唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

老害の少女。


 今回は岡田斗司夫唐沢俊一『オタク論2!』(創出版)P.60〜P.73より「オタク論壇の老害化!?」を取り上げる。

岡田 『サイゾー』07年8月号が「オタクギョーカイの闇」という特集をやっているんだけど、そこに「オタク論壇の老害化」という記事が載っているんですよ。「老害」って言ったら、俺ら第1世代のことかと思うでしょ。ところがこれが、東浩紀氏のフォロワーを中心とした第2世代以降オタクのことなんですよ。


唐沢 えっ! あれが老害なの!? じゃあ我々は何なんですかね。


岡田 いわゆる若手の内ゲバですからね。僕らは雲上人だから関係ない。


唐沢 「今の若い連中がオタクだとするならば我々はもうオタクじゃない」ということは、この連載の第1回から言い続けているわけですけど、ついに第2世代が「老害」と叩かれる時代になりましたか。


岡田 『サイゾー』の記事は、「エヴァ後遺症」にある人たちを「老害」だと言ってるんです。つまり、「エヴァ」ブームのときに評論を書いてブイブイ言わせていた人で、いまだにその気分を引きずっている人たちを「オタク論壇の老害」と呼んでいる。


 岡田が言及しているサイゾー』2007年8月号の記事というのは、宇野常寛が書いた『“ノスタルジィ中年”が跋扈! 老害化が進むオタク論壇の憂鬱』のことである。…何度見ても凄いタイトル。
 「「エヴァ」ブームのときに評論を書いてブイブイ言わせていた人」が誰なのかは気になるところだが、岡田による記事の説明は概ね正しい。とはいえ、それにしてもこの記事には問題が多い(9月7日の記事も参照)。なんといってもバイアスがかかりすぎているのだ。たとえば、この記事には「最新オタク・マスコミMAP」と題してオタクマスコミ関係者が区分けされているのだが、「御用ライター文化圏」(氷川竜介・藤津亮太)、「勘違いロック中年」大塚ギチ宮昌太朗、『CONTINUE』)など宇野の主観入りまくりの分類がされている。客観性をかなぐり捨てている姿勢には清々しさすら感じるが、少なくともこのような分類を信用することは出来ないことは言うまでもない。
 それから、明らかにおかしな点もあって、下流社会ビキニアーマー文化圏」として富士見ファンタジア文庫」と「二次元ドリームマガジン」が挙げられているのだが、この両者は全然違うだろう。ライトノベルジュブナイルポルノを一緒くたにするのはヘン。ファンタジア文庫には非ファンタジーのヒット作(たとえば、賀東招二フルメタル・パニック!』)もあるしなあ。それから「下流社会ビキニアーマー文化圏」の紹介文もおかしい。

「おっぱいの大きな女の子が戦うファンタジーが見たい」。そんな率直な願望を、なんのてらいもなく追求する、三十男たちが地味に買い支えるレーベルがズラリ。ビキニ鎧イズ・ノット・デッド!

 典型的な「なんのてらいもなく」の誤用。「照れもせずに」というつもりで使っているんだろうなあ。「下流社会」などと茶化している場面で誤用しているのが残念。あと、

恋愛の生々しさに代表される世界の複雑さに目をつぶって、記号(アニメ美少女)と戯れる三十男が急増中!

というのを「80年代サンデー文化圏」「ゆうきまさみ症候群」と名付けているけど、いまいちピンとこない言葉だ。『機動警察パトレイバー』だって80年代の作品なんだけど。まあ、「ピュア信仰」なみに定着しなかった言葉みたいだから別にいいか。

 結局、この記事を読んでも東浩紀のフォロワーのどこが問題なのか、具体的なことはよくわからない。宇野常寛は『オトナアニメ』が嫌いなんだなあ、ということは辛うじてわかるけど。

 こうして現在のこの業界は、右も左もノスタルジィの豚だらけの業界になったわけだ。もともとオタク業界、特にアニメ業界は恐ろしいほど保守的な業界で、作品の批判は原則タブー。ちょうちん記事のみが歓迎される、トンデモない業界だ。だからこそ東のような本来別ジャンルで発言してきた論者に期待するしかなかった(じゃないと、業界から消される)のだが、その東が10年前に大量に生み出してしまった劣化コピーたちのノスタルジィが、早くも老害となりつつある。自分のノスタルジィを公共のメディアで垂れ流す中年どもが一掃されて初めて、作品の魅力は正しく紹介され得るのだ。

