唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

とんでふーいん。

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・初めての方は「唐沢俊一まとめwiki」「唐沢俊一P&G博覧会」をごらんになることをおすすめします。
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・1970年代後半に札幌でアニメ関係のサークルに入って活動されていた方、唐沢俊一に関する情報をご存知の方は下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。
karasawagasepakuri@yahoo.co.jp



唐沢俊一演出の舞台『タイム・リビジョン』は好評なようで、ネット上でもいくつか感想を見つけることができる。たとえば、ドラゴン山崎氏や居島一平氏が観に行かれたようだ。
 そんな唐沢俊一の公式サイトより。

この日は私も島さんに変わって特別出演。
久しぶりに役者として立つ舞台はやはり緊張しますが、あ、なるほど、
これは楽しい、これは中毒になるわ、と改めて思いました。
私が過去数年、役者としてルナティックシアターに関わっていたのは
いずれ自分が芝居を書き、演出する際の勉強と、演劇界への人脈
作りという思惑もあったわけですが、いつの間にか、ふと気がつく
と自分を役者としてとらえている瞬間がありましたから。
極めて中毒性の高いものなのですね、役者というのは。

 ほう、プロデューサーだけでなく演出家にもなりたかったのか。上手くいくといいですね。マドさんのツイートを見ると「冬コミは大丈夫なのか?」と不安にならないでもないが。


「快楽亭ブラックの出直しブログ」11月13日に「立川流脱北者の会」の模様が書かれている。

前座の後が小蝠の「五人廻し」、マクラは面白いがネタに入るとまるでダメ、セリフが上すべりしている。人物が生きていないのだ。

 惜しいね、この噺の肝がわかっていない。

 シカゴの「遠山の金さん制度」は落語に慣れ切っている今日のお客さんにはぴったりでよく受けていた。あっしは「キウイ調べ」、入魂の一席で大受け、仲入り後は唐沢俊一、今日は新ネタで良いヒザ代わり、トリのマグナムも芸が進化していて程の良い色物芸人になった。大喜利立川流の悪口に30分は短過ぎた。次回はロフトプラスワンで延々としゃべり続けたい。

 「ヒザ代わり」ってなんだろう?と思っていたら、落語芸術協会公式サイトで次のように書かれていた。

膝代り(ひざがわり)

寄席で、主任の前に出る芸人。色物が多い。

 「主任」は「トリ」ともいう。ためになるなあ。こういう時、検証していてよかったと思う。


●大河氏のツイートより(その1その2その3その4)。

市川森一氏の訃報」に関して、例によって唐沢某がデタラメな追悼文を書いたとして、それも憤慨するだろうが、むしろ僕は読まなければいいだけのことで。「唐沢はどんな追悼文を書くのか」等という話題で、既に盛り上がってる連中にも、今回ばかりは腹が立つ。追悼するのもそれを検証するのも(続く)

(続き)どちらも「自由」かもしれないが、唐沢だろうと唐沢検証だろうと、今回はどちらであっても。俺は30年間市川森一氏を敬愛し続けてきたのだ。氏の死は貴様等の遊戯道具ではない。揚げ足を取り合う真似をし合えば、どちらも叩き潰す。全力でだ。生ぬるい遊戯だけはするなよ。これは警告だ。

むしろ「唐沢問題」については(唐沢が市川氏追悼文章を書いたとして)その検証の前提知識・作品世界・人生観への理解が付け焼刃程度で、ゲームの駒として「市川氏の死」を扱うのであれば、検証とやらを徹底的に叩き潰す。準備は既に万端なのだ。バックにH報堂を持ち出すというのであれば(続く)

(続き)こちらはD通を持ち出すまでだ。悪いが市川森一評で、負ける気は誰にもしないから口を出させてもらった。せめて「粋に」やってくれ。「これが私の、最後の願いだ」

 ご意見は承りました。では、もしも唐沢俊一市川森一を「追討」した場合には、大河氏に検証なり感想なり唐沢を「叩き潰す」なりおまかせしますので、どうぞご自由になさってください。それだけの熱意があるのなら自分がタッチする必要もないでしょう。こちらとしても手間が省けて大変助かります。


