唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

イッツ・ア・スモール・サークル。

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 今回から唐沢俊一鶴岡法斎『ブンカザツロン』エンターブレイン第2章「オタク第二世代のあり方」本文の検証に入る。なお、第2章の扉には鶴岡氏のカッコいい写真が載っているが、ニーズはあったのだろうか(『ブンカザツロン』には唐沢と鶴岡氏の写真がやたら多く掲載されている)。今回紹介するのは「第二世代の居場所」(P.66〜P.73)である。
 まず最初にP.66の唐沢の発言から。

唐沢 宮崎勤って、事件当時、二六歳だったでしょう。第一次オタク世代のぎりぎり最後の方ね。今、一七歳の犯罪というのが騒がれているけれども、宮崎勤から今のその西鉄バスジャックの一七歳までの間に、一〇年ほどの空白期間があったんじゃないですか。あそこらへんがね、また第二世代のコンプレックスなんじゃないか。殺人者すら自分たちの世代は出していない、というのがあるんじゃないか。


鶴岡 かもしれない。誰かいたかな……、いないですね。

 いきなりわけのわからないことを言っている。スーパーフリー事件の時の太田誠一風に言えば「人を殺すくらい元気があっていい」ということか。鶴岡氏もさすがにこれはたしなめておいた方がよかったよ。まあ、神戸児童連続殺傷事件(1997年発生)をスルーしているのも気になるが。


 P.66〜P.68より。

唐沢 いや、それがいつまでたっても死なないから、われわれを排除しようとする動きをする連中が出てくるんですよ。あいつらさえいなくなれば、っていうね。それでやれ“スモールサークル”だのやれ“幻想共同体”だのということをいって、オタク自体の存在を抹殺しようとしている。でもたぶん、われわれがいなくなったならば、同じことするんですよ。共同幻想持って、スモールサークル作って。これはオタク的に情報を人生の中心に据えていく者の必然で、他の形を選択しようがないんだよ。こういっちゃなんだけど、われわれは好きでスモールサークル的共同体を作っているのではなくて、そういうことに便利なありとあらゆる集団生息の形態考えたときにね(原文ママ)、ひとつのものを他のものよりよりすぐって好きということを表現し、その中で、好きである自分というものを論理立て確立していくということになったならば、今のわれわれみたいな形しか取れないよ、はっきり言って。


鶴岡 それじゃ、第二世代にどうしろと。


唐沢 オタクはスモールサークルだ、という非難があるけど、じゃあ「スモールサークルでない集団って、日本の、いや世界のどこにあるの?」と訊き返したいんだよね。アカデミズムの世界も文壇も、スモールサークル以外の何物でもない。ある文化的ククリの集団があったとして、そこに所属することで自分のアイデンティティを確立しよう、さまざまな問題もその立場から見ていこうとする場合、できるだけ自分の周りの壁ってのは高くて、しかもその壁に取り巻かれた世界が狭い方が、実は便利なんです。その中で問題も先鋭化して見えてくるし、いろんなパターンをモデルとして見ることも可能だしね。そもそも誰にも彼にも窓口を開くようにしてくと、馬鹿も入ってくるし、薄いのも入ってくるしね。これ、インターネット掲示板とかを運営していると如実にわかるよね。じゃ、そこから排除された奴はどうするんだ、というと、自分を許容してくれるスモールサークルが見つかるまで、探して歩けばいいんですね。その中でさまざまなスモールサークルと、そこの基準、そこの常識というものを経験することが、また別の意味での経験値になる旅人の論理と言えるでしょうね。ただし、人間、いつまでも旅人じゃいられはしない。ある時点で、なにかものごとに決定を下すためには、必ず、自分が足を踏み入れているサークル内での論理に従うことが必要になる。これができない人間が、アイデンティティ喪失者なんです。
 そういう意味ではね、オタクもそうだし、『2ちゃんねる』なんかもそうだと思うけど、狭い集団の中で、自分たちだけに通用するジャーゴンを持ち、価値観を持ち、行動パターンを持っている、ということは非常に大事なことなんです。アイデンティティっていうものをこのグローバリゼーションの情報化社会の中で保つためにはね、お前と俺がどこが違うのかっていうこと、ヘーゲルの言う、“他者との差異の総合値であるところの自分というものを、徹底に(原文ママ)狭いところに潜りこむ”ことによって確立しないとね(原文ママ)閉塞すべきなの。文化人とかいう連中の口車に乗って、無暗に広げちゃうとまずいよー。