 この文章が発表されて3年経つが、宇野常寛「自分のノスタルジィを公共のメディアで垂れ流す中年ども」を一掃出来たのかどうかはわからない。自分にはあまり興味の持てない話だけど、凄まじい気迫を感じるので頑張って欲しいものだ。しかし、宇野は「オタク第一世代」をなぜかスルーしているが、岡田や唐沢だって「ノスタルジィを公共のメディアで垂れ流して」いると思うのだが。どうして「第二世代」だけ攻撃するのかやはり謎だ。…思うに、宇野は「第2世代」を攻撃するために「第1世代」を権威づけようとして「知識人」と定義したのではないだろうか。よく知らないものを権威付けるべきではないし、「知識人」と呼ばれた唐沢俊一がそれを真に受けているのは気の毒だったから、罪なことをしたものである。
 いろいろ書いてきたが、宇野の記事には問題が多く、これを「オタク第三世代」全体の意見として見てはいけない、ということは確かだ。筆者は宇野と同世代だが、ハッキリ言って考え方はだいぶ違う。


 では、「オタク対談」に戻ろう。

唐沢 それ(引用者註 宇野による「第2世代」への批判)に賛成はすぐにはしないけど、まあ、正統派アカデミズムのミニチュア化って感じはしますね。アカデミズムの世界はパイが少ないから、自分より前にいる人間を一掃しないと上に上がれない。共産党と同じなんですよ。文壇における“一番頭のいい人”という位置がコロコロと変わっていく。大学の方では食えているからいいものの、文壇のなかでは発言権がなくなってしまうでしょう。浅田彰なんて一般誌にはもうほとんど出ないじゃないですか。一時は何かにつけて、どんな問題であろうと意見を求められていたものだけど、そういう人たちが現にいなくなってしまったわけです。
 今、第2世代の人たちは雪崩を打って学校の先生になりたがっているじゃないですか。学校の方でも、オタクやマンガのムーヴメントがあるから講座を開いていて、それで何とか食っていけてるわけで、彼らは評論で食えているわけではないんですよね。


岡田 評論で食えていない人を叩くなんて、可哀相じゃん(笑)。彼ら第3世代にとっては、第1世代オタクは自分たちの理解できない世界なので、もう関係ないんですよ。憎いのは第2世代なんですよ。第2世代と第3世代の対立が激しくなっている。第3世代が第2世代を攻撃しているわけですが、具体的には20代半ばの奴らが30代を攻撃しているわけです。
 じゃあ20代半ばの奴らは下の世代から攻撃されないのかというと、これが案外されない。そこから下はネットじゃなくてケータイ世代だからです。
 オタク論壇というのが成立したのはブログがあるからであって、それ以前の時代には自著もない人というのは「自称・評論家」と呼ばれて、論壇には参加できなかった。それがブログの発生によって一気に広がった。

 …えーと、岡田斗司夫はこの対談の時点(初出は『創』2007年9・10月号)で既に大阪芸術大学客員教授だったのだけど。どうして2人ともそのことをスルーしてるんだろ。今の唐沢俊一は評論だけで食えているのかも気になる。月刊連載3ページだからなあ。細かいけど、浅田彰は「文壇」じゃなくて「論壇」にいたのでは。
 それから、憂慮していたことだが、宇野常寛が「第2世代」を攻撃したことをもって、「第3世代」が「第2世代」を攻撃していることにしてしまっている。オタクがみんな本田透と同じであるかのように考えたこともあったし、つくづく大雑把。さっきも書いたように、自分はいわゆる「第3世代」なのだが、「第2世代」よりはむしろ「第1世代」に興味があって、その証拠にこんなブログを2年も続けてしまっている。まあ、「若いのに変わってますね」とよく言われるけど…。それに「第3世代」だっていずれ「第4世代」「第5世代」から攻撃されるようになるはずだ。「ケータイ世代」とか関係なしに、年長者は若者から批判されるものなのだから。

唐沢 つまりオタク論壇というのは、ブログなどで論を垂れ流している人間で形成されており、論で食っている人間ではないんですよね。論壇というのは、我々の世代にとっての常識から言うと、論で飯を食ってるヤツ、少なくとも自著があることを前提としていましたが。

