唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ものぐさな精神分析批判。

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・1970年代後半に札幌でアニメ関係のサークルに入って活動されていた方、唐沢俊一に関連したイベントに興味のある方は下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。

karasawagasepakuri@yahoo


 藤岡真さん、すごいなあ。…結局のところ、唐沢俊一という人は余計なことをやって敵を作ってしまうんだよな。完全に自業自得だけど。ちなみに、自分も過去に少しばかりやってます(詳しくは2009年2月25日の記事を参照)。藤岡さん、お仕事ごくろうさまでした。



 次回の『豪STREAM』3月4日21時から放送予定とのこと。『クイック・ジャパン』のインタビューの件、どうぞよろしく!


 さて、今回から唐沢俊一鶴岡法斎『ブンカザツロン』エンターブレイン)の検証に入る。第1回目は本文に入らず、プロフィール欄と唐沢俊一による「まえがき」を取り上げる。
 『ブンカザツロン』に掲載されている唐沢俊一のプロフィールは次の通り。

1958年札幌生まれ。アニメブームの発火点といわれた当地でオタク修行にいそしむ。大学はふたつ行くが、どちらもオタク活動に忙しく、ロクに通わず。世田谷一家残殺事件(原文ママ)の被害者も在籍していたアニメ研究会、“アニドウ”に所属し、芸能プロダクション経営などを経て、オタクライターとして独立。意外かも知れないが、志水一夫開田裕治竹内博永瀬唯などオタク第一世代の中では、一番の若手世代に属する。

 毎度のことながら、本文より面白いプロフィールである。それではチェックしていこう。
(1)札幌が「アニメブームの発火点」というのは要するに「『ヤマト』はわしが育てたなんだろうけど、本当に「発火点」だったのだろうか。
(2)大学は「どちらも」「ロクに通わず」。…だから、本人の発言から考えると、青学を卒業していたとは考えづらいんだよなあ。
(3)世田谷一家殺害事件について、唐沢俊一は『社会派くんがゆく!』(アスペクト)でも発言している。P.118〜119より。

村崎 さーて、今月のメインディッシュ(笑)、世田谷区一家4人殺害事件に行こうかね。


唐沢 (しばしの間)……え〜、実はこの殺された宮沢一家のご主人のみきおさんという方は、私の古い知り合いでして……。


村崎(唖然)……どういう知り合い?


唐沢 いや、きちんと会話を交わしたことはなかったんだけど、顔は見知ってたのね。東大のアニメーション研究会に入ってた人なんだけど、ちょうどオレもアニドウ(アニメーション同好会)にいた頃だったから、毎度すれ違ってるんだよね。この人、川本喜八郎人形アニメの助手やってたり、広島アニメーションフェスティバルの実行委員とかやっててさ、アニメファンとしては非常に善良な部類の人だったんだよ。

 …それは「知り合い」なのかなあ。なみきたかし氏はかなり親しかったようだけど。あと、この発言からは唐沢がアニドウの中でそんなに地位が高くなかった、というのもうかがえる。「アニメファンとして非常な善良な部類の人」と「非常に悪質な部類の人」だった唐沢が呼んでいることには考えさせられるけれど(唐沢の悪質さについては『検証本VOL.0』を参照)。
 余談だが、五味洋子さんがアニドウ時代の唐沢について書いていて、かなり優しい書き方をされている。五味さんが唐沢の現状をご存知なのか、気になるところだ。
 さらに余談だが、つゆき・サブロー『寄生人』(太田出版)では唐沢となみき氏がそれぞれ解説を書いているのだが(つゆき・サブロー杉本五郎ペンネーム)、比較してみると杉本五郎の弟子を名乗っている唐沢よりなみき氏の方が杉本との付き合いが全然深いので「なんだかなあ」と思う。なみき氏の解説によると唐沢は杉本の「野辺の送り」にも参加していないらしいし(杉本が亡くなった1987年6月は唐沢が「都落ち」していた時期である可能性が高い)。
 もうひとつ『社会派くんがゆく!』P.120より。