 「オタク自体の存在を抹殺しようとしている」のって一体誰なのかが気になる。なんだか怖い。
 …しかし、上の発言を読んでいると、「と学会」のメーリングリスト問題の時に考えた「今、「趣味」を楽しむために何らかの組織に入る必要があるのか?」という疑問が再び浮かんでくる。もちろん、「スモールサークル」に属することでオタクとして成長することはあるはずだし、「スモールサークル」の存在自体を否定するつもりはない。ただ、「スモールサークル」に属さなくてもオタクとしてやっていくことは可能なのではないか?と言いたい。現に自分はこれまでずっと「スモールサークル」に属することなく一人でオタク趣味を楽しんできた。ありがたいことに現在ではインターネットも発達しているから、同好の士を見つけるのはずっと簡単になっている。それに、オタクとしてのアイデンティティはむしろオタクではない人とのつきあいによって確立されていくものではないか。…だから、今現在、オタクの仲間がいない人も全然心配する必要はない、と言っておきたい。
 それにしても、「自分が足を踏み入れているサークル内での論理」に従わない人が「アイデンティティ喪失者」だとは驚きだ。自分は「と学会」のメーリングリスト問題の時にメーリングリストに参加しているほとんどの会員が唐沢俊一の盗用を見て見ぬふりをしていたので、「この人たちには“自分”というものがないのか?」と激しく疑問に感じたものだけど。ついでに言えば、唐沢の理屈に従えば、「官僚的」な態度をとる人間こそが最も強固なアイデンティティの持ち主、ということになってしまいそうだ。なお、「と学会」の会員の中には唐沢俊一と唐沢にきちんと対応できない「と学会」に対して批判的な人も存在したことを一言付け加えておきたい。
 だいたい、唐沢俊一個人の問題として考えても、「と学会」のメーリングリスト問題に限らず、「オタクアミーゴス会議室」でトラブルを起こしたり「うわの空・藤志郎一座」とは喧嘩別れしているしなあ(イッセー尾形のところも入れていいかな)。「スモールサークル」で何回も問題を起こしているのに「スモールサークル」に属したがるのってどうなの?と思わないでもない。


 P.68〜P.69より。

鶴岡 そうですね。俺は良識で悪だといっておきますけれど、ナチスドイツのやり方というのはある意味、むっちゃくちゃ正解なんですよ。組織、国家を形成する上での方法はすごく実用的なんですね。ユダヤ人虐殺をするまでは、ノーベル平和賞の候補にも入ってたはずですし。数少ない革命の成功者という面では、評価できるのかな、と。ま、結果的には人殺し集団なんですけどね。
 第一政党になるまで彼らは、地下活動が異様に長いじゃないですか。


唐沢 だから、政権を取ること、それを維持することに無茶苦茶こだわるのね。反ナチズムが、ナチス初期にあれだけ行なわれてなければ、あの後のパワーはなかったでしょう。いま、オタクたちに、お前らも政治活動をして、ロリコン法案を廃案に追い込めとかっていう奴がいるけど、あいつらはポリティクス・パワーってのがまるでわかっていない。政治意識持った団体でない連中をまとめるためにはね、まず危機感を実感させて、追い込まれるところまで追い込ませなきゃダメなの。長州が明治維新の先頭に立てたのは、第一次長州征伐で、徹底して幕府にやられて、ヒッソクを余儀なくされたから、おのれ、というパワーが沸点にまで達したのよ。あの、今のだーらだーらと女の子がいいのなんのとやってる奴らにはね、いきなり政治活動にいけっていってもそんなのできるわけないじゃないですか。まずは、政府権力に圧迫されて自分らの権利がこれだけ奪われているっていう事実を徹底的に味わって、地下に追い落とされ表のところに出てこれなくなって、潜伏せざるを得なくなったところでそれが凝縮されないとだめなんですよね。

