唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

唐沢俊一の新刊情報&斎藤環へのツッコミ。

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・1970年代後半に札幌でアニメ関係のサークルに入って活動されていた方、唐沢俊一に関連したイベントに興味のある方は下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。

karasawagasepakuri@yahoo



唐沢俊一新刊を出すらしい。しかも2冊も。
 いやー、めでたい話だ。日記を休止してまで続けていたプロジェクトとはこれだったのかー。
 …と、素直に喜びたいところなのだが、若干心配なのは『本を捨てる!』の前例があること。発売日まで決まっていたのに今のところ出ていない…、あ、正式な発売日からもう一年経つのか。唐沢本人のコメントからするとポシャったっぽいのだけど。
 いずれにしても、新刊が2冊とも無事に発売されることを祈っています。できれば夏コミで出す予定のレビュー本でも取り上げたい。



●永井秀之さんが唐沢俊一に遭遇した時の話(その1その2)。いかにもな話である。



●その一方、唐沢は自身のサイトで「自粛不況を打破しよう」という文章を発表し、震災による自粛ムードを憂えている。出版業界にも影響が多々あるので、他人事ではないのだろうね。新刊だってどうなるかわからない。この文章に対する批判はSY1698の日記でもされているが、自分も気になった点をひとつ指摘しておく。

007シリーズのM役でおなじみのジュディ・デンチ主演の、
ヘンダーソン夫人の贈り物』(2005)という映画があり
ました。第二次大戦時のロンドンの空襲のさなかに、ヌード・
レビューを上演し、度重なる営業自粛命令にも頑として閉館を
肯んじなかった劇場の物語です。こういうときにこういう舞台
を公演し続けた方も偉いが、通い続けたロンドン子もえらい。
日本でも、東京・渋谷のストリップ劇場、道頓堀劇場が震災
のとき、営業自粛していたのが18日にやっと再開した、と
いうニュースがありました。別に観に行こう、とは思いません
が(笑)、拍手したニュースでした。

 ヘンダーソン夫人が経営する劇場に閉鎖が命じられた理由は、劇場に客が集まりすぎて安全上問題があったからで、ヌードが不謹慎だとされたからではない。まあ、「空襲の最中にも劇場を閉めなかったのはエラい」と言えるのかもしれないが、唐沢は同じ文章の中で

さすがに3月中の野球開催は無茶だろうとは思いますが

と書いているので、「何故野球はダメなのか?」と気になってしまう。それから、ヘンダーソン夫人がロンドンの他の劇場が閉鎖していたにもかかわらず公演を続けたのには実は深い理由があって、公演を続けたせいで悲劇が生まれてもいるので(ネタバレになるのであえて省略)、「日常を崩すな」と自粛ムードを批判するために持ち出すのは違うんじゃないか?と思う。誰もがヘンダーソン夫人のように信念があるわけじゃないのだから。ちなみに、『ヘンダーソン夫人の贈り物』はなかなか面白いのでオススメ。



唐沢俊一鶴岡法斎『ブンカザツロン』(エンターブレイン)が出る切っ掛けとなったのは、斎藤環戦闘美少女の精神分析』(太田出版ちくま文庫)ということらしく、『ブンカザツロン』の中でも斎藤について言及されている(3月1日の記事を参照)。したがって、『ブンカザツロン』を検証するためには『戦闘美少女の精神分析』にも目を通しておく必要があるわけだが、『戦闘美少女の精神分析』の中に気になる箇所があったので取り上げてみようと思う。一応「唐沢俊一検証blog」としても関わりのある話なので。
 『戦闘美少女の精神分析』の第1章で斎藤は「おたく」について定義している。斎藤によれば「おたく」とは「虚構コンテクストに親和性の高い人」であり、「虚構化の手続き」を行うことによってアニメを我が物にしているのだという。『戦闘美少女の精神分析』単行本版P.36〜37より。

