唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

百匹目の猿は一万一冊目の本を読むか?

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 今回も『中洲通信』2008年1月号に掲載された唐沢俊一のインタビュー記事『オタクの老後問題』を取り上げる。

 いま計画があるんです。岡田斗司夫がダイエットしたじゃないですか? 僕は蔵書をダイエットしようと思っているんですね。ネット時代ならネット時代なりの蔵書のダイエットが必要だと思っているんです。僕がライターになってから、ほんの数年前までの十数年間は蔵書の数が物書きの勝負の分かれ目だった。手元にある、すぐ読める本の数という意味ですね。渡部昇一さんの『知的生活の方法』ではどうやって書庫を建てるかというような書いているけれど(原文ママ)、確かにその当時は物書きの基本だったんですよ。手に入れなければならない本を古書店で探す、図書館で読むという手間よりも、自分の書庫にあるのでは違います。確かに書庫に二万冊もあれば読みたい本を捜すのに半日かかるわけですよ(笑)。それでも神保町の古書店や図書館へ出かけて行って捜すよりも、捜せば必ず自分の書庫にあるという安心感には替えられない。これは確かに大きいですね。僕は物書きとしてデビューしたときからサブカル系のライターとして第一線に行くのにあまり時間はかからなかったんです。それは「あいつに書かせれば必ず資料を持っているだろう」ということだったろうと思う。

 これには驚いた。なんと『博覧強記の仕事術』が『いつまでもデブと思うなよ』の後追いだったとは。…しかし、それにしては狙いがズレているような気がする。だって、「肉体のダイエット」を気にしている人は多いけど「蔵書のダイエット」を気にしている人はそんなに多くないのだし。どうせなら『育毛通PART2』や料理本を出せばよかったと思うけどなあ。食と健康というのにはみんな関心を持っているからね。
 それから「蔵書の数が物書きの勝負の分かれ目だった」というのは唐沢俊一の場合はそういう部分もあったとは思う。本で埋め尽くされた部屋の写真には確かにインパクトがあった。とはいえ、企画を持ち込むときに蔵書の数をアピールしてもどれだけ意味があるのだろうか?と思ってしまう。
 「書庫に二万冊もあれば読みたい本を捜すのに半日かかる」というのもヘンな話で、整理が行き届いていなければいくら蔵書があっても意味ないじゃんと思う。自分の場合は、検証のためにいちいち本を買えるほど裕福じゃないし、本の置き場所もないので、行きつけの図書館を最大限に活用しているけど、それでもなんとかやれているので、唐沢俊一が図書館の存在を軽視しているのが不思議である。まあ、プロとアマチュアは違う、と言われればそれまでだけど。

 それで高校三年ぐらいまでに漫画だけで千冊ぐらいの蔵書があった。なをき(実弟・漫画家)と一緒にですけどね。だから、その時代までの漫画は何を言われてもすぐ読めて応えられるという

 唐沢俊一が高校3年のときというと1976年だけど、日本で1976年までに出た全ての漫画の単行本は絶対に1000冊じゃきかないし、それどころか、コミックスの年間の新刊点数も1976年には1000冊を超えているようなのだ(「情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明」を参照)。ハッタリにしても無茶すぎる。なお、『古本マニア雑学ノート』(幻冬舎文庫)P.126、128より。

中学三年のときに、すでに僕のマンガの蔵書は八〇〇冊を超えていた。マンガ以外の本もそれくらいはあったろう。

 じゃあ、俊一の800冊になをきの200冊を合わせて1000冊なんだろうか。

 あれもやり、これもやりでは矛先が鈍るんですね。鋭角にしていかないとやっていけないなという。
 いま、ネット古書店というものがこれだけ拡がって、インターネット書店を使えばほとんどのものは二、三日で届くわけですよね。それを仕事の資料として使って、使ったらまたネット古書店に戻すというサイクルを使えば、北海道から沖縄の書店までが自分の本棚になるわけですよ。どうせ自分の書庫で資料を捜しても半日、一日閉じこもらなければ出てこないわけですしね。そうすると自分の手元はすごく軽くなる。蔵書というのは一万冊、二万冊が限度なんですよ。私ね、一万冊まではどこに何があるかわかっていたんですが、10001冊目からまったくわからなくなった(笑)。これが記憶力の限界ですね。かといって大宅文庫のように常時整理し続けるにはお金がかかりすぎる。渋谷の仕事場もほとんど本で埋まっていて、本に家賃を払っているようなものですよ。これをネット古書店を使用することによって減らせるんじゃないかと。僕も来年50歳になります。そうすると一生の残り時間で読める本の数は限られてくるわけですよ。そうすると自分の本のコレクションに埋もれて生きるのは、所謂本好きではなくて本フェチなんですよ。一種の変態に属するわけですね(笑)。僕はそれはしたくないんですよ。だから生きているうちに自分でアウトプットしてネット古書店に流通させるべきなんじゃないかなと思うんですね。日本中のネット古書店に3冊在庫があったらまず無くなることはないから、いつでも読める。

 いや、だから、ネット古書店よりも図書館を使った方がいいのでは。そっちの方がサイクルとして効率がいいと思うけど。「10001冊目からまったくわからなくなった」というのは唐沢の持ちネタのひとつだけど、モトネタは「百匹目の猿」だろうか。蔵書の数をいちいちカウントしていなければわからなくなったのが「10001冊目」だとわからないと思うのだけど…。どうもこれもハッタリくさい(そもそも「百匹目の猿」自体トンデモである)。…それにしても「本フェチ」を否定しているのは『古本マニア雑学ノート』の著者としてはどうなんだろう。「あれもやり、これもやりでは矛先が鈍るんですね」というのはまたしてもブーメラン

 死ぬまで本を残す人間はその目を養えなかったということなんじゃないかなと思うんですね。荒俣宏さんはひとつの仕事が終わると大量に処分されるそうなんですよ。本を情報だと思えば、やはり仕事に本を使うということはそういうことだと思う。

 自分も検証が終わったら唐沢俊一の著書を全て処分するつもりなのでその日が待ち遠しくてならない。場所をとるから本気で困っているんだよ! まあ、それはどうでもいいことだが、唐沢が書いた「古本マニア」たちは本を読む暇を惜しんで蒐集に勤しんでいたのだから「その目を養えなかった」とクサすのもおかしな話だ。…っていうか、これって結果的に志水一夫を批判しているよねえ。それに唐沢は杉本五郎の遺した本を貰っているはずだが、杉本も「その目を養えなかった」のか? …結局、唐沢俊一は「古本マニア」にはなれなかったわけだし、そうなると『古本マニア雑学ノート』って一体なんだったんだろう?と思ってしまう。


生命潮流―来たるべきものの予感

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