●本題。岡田斗司夫山本弘田中公平による「史上最強のオタク座談会」シリーズ(後に岡田・山本・ゲストによる「空前絶後のオタク座談会」に改題)は、オタク業界に関する下世話な話題が満載で、心の汚れたオタクなら結構楽しめる本だと思われる。自分もかつては面白く読んだものだが、唐沢検証を経た今あらためて再読するとまた別の感慨を持つかもしれない。この座談会の中にはいろいろと面白い発言もあるので、当ブログでもいつか取り上げてみたいところだが、今回は唐沢俊一による『史上最強のオタク座談会・封印』(音楽専科社)の書評を紹介していきたい。唐沢俊一『トンデモ怪書録』光文社文庫)P.149〜P.158より。なお、この『封印』の書評は単行本には収録されておらず、文庫版にのみ収録されている。

 P.150〜P.151より。

 実を言うと、この鼎談が雑誌連載されている最中、ちょっとヤッカミを感じていた。
「なんでオレを呼ばない」
 と。一応僕とて日本でオタク文化人を挙げれば五本の指に入る人物である。三人の座談を読みながら、あ、そこは違うぞ! とか、そこではもっとこういうオイシイエピソードがあるのに! とかツッコミながら、企画者である岡田斗司夫に、こういう企画でこのオレを呼ばないとは友達がいがない、といささか腹を立てていた。

 しかし、唐沢俊一は結局、この座談会の面白さは大阪弁の独特のリズムによるものである、として「非大阪人」である自分が参加しなくてよかった、と書いている(岡田・田中は大阪、山本は京都出身)。…まあ、それはそうなのかもしれないが、もしも唐沢俊一が「オタク座談会」に参加したとして、「アー、アッタアッタ」の連続になっていたのではないか?と心配になる。…あー、でも、座談会に参加していればまた面白発言があったかもしれないから、それを考えると参加してほしかったような気もする。「日本でオタク文化人を挙げれば五本の指に入る人物」も今となっては味わい深い。


 P.153〜P.154より。

 鼎談中で取り上げられ、ネタにされている方々〜宮崎駿からノストラダムスまで (笑)〜にはお気の毒、としか言いようがないが、これで腹を立てるかもしれないネタの方々に一言、言いたい。彼ら三人ほど、あなたがたの作った作品、書いた本を真剣に読み、徹底して追いかけまくったファンは他にいませんよ、と。
 好きなものを褒めるのは誰にでもできる。好きなものの欠点をキチンと摘出し、そこに徹底したツッコミを入れ、そしてその上でなお、その作品を愛することができるのはオタクだけだ。
 優れた作品を愛するのは誰にでもできる。どうしようもない作品までちゃんとカバーし、そのどうしようもなさまでひっくるめて価値観としてとらえられるのはオタクだけだ。
 何か最近、オタクという概念が浸透してしまい、アニメが好きだ、特撮にハマっている、というだけでオタクだと自称するヤカラが増えている。顔を洗って出直してきなさい。ここまで悪口を言った末に、まだその作品を愛することのできる人々、それがオタクなのだ。

 この唐沢の文章は『封印』での山本会長のあとがきとよく似ている(7月20日の記事を参照)。オタクとアニメファン・特撮ファンを区別しているあたりは「オタク=エリート」理論でもある(10月1日の記事を参照)。もちろん、オタクとアニメ・ファンや特撮ファンを区別する見方は今となってはきわめて特殊なものだと言わざるを得ないし、実のところ唐沢俊一は最近では「オタク=エリート」理論を放棄してしまっている(詳しいことは後日あらためて)。
 それに「好きだからけなせる」という論法だが、これは受け手が不快にさせてしまった時にきわめて分の悪い理屈ではないだろうか。「どうして悪口を言うのか?」と抗議された時に「好きだから、詳しいからこそけなせるんだ」と反論してもはたして相手は聞く耳を持つだろうか。動機がどうあれ現実になされた表現が拙劣であればどうしようもない。で、結局「あれで怒るなんてシャレのわからないやつだ」という考え方に落ち着いてしまうわけだ。
 あと、好きな作品や作家に対して毒を吐いたり、マイナーな作品を愛好するファンは、別にオタクに限った話ではなく、どのようなジャンルにもいるのではないか。それをあえてオタクに限ってしまう意味が分からない。
 なお、唐沢俊一が一生懸命フォローしているにもかかわらず、『封印』の続刊である『回収』で岡田斗司夫は山本会長の批判に乗っかって観てもいない平成ウルトラマンについてあれこれ言ってたりする。確かに友達がいのない人なのかもしれない。