 彼らが好きなのは虚構を実体化することではない。よくいわれるように現実と虚構を混同することでもない。彼らはひたすら、ありものの虚構をさらに「自分だけの虚構」へとレヴェルアップすることだけを目指す。おたくのパロディ好きは偶然ではない。あるいはコスプレや同人誌も、まずこのように、虚構化の手続きとして理解されるべきではないか。

 それほど「濃く」ないにしても、一般におたくは評論家である。すべてのおたくは評論衝動とでもいうべきものを抱えており、この点では宮崎勤も例外たりえない。むしろ評論を忘れたファンは、おたくには見えない。おたくならば作品を、あるいは作家を語りに語って、語り倒さなければならない。そして彼の饒舌は作品そのもののみならず、作品と自分との関係性にすら及んでゆくだろう。おたくが評論するとき、その情熱はまたしても、新たな虚構を創造するという所有への熱意に重なる。つまり極言すれば、おたくは自分の愛好する対象物を手に入れる手段として「それを虚構化する」「それを自分の作品にする」という方法しか知らない。そこに新たな虚構の文脈を創り出さずにはいられないのだ。

 このくだりだけ読むと、唐沢俊一斎藤環を批判しなくてもよかったのにな、と思う。むしろ唐沢に都合にいいことを言っているのではないか。
 斎藤の文章はそれなりに頷ける部分はあるものの、すべての「おたく」が「虚構化」を行うものだろうか?と疑問を感じるし、また「虚構化」は「マニア」にもあてはまることではないか?とも思う。ただ、斎藤は「おたく」と「マニア」を区別するにあたって「この分類は私の個人的印象に基づくものであり、なんらかの基礎資料に忠実なものではない」(P.32)とコメントを付しているので、その点に気をつけて読めばあまり問題はないのかもしれない。
 しかしながら、この後に続く文章には問題があると言わざるを得ない。P.37より。

 岡田斗司夫氏が「オタキング」たりうるのは、彼の知識量がぬきんでていたためでも、情報が正確であったからでもない。なによりも彼は過去に、きわめてアマチュア的な立場から伝説的な名作『オネアミスの翼』というアニメーション映画を制作した。さらにまた名作OVAトップをねらえ!』の制作にも関わった。その緻密なマーケティング感覚は、こうした実体験に基づいており、それ自体が見事な評論である。おたく業界とは、すぐれた批評性が高い創造性にそのまま結びつきうる、希有の領域なのである。彼が尊敬されているとすれば、それは彼の抜きんでた虚構創造能力によってであろう。おたくにあっては、マニアにおいては厳しく要請される「情報の正確さ」の価値は、「正確であるに越したことはない」程度のものだ。事実、岡田氏はしばしば思いこみによる誤情報を語るが、それは「芸風」として許容されている。そこには、たとえ誤りであっても面白ければOKというコンテクストすら存在するだろう。

 …じゃあ、「大統領のヘルメット」のおかげで岡田斗司夫は「おたく」に尊敬されているということなのか? 斎藤の理論が正しいのであれば、唐沢の「『宇宙戦艦ヤマト』はわしが育てた」も「虚構創造能力」の一環として評価されるべきなのかも。
 だが、それはおかしな話と言うしかない。「おたく」にだって「情報の正確さ」が求められることに変わりはない。それに、岡田の与太話が面白いという見方を否定するつもりはないが、あくまでそれは「テキトーに聞いてるぶんには」いいという話でしかなくて、「うそつきくん」は面白がられても尊敬されはしない(もちろん他の部分で岡田が尊敬されている可能性は大いにある)。斎藤環より唐沢なをきの方が真実を衝いているのだ。そもそも口の上手い人間がもてはやされるのは「おたく」に限った話でもないのだが、岡田への過大評価がミスを招いたと言うしかない。「オタキング」って別に「オタクの代表者」ではないと思うんだけど。
 『戦闘美少女の精神分析』については『ブンカザツロン』の検証の中で再度触れるかも。面白いけどひっかかる部分もあるので。


戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

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まんが極道 5 (ビームコミックス)

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