唐沢 また、娘のにいなちゃんがバレエやってた時のビデオがワイドショーで繰り返し流されるんだけどさ、ジョンベネちゃんぐらいかわいけりゃまだしも、あれ毎日流されるのはツライよな(笑)。


村崎 それ言っちゃイカンでしょう。奥さんはまあ、見られるんだけどな(笑)。(後略)

 鬼畜にたしなめられてる。こういう発言を見れば広告に起用したくなくなるのも当然か。
(4)やっと本題に戻って、これが一番ビックリしたのだけど、「オタク第一世代」の幅が広がっている。名前の挙がっている人の誕生年を見ていくと、

志水一夫:1954年
開田裕治:1953年
竹内博:1955年
永瀬唯:1952年

 …ふーむ。ならば1952年生まれから「オタク第一世代」に含まれるのか、と思いきや、別のところで唐沢は池田憲章(1955年生まれ)のことを「第0世代」と呼んでいる(詳しくは2010年9月17日の記事を参照)。要は「オタク第一世代」という集団の設定はきわめて恣意的になされているのであって、まず「オタク第一世代」という概念そのものを疑ってかかる必要があるのかもしれない。
 

 では、まえがきに移ろう。唐沢は対談相手である鶴岡法斎氏と年齢が15歳離れているわりには、さほど意見が対立していないことについて次のように説明している。『ブンカザツロン』P.3より。

 これをして、どちらかがどちらかにオモネっている、と取るなら、それはちょっと違うのである。もともと、オタクという人種は、世代の差を乗り越えるものだからである。現に私自身、かつては自分よりはるかに年上のアニメマニア、特撮マニアたちと、ほぼ同レベルの意識で会話を交わしていた。そこにある差異は、彼らの方が、早く生まれてきたという利点で、自分たちより多くのオタク物件(戦争中の国策アニメであるとか、テレビ初期に放映された珍作SFドラマであるとか)を多く見ている、ということでしかなかった。私は彼らに追い付くために、出来うる限り洋モノビデオ屋をあさり、上映会などに足を運び、資料を検索した。その結果、モノカキとしてデビューした時には、年令相応にはまず見られない、若ブケしたキャラクターになってしまったけれども、しかし、当時のオタクというものは、誰しもが、そのような遡り傾向を持っていたものである。
 最近のオタクたちには、あまり遡り指向は見られない。遡ろうにも、いま現在、追わねばならぬオタク的物件が多すぎて、過去の作品・事象まで手をのばす余裕がないからである。オタクたちの間にもジェネレーション・ギャップが存在するとしたら、それはこういう部分に顕化(原文ママ)していると思う。
 鶴岡という人間も、やはり、そこは新世代オタクとして、自分の同世代物件に主な興味は向いている。ところが、このオトコは、その同世代のハバが、やたら広いのだ。対談の中でもそれは明白だが、いったいお前いくつだ、と言いたくなるほど古いもののことを、自分の記憶として語っている。その分、この本はオタク世代対決という意味での面白さは薄まってしまっているのだろう。

