唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

岡田斗司夫検証blog3

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 毎日新聞』2006年5月15日夕刊総合面「ちょっと待った!:なんでも検定ブーム」岡田斗司夫「「ネオ教養時代」心の物差し」というコメントを寄せている(担当は太田阿利佐記者)。なお、この特集にはもう一人岩井志麻子もコメントしている。

 今、求められているのは「ネオ教養」。従来の教養に代わる新しい教養主義みたいなものが発生しつつある。だから、なんでも検定ブームなんでしょう。


 1960年代ぐらいまでの日本には「教養」がしっかりあった。漢詩が作れるとか、フランスやドイツの哲学書西園寺公望を読んでいるとか、でも吉川英治は大衆文学だから全部読んでもダメだとか、田中角栄元首相は尋常高等小学校卒だが、中国で漢詩をつくって「やっぱり教養がある」と言われた。

 このくだりについて、坪内祐三福田和也が『SPA!』の連載対談で当時ツッコミを入れている。『正義はどこにも売ってない』(扶桑社)P.165より。

坪内 ちょっと前の「毎日新聞」の夕刊で、オタキング岡田斗司夫さん(オタクの教祖)が、最近の「検定ブーム」について一種の「教養回帰」というか「教養への憧れ」とインタビューに答えていて……そこまではいいわけ。なんだけど、昔の人は教養があったという例として田中角栄を引き合いに出して、「中国に行った時、角栄が自分の気持ちを漢詩にして詠んだ」と。


福田 恐ろしい話だ。


坪内 恐ろしい話でしょ。だって角栄が北京の青空を詠んだつもりのあの漢詩―「北京空晴」は、中国語で「北京空しく晴れて」としか読めないわけ。つまり「北京に来て空しいぜ」って意味になるというんで、「無教養は怖い」という実例として、今東光柴田錬三郎が当時、散々批判したことでしょ。オレは当時、無知な高校生だったけど、『週刊プレイボーイ』の今東光の「毒舌人生相談」でそれを読んで、へえ〜、そうなんだと。


福田 うぬん。


坪内 漢詩という教養は、もちろん明治維新前は自然と身につけている人が多かったけど……でもその伝統は明治2桁生まれになると、もう廃れちゃう。地元の漢学者たちが開いていた塾もなくなってね。

 このほか、この対談ではオタクについて興味深いことが語られているのだが、それについてはdiscussaoさんのブログを参照していただきたい。この対談に限らず、坪内・福田コンビはオタクに対して冷淡な態度をとっているのだが…、ここでは角栄の漢詩を問題にしていこう。
 角栄漢詩については、例えば『21世紀への伝言』(文藝春秋)の中で半藤一利「平仄無視の漢詩ならざる漢詩と評価している。ついでに指摘しておくと、『佐賀新聞』のコラム『有明抄』は書名を誤って表記している。
 また、丸谷才一は次のように書いている。『日本語のために』(新潮社)P.101〜102より。

 一九七二年の日本でいちばん評判になった詩は、たぶん総理大臣が北京で作つた七言絶句、
「国交途絶幾星霜。修交再開秋将到。隣人眼温吾人迎。北京空晴秋気深」
 だらうと思ふ。漢学の素養が乏しいせゐか、わたしがこの詩を見てまづ思い出したのは、李白でも杜甫でも、蘇東坡でも陸放翁でも、頼山陽でも柏木如亭でもなく、新聞広告の「美邸瓦水日当良」といふ類の文句だつたが、しかしまあ、それだけ平易明快で現代的だと褒めることもできないわけぢゃない。むやみに故実を踏まへた、わけの判らぬ詩など作らぬあたり、ザックバランな人柄が嬉しいと喜ぶこともできよう。
 もちろん、たとへば伊藤博文漢詩なんかとくらべて、時代が下れば総理大臣の漢詩もかういふことになるかなどと慨嘆する手もあるけれど、伊藤春畝公の場合には一代の詩宗、森槐南といふ家庭教師がついていゐた。それなのに田中越山公(いや、本当は公ではない)はまつたくの独力で一詩を賦した、すくなくとも、さうとしか考へようがないくらゐの出来ばえである。とすれば、われわれはむしろ彼の健気な努力をたたへるべきであらう。

 だいぶひねくれた物言いだが、少なくとも角栄の「教養」を褒めてはいない(丸谷はこの後の文章で『日本列島改造論』の言葉遣いを批判している)。丸谷はさらに角栄漢詩は「政治的効用」だけを狙ったものだとして次のように書いている。P.103より。

 第二に、日本人が何となく漠然と尊敬する。何しろ漢詩文といふのは日本文化の一部分になつてゐるくらゐわれわれに親しいし、それに、和歌や発句よりも格が上なやうな伝統がある。必然的に、これを弄ぶ人は偉いといふ感じがわれわれの意識にちらついてゐるから、巧拙などは物の数でなくなる。選挙区などでは、かういふ気持はいつそうはなはだしいにちがひない。

