唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ぼくの不安を救ってくれなかったデマ本へ・最終回

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 唐沢俊一の新刊『トンデモ非常時デマ情報レスキュー』(発売:コスミック出版、発行:ブリックス株式会社)について一通りまとめてみる。これまでの話は下のリンクから見てほしい。

その1
その2
その3
その4


 この本の問題点を順番に挙げていこう。

(1)デマと陰謀論の区別をつけていない

 一番にひっかかるのはここ。放射能汚染も地震兵器もみんないっしょくたにしているものだから話が混乱してしまっている。


(2)中立を謳いながら立場が偏っている

 唐沢俊一は本書の前書きで、「危険厨」と「安全厨」の対立から離れてものを考えたい、としているが、本書では放射能汚染を危険視する立場や「反原発」を唱える人々への批判の方に分量が多く割かれていて、明らかに立場が偏っているとしか言いようがない。
 唐沢がそのような姿勢をとっているせいか、altnkさんは

唐沢俊一って御用評論家になりたくて例の新刊出したのか?

と疑問を呈されているが、実は問題はもう少し複雑である。


(3)「デマに踊らされる人々」に対するブレと腰砕けの結論

 本書の中で「デマに踊らされる人々」はさんざんに言われている。不安を静めたいためにデマを流しているだの、一体感得たさにカタストロフィーを待ち望んでいただの、まるで心が弱いからデマに踊らされるんだ、と言わんばかりである。実際、母親を「情報弱者」と決めつけるやりかたなどは、唐沢俊一は本当に母親をナメているんだなあ、と思わざるを得なかった。より正確に言えば、母親を含めた一般ピープルをナメているということなのだろう。
 しかし、まことに奇妙なことに、本書の「最後に」というあとがきにあたる部分で、唐沢は「デマに踊らされる人間は炭坑のカナリヤのようなもので、人類の存続に必要とされている存在である」といきなり擁護している。P.61では梶川ゆきこのことを

 出た、自分をコペルニクスに、ダーウィンに例えるトンデモさんの典型理論

と揶揄しているにもかかわらず、である(これとは別に、P.120〜121の母親が子供を守りたいがためにデマに踊らされてしまう、という部分も一種の「擁護」と受け止められるかもしれない)。ただ単に「御用評論家」になりたいだけではこのような言動はとらないだろう。
 また、本文のラストでも、それまで「危険厨」的な見方をひたすら批判していたのに、「危険とする見方も安全とする見方もどちらも正しいと受け止めるべきです」とまとめていて、リアルにコケてしまいそうになった。何故突然弱気になるんだ。
 率直に言わせてもらえば、唐沢俊一自身が震災や原発事故に対して態度を決めかねていることが本そのものに影響している、ということなのではないか。「御用評論家」にも「危険厨」にもなりたくない、中立でいたい、というイソップ童話のコウモリみたいな心境なのか、実は放射能について不安を感じているのだけれども「と学会」のメンバーとしてそんなことは言えないと弱っているのか。いずれにしても、著者のブレブレな心理状態が本にそのまま反映されているのは間違いのないところだと思われる。



(4)デマへの対処法が書かれていない

 本書のカバーには「震災など非常時デマに学ぶ情報制限術」と書かれているが、本書には「情報制限術」なるものはごくわずかしか書かれてないうえに、そのほとんどが精神論にすぎないので、はっきり言って実際の役には立たない。「情報制限術」を学ぼうとして本書を買われた人がいたとすればお気の毒様としか言いようがない。
 しかし、これは出版社側にも責任があるのかもしれない。つまり、サブカル本よりも出版しやすいので無理にビジネス書という体裁をとったのではないか、とも考えられるわけである。…という話になったところで次の問題点に移る。