 この部分を読んで真っ先に思ったのは「唐沢さんはずるい」ということだった。何故「ずるい」のか、以下説明していく。
 まず、鶴岡氏を特別視しているのがおかしい。昔のことに興味のある若いオタクなんて今でもザラにいる。鶴岡氏以外に唐沢の面識のある「昔のことに興味のある若いオタク」といえば、半田健人がいるし、そして他ならぬ不肖このわたくしことkensyouhanもそうである。自分がもともと昔のことに興味がなければ唐沢の検証などやっていない。伊藤剛さんと初めて会った時も「お若いんですね」と言われたし、昔のことをわりに知っているので父親にも「お前はいつの生まれだ」とよく言われる。
 それに、一般論として考えても、今は若いオタクが昔のことに興味を持ちやすい状況になっている。ソフトの充実とCS放送などによって昔の作品を容易に見ることができるし、マンガだって復刻が進んでいる。そして、『スパロボ』をきっかけにモトネタの作品に興味を持つなど、昔の作品にアクセスする回路は開かれているのだ。
 つまり、引用部分の前半で、唐沢俊一が年長のマニアに対抗するために映画を見まくった、というのは今でも普通にあることなのだ。っていうか、田舎にいたときの自分とまったく同じ行動ですよ、それって。レアな品揃えのレンタルビデオ屋を見つけたときの喜びといったらなかった(帰郷するたびにそれらの店が大型チェーン店に取って代わられているのを見かける)。
 だから、鶴岡氏を特別視するのは間違っていて、むしろ彼の存在から「オタクは世代の違いを乗り越えて通じ合える」と考えればよかったと思う。にもかかわらず、唐沢が「最近のオタクたちには、あまり遡り指向は見られない」として世代による区切りを明確にしているのは、おそらく世代で区切らないと年下のオタクに負けてしまう、という危機感があったのだと思う。「オタクは世代の違いを乗り越えて通じ合える」というのは逆に言えば「年齢に関係なく同じ土俵に立つ」ことでもあって、年長者が年下の人間に誤りを指摘されることだって当然有り得る…、というか、まさしくこのブログで何百回もやられてきたことだし、そのはるか以前に唐沢は伊藤さんと「オタクアミーゴス会議室」などでだいぶやりあっている。伊藤さんは知識があってタフだから論争するのは結構キツかったと思う。もしかすると唐沢のトラウマになってるかもなあ。
 ともあれ、若い時と歳を取った時とで態度を変えるのは、「実力主義」になるとヤバいから「年功序列」を持ち込みたかったのでは?と思われても仕方ないと思う。…そこを指して「唐沢さんはずるい」と思ったわけなのだ。
 …しかし、「オタクのジェネレーション・ギャップ」をテーマにするなら鶴岡氏ではなく伊藤さんか東浩紀を相手にしたらよかったと思う(実際問題として不可能だろうけど)。東氏は笠井潔と往復書簡をやっててケンカしたような人だから、いろんな意味で盛り上がったろうなあ、と妄想。


 P.4より。

 いつの間にか、彼は私の弟子、ということになってしまっている。私の弟子、ということはライターの弟子、ということで、現にモノカキとして食っていく(ものを書くことで食っていく術を教える、という関係が師匠弟子の関係であり、それをマスターしない限り、どんなに才能があっても半人前でしかない)手段について、毎日のように電話などでレクチャーしている。

 何を「レクチャー」したんだろうなあ。唐沢から「文筆業サバイバル」の術を教わって生き延びている人がどれくらいいるのだろう。それ以前に唐沢本人が今現在「ものを書くことで食っていく」ことができているのだろうか。


 P.5より。

 思えば、彼の世代はオタクである自分に無自覚なまま、オタク的価値観の中で成長できた、最初の世代かもしれない。私は、オタクの世代による区分には基本的に反対なのだが、いわゆる私を含めた“オタク第一世代”という種族のみは、確かに存在していると思う。それは、自分の趣味嗜好を、“オタクだから”という理由で自分の中で(世間的評価ではない)正当化する必要性のあった人々、という意味だ。これは必ずしも時代だけで線を引けるわけではなく、先程もいった家庭環境、地域的なギャップもかなり大きく関係してくると思う。第一世代にどこか攻撃的で、かつ理屈っぽい人間が多いのは、自分の正統性(原文ママ)を常に周囲にアピールする必要があったためだろう。その必要から身につけた個性が、良くも悪くもその後のオタクのイメージを大きく左右し、オタク文化にある種の臭みをつけたことは否めない。しかし、オタクという人格、オタク的と言われる文化境界を確立する時期には、このテのキャラクターを前面に押し出すことは必要不可欠だったのだ。

「私は、オタクの世代による区分には基本的に反対なのだが」

 ものすごいギャグだなあ。「われわれの世代」大好きっ子なのに。
 それにしても、「“オタク第一世代”という種族のみは、確かに存在していると思う」のすぐ後で「これは必ずしも時代だけで線を引けるわけではなく」と矛盾したことを書いてしまっているが、「自分がオタクであること」を正当化しようとしている人は今でも普通にいるだろう。まあ、「オタク第一世代」で「どこか攻撃的で、かつ理屈っぽい人間」といえばすぐにあの人やこの人のことが思い出されるが(あえて名前は出さない)、そういう人は目立ちやすい、というだけなのかもしれない。