 鶴岡氏が「ナチスドイツのやり方」をどの点で評価しているのかよくわからないが、ヒトラーノーベル平和賞に推薦された件についてはWikipediaを参照。
 で、唐沢俊一の方は例によって「ロリコン法案」に反対する人を皮肉って「地下にもぐれ」論を展開している(2010年4月19日の記事を参照)。「ポリティクス・パワー」というのは「ポリティカル・パワー」もしくは「パワー・ポリティクス」なんだろうけど、いずれにしても「菅より俺の方が上手くやれるっつーの!」などと飲み屋で叫んでいる酔っ払いみたいで思わず赤面させられる言い分だ(内閣不信任案はどうなるのか…)。あなたはどれくらい政治をわかっているのか?と聞いてみたいけれど。
 唐沢の「追い込まれた方がいい」理論には落とし穴があって、追い込まれるところまで追い込まれたらそれっきり再起不能になってしまう可能性が存在し、むしろその可能性の方が大きいことを忘れていることだ。耐えに耐えた主人公が最後に反撃に転じて勝利する、という任侠映画みたいに現実は展開しないわけで、耐えに耐えたままどうしようもなくなってしまうことだってあるのだ。権力による圧迫を良しとする唐沢の発想はかなり倒錯していると言わざるを得ない。かなりの数を盗作してきた人が倒錯した発想の持ち主であっても別に驚くことではないけれど。あと、長州藩明治維新で活躍した遠因として関ヶ原の戦いでの敗北があって、同様にナチスの台頭の理由の一つに第一次世界大戦での敗北があると考えた方がいいのでは。


 この後、唐沢俊一と鶴岡氏は青年期の親との確執を語っているが、唐沢に関してはご両親からかなり大事にされているようにしか見えないので、「はいはい、ワルぶっているだけなんだよね」と微笑ましくなってしまう。だって、ご両親に会社を作る資金を出してもらったりしているしねえ(2010年12月10日の記事を参照)。そういった意味ではP.70の

不良化の方にはたまたまいかなかったけど

 という唐沢の発言なども「うんうん、あなたが不良になれないってことはちゃんとわかっているから」とニコニコさせられる。検証していてこんなにやさしい気持ちになれるのは珍しい。こんな具合に「ワルぶってしまうおぼっちゃん体質」には微苦笑させられるが、「長男に比べると次男はラク」という話を唐沢なをきが聞いたらどう思うのか、気になるところではある。


 ラスト。P.73より。

唐沢 勘当されたりしたらかえって幸福ですよ。切られない、でも切る、切ってその束縛の中からなにとか(原文ママ)脱出しなきゃいけない。そのためには自分自身を異常な人間というところまで、テンション上げなくちゃいけない。そういう悲壮な決意があって、それが今度行き過ぎちゃった例が“ネオむぎ茶”でね。そこへいくと宮崎勤には、そこまでの決意があったかどうかはわからない。自分の中の地獄と案外無感覚に同居しちゃったような、不気味さが彼にはある。でも、宮崎という負の存在があったからこそ、他のオタクたちは一瞬、自分をハッと振り返って断崖の一歩手前で踏みとどまれた、というところはある。妖術から覚めたみたいな、なんか腿に刀を突き刺して「妖術やぶれたり!」と叫んだようなもので(笑)、あの痛みは極めて大きな経験だったと思うよ、世間のオタクたちに。適度にオタク性を保ちながら社会の中に漂っているとか、そういうようなこ7としてると結局、己の拠り所とするアイデンティティがぼやけて見えなくなってしまうんだな。

 なるほどねえ。俺がやったみたいな「優しいご両親じゃないですか」というツッコミに対して「勘当されたりしたらかえって幸福」というカウンターを用意しているわけか。贅沢なことを言っている感も多々あるけれど。なお、唐沢俊一が「異常な人間」になろうとテンションを上げてご両親と衝突した件については2009年2月19日の記事を参照。…これを読んでいると「もっと親孝行しよう」という気になる。
 次に「適度にオタク性を保ちながら社会の中に漂っている」とどうして否定的に語るのか。社会生活を送りながら趣味を楽しんでいるんだから、何も批判されることはないと思うけれど。そもそも宮崎勤は「適度にオタク性を保ちながら社会の中に漂って」いたのか? 5月31日の記事を書きながら感じたことだが、唐沢俊一宮崎勤についても詳しくないよなあ。もしかするとあまり興味もないのかも。



 いやー、「いくら大好物でもこんなに出されたら食べきれないよ!」と嬉しい悲鳴をあげたくなる面白トークの数々だった。でも、次回かその次あたりで、今まで検証をやってきた中で一番笑った発言が来るからなあ。来月でブログ開設3周年になりますが、こんなに楽しくていいかしら。



こどもの世界。

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