(5)編集に問題アリ

 真っ先に気づくのは途中で文体が変わることである。第1章から5章までは常体、第6章からは敬体になっている。第5章までは唐沢俊一がネット上で発表した文章の再録、第6章以降は新たに口述筆記したもの、ということなのだろうが、文章を整える手間を惜しんだ、と思われても仕方のない有様である。誤字も少なくない。
 また、イラストもビジネス書にふさわしくない。メメシホリのイラストは『スコ怖スポット・東京日帰り旅行ガイド』(ごま書房新社VM)には合っていたが、残念ながらビジネス書にはアクが強すぎて本文のジャマになっている。この点、『博覧強記の仕事術』(アスペクト)のシンプルな図の方が好ましく思える。…というか、本書と比べると『博覧強記の仕事術』がビジネス書としてまだしも読める、と思えるのである意味凄い。あっちの本には実践的な部分も一応あるし。
 より本質的なことを言えば、本書はかなり読みにくい。話があっちに行ったりこっちに行ったりするだけでなく、話し言葉をそのまま起こしているせいだと思われるが、同一の文章の中でも上手くつながっていない部分が見受けられる。十分に手間をかけたのか、疑問の残るところである。



(6)当然の帰結として
 唐沢俊一は『トンデモ非常時デマ情報レスキュー』P.130〜131で次のように語っている。

 私はたまたま、と学会で長い間、UFOやオカルトといった情報を20年、研究してきています。
 20年やってわかったことは、いくら「そういうものは信じるものが馬鹿だ」と言ったところで、どんなに「データは間違っている」「ありうるわけがないのだから」と言ったところで、そうした怪しげなものを信じる人はいなくならないということです。
 その意味では、デマも、今後もなくなりません。これは人間というものの本質が変わらない限り、なくならないでしょう。悲しいことかもしれませんが、人より情報を仕入れて優位に立つことが、人間の進化や生き残り戦術に重要な意味を持っていた以上、これからもデマはなくならない。ならば、我々はどのように対応したらいいのか。その方法を学ばなくてはなりません。


 デマは決してなくならない、という認識から唐沢は「どちらも正しいと受け止めるべき」という結論に至っているのだが、正しい情報を伝えることによってデマを信じる人をゼロにできなくても確実に減らすことができる、とは考えなかったのだろうか。現に今回の震災や原発事故においてもデマを否定するために多くの人が努力をして効果を上げている。デマは決してなくならないからこそ地道な努力が必要である、そういう風には考えなかったのだろうか。唐沢はデマに踊らされる人間には理想主義者が多い、と言っているが、自分から見れば唐沢の方がよほど(悪い意味で)理想主義的である。
 思えば、唐沢俊一は「現状追認」の人である。『社会派くんがゆく!』でも毒を吐いているように見えながら実は現状を追認しているにすぎない、ということが見受けられた(2010年12月19日の記事を参照)。つまり、何もしなくていいという言い訳をしているわけで、岡田斗司夫との対談でも見られた展開である(2011年12月24日の記事を参照)。そう考えると、『トンデモ非常時デマ情報レスキュー』という本は「震災や原発事故があったけど何もしなくてもいいよ」という内容の、実に唐沢俊一らしい本だと言える。「高見の見物を気取って失敗している」のもいかにも唐沢らしい。デマへの対処法が書かれないのも当然の話だ。
 それ以前に「雑学はアヤシゲなところが魅力」とのたまう唐沢がデマへの対処法をレクチャーできるはずがないのだ。事実をないがしろにし、地道な努力を怠るという、まったくもって不適格な人物を選んだものだと感心すらしてしまう。しかも、伊藤剛さんや漫棚通信さんにデマを流したこともある人だしね。
 締め括りにP.122の文章を引用したい。

 人間は、自分だけ理性的なつもりでいても、実はものすごく感情に流されています。自分を理性的だと思っている人間ほど、理性的に感情に流されていて、始末が悪いことも少なくありません。

 これって一体誰のことなんだろうね。



 以上!  次に唐沢俊一の現状を細かく見ていくのはいつになるんだろうか。また機会があればチェックしますよ、もちろん。「日本トンデモ本大賞2012」(開催されるの?)では『スコ怖』に投票するぞ!と思っていたのに、あっさりとアレを超える本が出てきたので正直大弱りしていたり。次の新刊がデマ本を超えてくるとしたら、怖いもの見たさも含めて早く読んでみたい…かな。
 


 
 

ぼくの命を救ってくれなかった友へ

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ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ

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トンデモ非常時デマ情報レスキュー

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