンダム論争」で他の投稿者に向かって「あの作品を見てますか?」と反論していたし、「オタクアミーゴス会議室」で唱えていた「クリエイターよりもオタクが優位」とする説は「論評」という行為を前提としていたわけだし。唐沢は年下のオタクたちにかつての自分の理想形を重ね合わせて攻撃しているのかもしれない。


 P.120より。

僕たちは『宇宙戦艦ヤマト』でもって、アニメをどうこういうオタク道に踏み込んじゃったけど、当時はこんなに優れたものが認められないことに憤っていた。この素晴らしさを伝えようっていう使命感が、第一世代オタクにはあったんですよ。だからこそ、なんとか相手に「たかがアニメじゃん」って言わせないために、どんどん言葉を重ねて相手を圧倒する「オタクしゃべり」が発達した。そんな一般社会に対して被害妄想のようになってた我々が、息抜きができる作品が『バラタック』だったんですよ。熱く語らなくてもいい受け皿として。

 「アニメの素晴らしさを認めさせよう」「バカにされないようにしよう」というありかたの方が「作品を追いかけなきゃいけない」「論評しなきゃいけない」というありかたよりもよっぽど窮屈に感じる。


 P.121より。

 ええ、やっぱり1977年、『スターウォーズ』(原文ママ)の公開が1年遅れて、その間我々もなんとかしなきゃって思って、その焦燥感がアニメの方に行っちゃったんですね。あのあたりで、もうオタクって終わると思ってたんですよ。僕なんかは『ヤマト』が打ち切りになった後、北海道のほうで再放送の運動を始めて、その次は(西崎義展氏に)映画にしたいと思うんで、君たちも頼むって言われて、署名運動をやったり、ファンの活動をまとめたりして。それで、映画を見に行ったら終わったような気がしていたんです。

 
宇宙戦艦ヤマト』放映 1974年10月〜75年3月
スター・ウォーズ』全米公開 1977年5月
『劇場版宇宙戦艦ヤマト』公開 1977年8月
スター・ウォーズ』日本公開 1978年7月

 …どの辺で「その焦燥感がアニメの方に行っちゃった」のか、その結果何が起こったのか、流れがよくわからない。もしも『スター・ウォーズ』に影響を受けて『ヤマト』関連の運動を始めたのだとしたら、立ち上がりがあまりにも遅すぎる。唐沢俊一の『ヤマト』関連の活動の奇妙さについては2008年10月28日の記事を参照されたい。なお、『唐沢俊一検証本VOL.3』では『ヤマト』が北海道で再放送された件について調べてあるので、興味のある方はそちらもチェックしていただきたい。


 P.121より。

 今の萌えにしたって、こちらが愛情をもってキャラクターに踏み込むとか、アクティブなことを求められてますよね。アニメを見るのも作法を問われる。今のオタクの人たちって、そういう意味でバテてるんですよ。逆に言うと能動的になることで、今まで続けてこれたんだろうけど、自転車みたいなもので止まると倒れちゃうんですよね。そうじゃなくて、俺もバカなもの見てるねぇって、自分を客観視しつつ、ニヤニヤしながらくつろいで見られるものもあっていい。もし『バラタック』がDVDになったら、僕なんか100回ぐらい見ながら死んでいくんじゃないのかな(笑)。

それに、最近は脚本の質も上がっちゃって、昔の愛すべきいい加減さっていうのがないなあって。きちっとできたドラマだって好きだったけど、そうじゃないなんかドラマでも(原文ママ)、主人公がかっこいいとか、ヒロインが可愛いというだけで、作品を全部肯定できていた。何から何まで神経を尖らせなくてもいいんですよね。(後略)

 また「最近のオタクは窮屈」理論。…それにしても、唐沢俊一が語る「萌え」には違和感がある。自分の場合は、萌えるつもりがないときに限って萌えがやってくるという『モンタージュ』パターンが多い。ホットな話題だと見崎鳴のダンスにやられたばっかりだ。そんな自分はバカだなあ、と客観視しているつもりはあるものの。
 ただ、これも自分の中味を相手に映し出していると考えると中々興味深い話になってきて、唐沢は何かを能動的に好きになろうとしてきた人なのかもしれない、とも考えられる。オタク関係も裏モノも鬼畜もすべて自身の嗜好とは別に後から好きになろうとしたのではないか、と。鬼畜ネタは元々奥さんのソルボンヌK子が好きだったみたいだし。じゃあ、この人が本当に好きなのは何なのか?と考えるとなんだか落ち込んでしまうけれど。あと、言うまでもないかもしれないが、最近の作品でもいい加減な脚本はある(この話は怖いので深入りしない)。
 ともあれ、『バラタック』は2010年にめでたくソフト化されたので、唐沢さんが『バラタック』を見る際には自分もおつきあいしたいところである。5000回でもまかせとけ。