 P.6より。

 ところで、この対談をやろうと言う直接のモチベーションになったもののひとつに、精神科医斉藤環氏の、『戦闘少女たちの精神分析』(太田出版、二〇〇〇年)がある。この本はオタクという存在を一種の病理と見て、その根源を“オタク共同体”というククリの中の、個々のオタクの心の中に見い出していこうとする、ユニークな試みの著作である。一読して、その着眼点の面白さには心引かれたものの、“オタク”ということを個人(それが共同体幻想の構成員としての個人であっても)の内面に根差している問題として解析していこうとする方法論には、大きな違和感を感じざるを得なかった(もっとも、違和感というなら、この本の前書き第一行目で、『セーラームーン』や『風の谷のナウシカ』と並んで『じゃりン子チエ』を“戦う少女像”の例として挙げていた段階ですでに感じていたのだが)。

 なるほど、『ブンカザツロン』も「オタクとアカデミズム」問題につながってくるわけか(『唐沢俊一検証本VOL.4』を参照)。唐沢は『動物化するポストモダン』も批判していたけど、オタクについての研究が進んでいくことに焦っていたのだろうか。…しかし、唐沢は残念なことに書名を間違えている。正しくは戦闘美少女の精神分析』。唐沢の文章では『戦闘美少女の精神分析』の内容を十分に説明できているかどうか疑わしいところで(ちくま文庫版の説明文と比較してみよう)、斉藤環は『じゃりン子チエ』を「戦う少女像」に含めた理由をちゃんと書いている。『戦闘美少女の精神分析』P.174〜175より。

 またこの年、TVアニメ『じゃりン子チエ』の放映が開始されている。はるき悦巳原作の長期連載漫画のアニメ化であるが、本作品はおたくよりはむしろインテリ層に強くアピールする作品だった。毒舌と下駄を武器に戦う少女の日常が描かれる本作品からは、まず高畑勲監督の劇場アニメが作られ、ついでTVアニメ化された。筆者が個人的に、もっとも思い入れが深い作品であるためここに記したが、いわゆる戦闘美少女とはやや異なる位置づけの作品ということになろう。

 つまり、斉藤は『じゃりン子チエ』のファンだからあえて名前を出したのであって、チエが「戦闘美少女」とは異なっていることはちゃんとわかっているのだ。本の中で「おたく」に対する違和感を隠していない斉藤が、自分の思い入れのある作品を本題からずれているとわかっていながらわざわざ出しているのは面白い。


 『ブンカザツロン』P.6〜7より。

 第五章『戦闘美少女の系譜』において、氏はかなりの綿密さでもって、日本のアニメ史をたどり、その中で戦う美少女像が成立した過程をたどっている。この試みは非常に優れた論考たりえていると言えよう。だが、その結論が問題である。
 もし、私がこの論考の末に結論を出すとするならば、日本人に戦闘美少女萌え、という特殊な嗜好が生じたのは、これらの作品を幼いころから見続けた末の結果であり、さらにはこういう作品で性的インプリンティングを受けた者がまた作品を製作する側に回る、という重奏構造(原文ママ)からくる、社会的な必然とするだろう。要は環境の問題だ。日本とアメリカにおけるオタク像の差異は、つきつめれば、その生息環境を作ったマンガ・アニメ業界の構造の違い、で片付けられるだろう。
 しかし、斎藤氏は、それらの差異の中から、日本人独自のセクシュアリティの原型を抽出するという方向に突き進むのである。ここに、後追いでアニメ史をガリ勉した者の限界を見るのは私ばかりではないだろう。そこから得られた結論が“間違っている”とは言わない。だが、言わせていただければ“的外れ”なのである。たとえて言えば、漁師の家系に水難死亡者が多いのを、漁師一家の水に対する原イメージを探ることで理解しようとするものだろう。代々の職業が水の上で行われている、という事実をこそ、まず認識しなければ、その原イメージ摘出がどんなに精密に行われたにせよ、それは端から見てまぬけなものにしかなりはすまい。