 P.155より。

 若手アニメ批評家の分析に最も欠けているのは、作り手の個人的特性に関する理解である。それは、も少し(原文ママ)彼らが年を取り、人間というもののオモシロサがわかってこないと、そもそも視野の中に入ってこないだろう。この鼎談メンバーは全員、四十代。本当にオタクの視点を持つためには、これくらいの年代にならないとダメ、というこれは見本の鼎談集だと思う。

 今度は「オタクは40歳になってから」理論か。自らの優位を示すためならいくらでも理論をひねり出すのは凄いな。言うまでもないことだが、歳を重ねたとしても人間に対する理解が深まるわけではなくて、いくら年をとってもダメな人はいる。誰のこととは言わないが。
 それに、作品の「分析」と「雑談」は全然違うものである。一緒にするのはいかがなものか。


 さて、この後、唐沢俊一は、『封印』にノストラダムスをテーマにした座談会が収録されているのはいかがなものか、と疑義を呈している。他に収録されているのが、『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』、宮崎駿作品をテーマにした座談会なので、本のテーマをアニメに統一すべきだった、というのだ。
 「そういう見方もあるのかな」と思いつつ読み進めると、話が妙な方向に脱線していくのであった。P.156〜P.157より。

 以前、某古本ライターが、自分の古本エッセイ集のラストで、原稿完成まぎわにオウム事件が起こり、“これは緊急に語っておかねばならない”と、出版直前に本の原稿を大幅入れ換えして、オウムについて語った一章をつけくわえたことがあった。結果は、その本が古本マニアたちにソッポを向かれるハメになったのである。マニアたちは古本に興味があり、そのこと(のみ)について語った本が欲しかったのだ。古本について語った原稿を一部と言えど破棄して、別のもの(それがオウムであれ何であれ)に差し替えるという行為が、古本への愛情の程度の低さに見られたのである。己れを古本マニアとしてキャラ立ちさせるなら、少なくともその著書の中では、何よりも古本を上位に置く(なにしろ、『子供より古書が大事と思いたい』という題名の本まであるくらいの世界だ)姿勢を示さねば、面白い本など書けるわけがない。
 それが直接の原因ではないにしろ、そのライター氏はやがて、古書関係から撤退を余儀なくされてしまった。

 …要するに、松沢呉一さんを批判したかっただけなのでは(2009年3月7日の記事を参照)。執念深いなあ。しかし、唐沢俊一『古本マニア雑学ノート2冊目』(ダイヤモンド社)第8章「光と闇の中で」は青春時代の映画鑑賞について書かれた章なのだが…。そのせいで古本マニアたちにソッポを向かれていなければいいんだけど。
 面白いのは「己れを古本マニアとしてキャラ立ちさせる」という部分で、なるほど、唐沢俊一は「古本マニアを演じている」つもりだったのか。つくづく「演じる」のが好きな人なので、演劇は適職なのかも。演技の巧拙は知りません。


 P.157〜P.158より。

 人生にはアニメよりも特撮よりもすばらしいことは山ほどある。だが、アニメが、特撮が何より上、という“場”も確実にある。そういう場の存在を確認したくて、オタク修行者たちはこの本を購入する。ユーザーたちのことを考えるなら、ノストラダムス鼎談(誤解ないように言っておけばこれもムチャクチャ面白いのだが)は山本弘の本の最後に挿入するべきだった。それだけがこの本に関する、望蜀の嘆とも言うべき不満ではある。


 前に書いた通り、自分はかつて「オタク座談会」シリーズを愛読していたのだが、何故買ったのかというと、「なんだか面白そうだったから」。そして、面白かったから続きも買った。本当にそれだけである。いや、まさか、「オタク座談会」が「オタク修行者」を読者に想定したマジメな本だったとは知らなかった。そんなマジメな本をなんとなく買ってなんとなく読み流してしまって申し訳なく思う。声優のゴシップがよく出て来る下世話な本だとばかり考えていたのは俺の考え違いに違いない。…それにしても、「オタク修行者」って一体どんな人なんだろう。個人的には前田尚紀をイメージする(ニックネームが「闘う修行僧」だから)。



後にウルトラマンガンダムの放送枠になった「土6」で放送されていた、と考えると凄いような。

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