 100冊以上の著書を出してきた唐沢俊一の自負が窺えるが、ガセビアや他人の文章のコピペを垂れ流して「飯を食ってる」ことは誇れることなのだろうか。

唐沢 論壇のパイは小さいから前を一掃しなければ食っていけないと先ほど言いましたが、第2世代は第1世代を一掃したわけではないんですよね。我々第1世代どころか、我々よりも上の世代である池田憲章さんたちが生き残っているくらいで(笑)。第2世代は、ネットができてパイが広がったがゆえに、第1世代と最終的闘争を行わないままに、むしろ第1世代のことを無視して敬遠することで成り立っていた。つまり論壇としては基盤が脆弱で、闘って勝ち取った場ではない。それで長持ちするのかなと思っていたんです。やはり第3世代からも突き上げが出てきたということですね。


岡田 それはオタク第2世代がやってきたのが政治的な活動だったからだと思うんです。というのは、第0世代、つまり池田憲章さんたちがやってることを、僕らは否定せずにきましたよね。池田憲章さんはオタクの中でもコアな層に向けて語っていたけれど、僕ら第1世代は一般に向けて語った。それが第1世代の仕事だったと思うんです。
 それに対して第2世代は、第1世代が語っているのは70年代・80年代のアニメやマンガばっかりだが、今現に進行している90年代、21世紀のアニメやマンガはこういうふうになっている、と語るのを「売り」にして出てきた。同時に「俺たちより年上の評論家はダメだ。時代についてきていない」という世代批判と売り込みがワンセットになった発言を必ず盛り込んだ。第2世代が政治活動だというのは、それによって記事や評論を囲い込もうとしたことです。自分の仲間たちだけで仕事を取って、第1世代から仕事を奪えというのが彼らの商業的な目標だったわけです。ところが現実にはそうはならなかった。

 根本的な疑問だが、1955年生まれの池田憲章と1958年生まれの岡田斗司夫唐沢俊一が何故別の世代になるのだろう。両者を明確に分けるラインが存在するのだろうか。金田正一が「名球会」入りの条件のひとつとして「昭和生まれ」と付したこと(これで川上哲治杉下茂は入れない)を思わず連想。
 それから、毎度のことだが、この2人は相手の話を聞いているのか?と思う。「第2世代」について、唐沢は「第1世代のことを無視して敬遠することで成り立っていた」と言い、岡田は「「俺たちより年上の評論家はダメだ。時代についてきていない」という世代批判」をしていたと言っている。…矛盾しているじゃないか。
 ともあれ、岡田と唐沢がそれまで年下の人間からあれこれ言われてきた憤懣をぶちまけているのが興味深い。唐沢は「オタク第2世代」のことを「闘って勝ち取った場ではない」と言ってるけど、池田憲章たちをスルーしたのだから、「第一世代」だって戦ったとは言えないし、それこそ「政治的な活動」をやっていたのではないか?

岡田 第1世代の僕らから見れば、オタク論壇全体が、ブログがあるからどうにか存在しているけど、もうじきケータイが主流になるとそれすらなくなる。沈みつつある船のアッパーデッキとロアーデッキで喧嘩しても、しょうがないんだよ(笑)。

 だから別に喧嘩なんかしてないんだって。そして、たとえケータイが主流になろうと、まとまった論考をやるうえでは紙の媒体やブログはいずれも有効であり続けると思う。ケータイだと長い文章は読みにくいし書きづらい。

唐沢 はっきり言って、僕は第2世代には興味も何もない。それこそ第3世代以降の、ケータイが主流になってからオタクを語るというのがどういうふうになっていくのか、そちらの方に興味がありますね。(以下略)

 「第3世代」の人間がやっている「唐沢俊一検証blog」、お楽しみいただいているでしょうか? 一方的に東浩紀にちょっかいを出してたのに、「第2世代」に本当に興味ないの?
 

唐沢 僕からすれば、「エヴァンゲリオン」のブームだって、あれは“論”などと言えるものではなかったですよ。ただ流行りを自分に引き寄せて“自分語り”をしているだけ。某大手の社員に「もうすこしエヴァ系の評論家を開拓したら?」と言ったら、「候補はいろいろ出るんだけど、そこの人たちは結局自分のことしか語らないので使えない」と言うんですね。オールマイティに語れる人がいない。だからどうしても私や香△リカのように、「何でも書きますよ」という無節操な人がいないと原稿が集まらないと。エヴァ系の人たちは自分が語る対象しか見ず、それしか語りたくないという人たちが集まっているわけでしょう。それでは論壇を形成できないですよ。