 ガリ勉」「的外れ」「まぬけ」などなどかなりボロクソに言っている。
 しかし、唐沢俊一の考え方では、「子供の時から見ているんだから好きに決まっている」という話でしかなく、そもそも日本で「これらの作品」が生まれた理由がわからないし、受け入れられた理由もわからない。また、『戦闘美少女の精神分析』の第3章「海外戦闘少女事情」では海外のアニメファンへの調査が行われていて、日本と海外の環境の違いにも目が向けられている。だいたい、「日本人の戦闘美少女萌え」と「漁師に水難死亡者が多い」のは全く異なる問題であって、にもかかわらずたとえ話に持ち出すことこそ「的外れ」である。唐沢はもっと「ガリ勉」した方がいいよ。


 P.7より。

 オタクに関してはこの斎藤氏の著作をはじめ、さまざまな研究がなされてきている。しかし、オタクが育ってきた環境を、“時代”などという大きなククリでなく、当時の生活内容という下部レベルから述べたものは、あるようでいてあまりない。いくつか存在するとしても、それらは“ロートルオタクの昔話”、“レトロブームにのった思い出話”としてしか扱われていない。これが、オタクというものへの理解を大きくはばんでいるひとつの原因であると思う。そのような生活環境の積み重ねこそが、オタクという人種を生み出した最大のファクターなのだということを、まず理解しなくてはいけないのに。
 そういうことを語るには、論理的思考力だとか、アカデミックな教養というようなものはあまり役に立たない。なによりも必要なものは、細部のデティール(原文ママ)に対する一種異常な記憶力と、こだわりだろう。

 嗚呼。
 とんでもない話だ。「論理的思考力」の欠如した「オタク論」がどれほどの惨状を呈するかは唐沢俊一岡田斗司夫の論考を見れば一目瞭然だし、そもそも唐沢には「記憶力」があるのかもどうか疑わしい。「こだわり」もあるのかなあ。
 ディティールを追求することでアカデミックなオタク研究の弱点を衝くことはあるいは可能かもしれない。自分も斉藤環東浩紀の本を読んでいて「ちょっと違うな」と思う部分はあるのだが、無論単なる思いつきで全てをひっくり返せるものではなく、ロジックを構築することが必要不可欠になってくる。雑学だって面白く語るにはそれなりのロジックが要るはずだけど、唐沢は思いつきだけで披露しているのだろうか。
 とはいえ、唐沢俊一が「反アカデミズム」を唱えることで、オタクの一部から人気を得たということはやはりあるのではないか。東浩紀伊藤剛斉藤環、などといったアカデミズム系の論客に不満を持っていたオタクは確実にいたわけで、「論理的思考力だとか、アカデミックな教養というようなものはあまり役に立たない」というのはそういった人々に魅力的に捉えられたことは不思議ではない。でも、ここで書かれていることって、唐沢が度々批判している『世界に一つだけの花』風の「個性が一番大事理論」と何が違うのか?と激しく疑問に感じるのだが。
 はっきり言ってしまうが唐沢の話は間違っている。唐沢の著書がことごとく大変なことになっているのは論理的思考力の欠如と知識不足が主たる原因なのだ。アカデミズムを嫌うな、批判するなとは言わないが、努力もしないで乗り越えられるほど甘くはないのは確かだろう。「オタクというものへの理解を大きくはばんでいる」のはそういった怠惰さではないのか、と思わずにいられない。



 うーん。最後のあたりはあまり良くないことだけどマジメに怒ってしまった。なんというか、「バカのままでいいんだ」「努力しなくてもいいんだ」みたいな開き直りというか傲慢さが感じられたんだよね。オタク研究をしている人たちは地道な努力をしているというのに(理論が正しいかどうかはともかくとして)。
 まえがきの段階でこんなんで大丈夫か?と思いつつも、次回以降本文に入ります。


ものぐさ精神分析 (中公文庫)

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ブンカザツロン (ファミ通Books)

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社会派くんがゆく!

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戦闘美少女の精神分析

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戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

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寄生人 (QJマンガ選書 (06))

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じゃりン子チエ DVD-BOX 1

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