 つまり、無教養な人間ほど角栄漢詩に感心してしまうわけだ。岡田斗司夫はまさしくその典型なのである。

 
 岡田のコメントをもう一度見てみると、「フランスやドイツの哲学書はいいとしても、漢詩が作れる」については坪内祐三が言っているように明治維新以降漢文の教育は廃れていき、1960年代に漢詩が作れる人間はごく少数しか存在しなかったのである。それ以上に不可解なのは西園寺公望で、いったい西園寺公望の何を読んでいたというのか。まあ、西園寺公望は作家たちを自宅に招いたこともあるし(雨声会)、西園寺の秘書である原田熊雄の『西園寺公と政局』は昭和初期の重要な史料とされているけれど。
 それから、竹内洋教養主義の没落』(中公新書)P.22で取り上げられている1963年の関西大学の学生実態調査によると、関大の学生が「感銘を受けた本」の第1位は山岡荘八徳川家康である。つまり、吉川英治と同様にれっきとした「大衆文学」なのであって、関西私大の雄である関大の学生の多くが「大衆文学」を読み、感銘を受けていたとなると、岡田の言う「教養」とは本当にごく限られた範囲の話にしかならないのではないか。そもそもどうして「1960年代ぐらいまでの日本には「教養」がしっかりあった」ことになっているのか根拠が全くわからない。
 

 教養は、何百年もの歴史を背骨にして形成されるものなんです。楠木正成を知らないとなぜダメなのかといえば、後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府の大軍と戦い、皇居外苑にまで像があるほど歴史的に評価されているからだ。米国なら、メキシコからの独立戦争で死んだディビー・クロケット原文ママ)を知らないと笑われる。でも歴史を見る目が複雑化、細分化すると「教養」も揺らぐ。特に日本には、太平洋戦争という大きな断絶がある。あの時の何が良くて、何が悪かったか整理できていないから、日本人は英雄像もつくれない。

 最近の人が楠木正成を知らないとすれば、それこそ「太平洋戦争という大きな断絶」があるからなのではないか。今じゃ「桜井の駅の別れ」を教科書で教えたりしていないのだし。…しかし、「歴史的に評価されている」というのも微妙な言い方で、楠木正成の像が皇居外苑にある理由を突っ込んでいくと、南北朝正閏論」に触れざるを得なくなるはずなのだが、岡田にそこまでの「教養」はあるのかどうか。
 そして、「日本人は英雄像もつくれない」って、いやいや、坂本龍馬は英雄視されているでしょう。だからこそ、大河ドラマでも主人公になったり重要なキャラクターとして登場するわけで。あと、織田信長豊臣秀吉徳川家康赤穂浪士新撰組宮本武蔵源義経聖徳太子、この辺は「英雄」といっていいのではないだろうか。戦後でも長嶋茂雄手塚治虫力道山あたりは「英雄」なんじゃないかな。『Fate/stay night』でサーヴァントとして召喚されてもおかしくない。

 教養は階級の証しでもある。平安貴族なら和歌、江戸庶民なら狂歌が楽しめて当然。教養によって所属がわかり、その中での自分の位置もわかった。戦前の人たちが多数派だった60年代ぐらいまではまだ「教養」の輪郭があったけど、高度経済成長を経て70年代ぐらいからそれが狂い出す。90年代後半からはIT(情報技術)が発達し、IT企業が幅を利かせて、年寄りはダメ、若い方がずっといいという価値観も出てきた。最近は「あの人は教養がある」なんてめったに聞かない。「古いこと知ってるね」「雑学に詳しいね」で終わり。トリビア扱いだ。

 なるほど。岡田の考えだと、「戦前の人たちが多数派だった」から「1960年代ぐらいまでの日本には「教養」がしっかりあった」ということになるのか。…しかし、そうなると「戦後の教育が教養を滅ぼした」という保守派がよくやりがちな話になってしまうし、そう言っている岡田自身が戦後の教育を受けているわけだから、少々ヘンな気がする。
 それから、今の日本に「階級」はあるのか?と気になってしまう。「庶民」はいるとしても「貴族」は? 「年寄りはダメ、若い方がずっといいという価値観」は別に「90年代後半」にいきなり出てきたわけでもないし。あと、この文脈は堀江貴文あたりへの批判とも読めるな。
 そして、『トリビアの泉』という番組はそれまでのクイズ番組などにありがちな敷居の高さを取り払うことをねらいとしていたのだから、岡田が言うように「教養」を「雑学」「トリビア」扱いにしてしまった一因は『トリビアの泉』にもあるのではないか。まあ、「雑学」や「トリビア」をたくさん知っていたとしても教養があることには必ずしもならないんだけどね。

 ところがこんな時代になっても人間は他の人とつながりたい、蓄えてきた知識の量を測りたい、という欲求がある。独自の世界を持つオタクでも、アニメ「機動戦士ガンダム」のファンであればガンダムファンがどれぐらいいて、その中での自分の位置を知りたいものなんです。