 伏せ字は原文通り。『創』では香山リカも連載を持っていたから配慮があったのだろうか。 
 …つかぬことを聞くが、唐沢俊一は「論」をいつ書いたのか? ひどい代物をいくつも読まされたものだよ…。『エヴァ』についてもちゃんと語れてないじゃん(2009年7月3日の記事を参照)。
 それにしても、無節操であることを自慢してどうする。唐沢俊一が自分の知らないことにも口を出した結果生じた惨状は当ブログでもたびたび紹介している。オールマイティに間違っているんだって。


 この後、岡田斗司夫が「このあいだ読んだ富裕層の研究書」から「所得の高い人間は必ず3つの段階(顕示的消費→保全→社会貢献)を通る」という話をする。

岡田 (前略)僕らのような物書きの職業は、学生時代に第1段階である「知識の顕示的消費」、つまり「こんなに俺たちはモノを知っている。こんな映画を見て、こんなことを言えるぞ!」という見せびらかしの段階を経て、次に「知識や見識の保全」、つまり今もっている知力や業界的威信をいかに維持するかという段階に入る。第3段階になってくると、これをいかに世の中に役立てるのかという段階に行けるんです。ところが第2世代の人たちは、第1段階から上にいけない。第1段階で評価を十分にされないと第2段階にはいけない。これはマズローの欲求説と同じですよ。


唐沢 ドイツなどの資本主義国、つまりマルクスの言うところの“資産の蓄積”が十分にあった国では社会主義がなかなか起こらないで、資産の蓄積が全くなされなかったロシアや中国で起こってしまい、それで社会主義というものが歪んだものになってしまった。知識の蓄積が完全にできていないネット人種たちの方で第2段階の革命のようなものが起きてしまうというのもその相似形かな。

 …2人とも自分が何を言っているのかちゃんと理解できているのだろうか。オタクの世代論と関係あるのかどうか疑わしいし、お互い背伸び感がものすごい。どうして「第2世代」が「第1段階」で評価されないかわからないし。マルクス主義の話なら「資産」でなくて「資本」の方がいいだろうな。岡田・唐沢が「知力や業界的威信」を現在でも維持できているのかも気になるけど。

唐沢 クラシックというものは「教室(クラス)で習うもの」という意味だけあって、過去のものにならないと研究対象にならないんですよね。変化しつつあるものは対象にならない。(以下略)

 “classic”にはもともと「最上級のもの」という意味があったとされる。

岡田 まあでも、第3世代のアキバでデモしちゃうヤツらに比べれば、第2世代の方がまだ知的な分だけまだマシですよ。第1世代は「アニメなんかつまんないかもしれないけど、僕たちは好きなんだよ、ダメだよねえ」というスタンスだったけど、第2世代は「何言ってんだ! アニメは素晴らしい!」と汗臭く語り、第3世代はアニメが素晴らしいかどうかは置いておいて「俺をちゃんと認めてくれ」ですよ。第2世代は「俺」が過剰だっただけで、第3世代は「俺」としか言わなくなった。(以下略)

 ナルシストは他人のナルシシズムが許せない、ということだな。岡田も唐沢も自分が大好きだからね。何の根拠があってそんな話をするんだか。「アキハバラ解放デモ」をやった人たちは別に「第3世代」に限らないだろうし。まあ、「アニメなんかつまんないかもしれないけど、僕たちは好きなんだよ、ダメだよねえ」という考え方にはいろいろ問題があるのだろう(この点「と学会」にも通じる)。

岡田 団塊の世代が抜けちゃったら基幹産業はどうなるのかというのと同じように、僕らは趣味の世界ですから引退は無いとは言え、第1世代が抜けてしまったらオタク業界はバラバラになりますよね。でもまあ、それはそれで良いですけど。(以下略)

 「オタク業界はバラバラになりますよね」ってどういう意味なんだろうか。とりあえず、「第1世代」でも岡田と唐沢が抜けても業界的にはダメージはないのでは。…とっくの昔に抜けているという説もあるかな。


 …この対談を一言でまとめれば、宇野常寛の記事をネタにして岡田と唐沢が第2世代と第3世代に八つ当たりした」ということでしかない。他人の悪口は読んでいて疲れるなあ。

 まず第一に「オタク第一世代」という概念そのものから疑ってかからないといけない、と痛感させられた。世代論を安易にやってはいけないね。



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・初めての方は「唐沢俊一まとめwiki」「唐沢俊一P&G博覧会」をごらんになることをおすすめします。
・1970年代後半に札幌でアニメ関係のサークルに入って活動されていた方、唐沢俊一に関連したイベントに興味のある方は下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。

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オタク論2 !(2)

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サイゾー 2007年 08月号 [雑誌]

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機動警察パトレイバー (1) (小学館文庫)

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