 P.123より。

 昔ね、僕がたち(原文ママ)がまだ高校生だったころ、札幌で、北大の漫画研究会ではアニメ上映会をやってたんですよ。『リボンの騎士』だとか『レインボー戦隊ロビン』とかを上映していた。当時上映していたのはなんだったか、『不思議なメルモ』(原文ママ)とか『ギャートルズ』とかね。そういう作品をずっと連続して見てることを、そこの主催者の学生は「毎日あほけてる」って言ってたんです。この言い方は北海道弁でもなくて、独特な言い回しでね。北大に行くような人間ですからエリートですわな。そういう人間がこの「あほけたもの」を愛するっていう見方をしていた。僕は「あほけた」って言い方がすごく好きで、アニメ文化は認識していたけど、大人があほけた時間を過ごすのに最適なものって位置付けていったわけでね。

 唐沢俊一は北海道での『ヤマト』の再放送運動を画期的なものとしていたが、それ以前に北海道大学に漫画研究会があって、大学の中でアニメの上映会をしていたわけで、そうなると「オタク」とそれ以前の「プレオタク」だか「マニア」だかとの違いがよくわからなくなってくる。「裏モノ日記」2003年11月2日には次のように書かれている。

まず、オタクという言葉が個人レベルで発生したのではなく、“オタク族”というククリから概念が出来たことがある。つまり、家に引きこもって個人でアニメや特撮にハマっている連中はその前からいたのだが、彼らは社会の一員としてリコグナイズされていない、共同体外の存在だった。それが社会現象化したのは、彼らの中に横の連帯が生じ、彼らが社会性を持った瞬間からである(つまり、引きこもりをオタクの主要な性質とするオタク論はそもそもが間違いなのである)。

 だが、それならば、北大で上映会を行った学生たちにも「横の連帯」「社会性」はあったのではないか。「社会性」がなければ上映会は行えまい。「オタク」と「マニア」に違いがあるとしても、唐沢の論法では不十分だし、それならばわざわざ区別を設けなくてもいいのではないか?とも思える(社会的背景からオタクの誕生を分析する手法はいいと思う)。なお、当ブログでいずれ岡田斗司夫について論じる際には、同時に「オタク」を自分なりに定義しておくつもりである。「オタク」を論じるためにはあらかじめ「オタク」について定義しておく必要がある、と考えた次第。面倒くさい話だが、そこをいい加減にするわけにもいかないのがつらいところ。唐沢俊一が「オタク第一世代」を自分の都合のいいように設定を変えまくっていることを考えてもやっておくべきことなのだろう。


 P.123より。

なんでアニメに使命感を燃やしてたかっていうと、やっぱり見てた人間が、ほとんど社会や世間と関わってなかったんですよね。一般人は悩んだり落ち込んだりしてるんだから、やっぱり落ち込まなきゃいけないのかなってコンプレックスを抱いてしまう。アニメの中のシンジ君が、代わりに「僕はここにいていいの?」って苦しんでくれるっていう。でも、社会的に貢献した人たちは、今さらアニメの中で疎外感を味わわなくってもいいでしょう。


 「オタク第一世代」が持っていたという使命感まで貶めなくてもいいのに。『ヤマト』の再放送嘆願だってそれなりに立派なことなんじゃないの? それと、『エヴァ』を好きな人は必ずしも悩みたいから見ているわけじゃないだろう。

 
 以上。「必死にならないでまったりと楽しめばいい」という意見自体は別にいいと思うのだが、そのために「今のオタクは窮屈」という理屈を持ってくるのがどうにも妙である。…いや、そんなことはないって。
 もうひとつ気になるのは、かつて唐沢俊一「絶対者としてのオタク」1月17日の記事を参照)と言っていたことで、そんな人に「リラックス! リラックス!」と言われても、「前に言っていたアレは一体なんだったんだよ?」とひっかかってしまう。…というか、むしろ「オタク=エリート」理論そのものが奇妙な代物だったのだな、と言わざるを得ない。大多数のオタクは今も昔も北大の学生さんの言葉を借りれば「あほけて」いるはずで、オタクをエリートだとみなす見方のほうが特殊、と言っていいのかもしれない。どうしてそういう理屈が出来上がったのか?、そしてどこがおかしいのか、ということを考えるのが、来たる岡田検証の主なテーマになる予定。唐沢俊一「隠居アニメ」とか適当な思いつきを口にしてないで、「絶対者としてのオタク」について総括してほしいものである。「オタク=エリート」理論を真に受けた人がいたとしたら気の毒だ。




超人戦隊バラタック VOL.1 [DVD]

超人戦隊バラタック VOL.1 [DVD]

ドゥーキー

ドゥーキー

オトナアニメVOL.2 (洋泉社MOOK)

オトナアニメVOL.2 (洋泉社MOOK)

モーレツ宇宙海賊 1(初回限定版) [Blu-ray]

モーレツ宇宙海賊 1(初回限定版) [Blu-ray]

アマガミSS 8 七咲 逢 下巻(初回限定生産) [Blu-ray]

アマガミSS 8 七咲 逢 下巻(初回限定生産) [Blu-ray]

Another 限定版 第1巻 [Blu-ray]

Another 限定版 第1巻 [Blu-ray]

モンタージュ

モンタージュ

指さえも/ダイスを転がせ

指さえも/ダイスを転がせ

ツマヌダ格闘街 1 (1) (ヤングキングコミックス)

ツマヌダ格闘街 1 (1) (ヤングキングコミックス)