 そんなの人によるんじゃないか? としか言いようがない。『ひだまりスケッチ』のファンがみんながみんな「ひだまり王決定戦」に出たいわけじゃない。

 人は年をとればとるほど、自分のしてきたことの価値が気になる。しばらく前なら、自分は職人として、サラリーマンとしてどれほどかは、親せきや地域、同窓会を見回せば自然と分かった。つまり自分が帰属していると思う集団、群れがあった。ところが今は群れは崩れ、価値観も揺らいで「みんな自分の好きなように生きなさい」の社会。こうなるともう、好きなことでしか群れることができない。

 …は? 2006年の時点で「親せき」「地域」「同窓会」って無くなっちゃったの? でも、俺は今年の夏も親戚の家に行って来たんだけどなあ。単に岡田がそれらの「集団」に不義理をしているだけなんじゃないの? たまには墓参りにでも行ったらいいよ。
 それに「サラリーマン」でも「職人」でも「集団」の中での自分の位置づけは嫌というほど分かってしまうものではないだろうか。いくら「自分の好きなように生きるぜ!」と思ったところで他人からの評価からは逃れようがないし、大多数の人は「群れ」の中で生きていかざるを得ない。 
 ただ、「教養」にはいろいろな意味があるが、岡田斗司夫の言う「教養」とはどうやら「集団内における共通の基準」のことらしい、とここまで読んでやっとわかった。ある「集団」に属しているという証明が「教養」であり、その「集団」の中での自分の位置づけを認識するためにも「教養」が必要である、ということだろうか。

 群れたい、誰かとつながりたい、自分の位置を知りたい。そういう心に検定という物差しが滑り込んでくる。ナショナリズムと似ているかも。しかもテスト形式が、まじめで頑張り屋さんの日本人にはぴったりだ。


 ネオ教養が求められる限り、検定ブームは続くでしょう。ユーミン松任谷由実さん)検定とか、ガンダム検定とかも出てくるかも。僕は現状容認派なので検定ブームを批判しません。でも検定が、かつての教養と同じ役割を果たしてくれるかというと、何ももたらさない、と断言できます。

 さて、この結論でまたわからなくなった。岡田は「教養は階級の証しである」と言っていたが、それならば「検定」という明確な結果が出るものは「証し」として最適なものではないだろうか。先に紹介した坪内祐三福田和也は2人とも「検定ブーム」について「教養は役に立たないものである」という視点から批判しているのだが、岡田のように「教養」を集団内での「証し」と捉えている人間が「検定ブーム」を批判するのは筋が通らないように思う。少なくとも「何ももたらさない」と断言するのは乱暴すぎる。


 この結論の出し方にも言えることだが、このインタビューでの岡田の話の進め方には性急な面が多々見受けられる(いつものことかも知れないが)。興味深いことに『毎日新聞』にインタビューが掲載された直後の2006年5月24日ロフトプラスワンオタク・イズ・デッドが行われていて、つまり、インタビュー全体に見受けられる性急さは、「オタク」を理解できなくなってしまったという焦りを岡田が感じたことから来たものではないか?と思う。若いオタクと話が合わなくてもそんなに気にすることはないのに…と同情してしまうのだけど。俺だって流行りについていける自信ないよ。
 
 
 それから、岡田斗司夫どうしてそんなに「教養」を気にするのか?と思う。前にあげた『教養主義の没落』は日本の大学生から「教養」が失われていく過程を追った力作だが、宮崎哲弥は次のように評している。『新書365冊』(朝日新書)P.15〜16より。

 しかし教養ないし教養主義は、ある社会的条件の下において成立するものであったはずだ。その社会的条件が消滅してしまった以上、教養主義が没落し、教養の輪郭が失われるのは理の当然といえる。
 もちろん教養が滅失したからといって、人の知的営為が杜絶するわけではない。いま新しい社会的条件に応じた新たな知の形態―もしかすると「新しい教養」と呼び得るかもしれない―が生起しつつあるわけだが、それはまた別の話である。

 自分も宮崎に同感で、かつての「教養主義」はもはや成り立たないと思う(現在でも形を変えて存在し続けているのだろうけど)。岡田が奇妙なのは、「教養」がないのに(ないから?)かつて存在したはずの「教養」に憧れを持っているところである。だから、過去を妙に理想化してしまっているのだろう。たとえば、高校・大学への進学率の上昇は考慮すべきだろうし、「検定ブーム」にしてもエリートでない一般の人々が勉強熱心になっていることを考えれば決して憂うべき事態ではないと思うのだが、そこらへんを素っ飛ばして「日本人から教養がなくなった!」と言われても、と思う。だいたい岡田斗司夫はエリートじゃないんだからさあ。むしろ、岡田は過去にとらわれることなく「ネオ教養」「新しい教養」とは何か、を考えるべきだったのではないだろうか。岡田斗司夫にとっては、「教養」が無いことよりも「自信」が無いことが問題なのだと思う。


 岡田斗司夫については近いうちにもう一回やります。

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