唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ガセビアの沼に沈む。

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karasawagasepakuri@yahoo.co.jp


 伊藤剛さんによる『いばりんぼ』の解説は必読。兄への恨みと言うより身内であろうといいネタであれば遠慮なくやっちゃうあたりが素晴らしい。と学会は見習うべし。


 本題。『中洲通信』2008年1月号に掲載された唐沢俊一のインタビュー記事「オタクの老後問題を語る」(取材は和田彰二氏が担当)は、夏コミ用の本を作るときにも大いに参考にさせてもらったのだが、とにかくツッコミどころが多くて面白い。全部一遍に取り上げると大長編になってしまうので、小分けにして紹介していく。今回はガセビアの価値」という章から。

―インプット、アウトプットの話につながると思うんですが、岡田斗司夫さんとの『オタク論!』の中でも<オタクはコミュニケーション能力が高くなければトップになれない>と言われていますね。


 それはまさに僕の持論でもあるんですが……ただ、いまのオタクはそうではないですよね。かつてのオタクはインターネットというツールがないので、情報を得ようとするとそれこそ東映動画タツノコプロに連絡して「すみません、見学させてくれませんか?」と段取りをつけなければいけない。ビデオも普及していないからフィルムを借り出して、会場を手配して上映会をやらなければいけない。オタク同士のやりとりもあって、そういうコミュニケーション能力は我々プレオタク世代には必要にかられてあったわけで、そういうものがないとステージが高いオタクになれないということがありました。
 それからオタクが情報を求める生き物だということをマスコミが知って、専門誌は出るわ、資料本は出るわ、ネットが出てくれば専門サイトが出来るわということでコミュニケーション能力はあまり必要とされなくなってしまったんですね。だからそこから先のオタクとは人種が違うんだなという気がします。それこそインとアウトで言えば、情報はわらしべ長者的ギブ・アンド・テイクで、情報交換で自分の持つ情報を大きくしていったんですね。


―もう構造自体の成り立ちが変わってきているわけですね。


 特にインターネットというものはクリックするだけで情報はいくらでも入ってくるんですが、それを自分なりに読みこなして、かつ自分のものにして相手に発信することができなくなっているんです。また発信しないんですよね、しても意味がないから。昔は発信しなければ(情報が)入ってこなかったから。いま、潜在的な力を持っているオタクはたくさんいると思うんですが。

 これって今と昔で違う話なのかなあ。情報を発信することによってより多くの情報を得ることができる、というのは今でも変わらないのでは。現に自分はブログをやることでたくさんの情報を得ることが出来たのだから。…まあ、唐沢俊一にも直接本を渡しちゃったりして、無駄にコミュニケーションしちゃっているけど。結局、個人的な趣味のために精力的に動く人間は今も昔も一定数存在する、ということでしかないと思う。自分なんか「なんであんなにしつこく検証しているの?」とよく言われるけど、そういう人間もいるのだと了解していただければ(難しいかな)。
 それに、唐沢俊一ってコミュニケーション能力高いかなあ? 「あぁルナティックシアター」のブログ炎上事件を見る限りではネット上でのコミュニケーション能力は明らかに低いし、現実面でも『新・UFO入門』事件の交渉が決裂したりDAICON逃亡事件というのもあったし。そういう人のコミュニケーション能力が高いとはどうも…。
 あと、ネット上の情報を「自分なりに読みこなして、かつ自分のものにして相手に発信することができなくなっている」のは他ならぬ唐沢俊一だろう。ネット上の情報をコピペしまくったり、誤った情報をそのまま信じちゃったり、ある意味ネットが唐沢を破滅させたのかも。
 ちなみに、「プレオタク世代」とあるが、このインタビューの中で唐沢は「自分は「オタク第一世代」ではなく「プレオタク世代」ではないかと思っている」と言っている。…しかし、「プレオタク」ってオタクじゃないのでは? 「オタク原人」とでも呼ぼうか。

―確かにいまは処理しなければいけない情報が多すぎますよね。


 そこで情報をどう捨てていき、必要な情報をいかに残していくかということでしょうね。昔はクズのような情報でもとにかく情報さえあればという感じでしたね。だから面白かったのは、ガセネタも多かったんです。情報というのは正確な情報だけでは、役には立つけれどもそれだけではつまらないんですよ。ガセネタをたくさん知っている人間の方が面白がられるんですよ。


―「トリビアの泉」で<ガセビア>を流したのもそういうことですか(笑)。


 そうなんですよ。雑誌の端っこにあった一行知識を切り貼りしたスクラップブックが原点なんですけど、何で自分はこういうものが好きなのか、誰がこういうものを書いているのか調べていたら、ミステリ作家の鮎川哲也さんがある雑誌にコラムを書いていらして、「ミステリ作家として食べて行けるようになるまでは、雑誌の雑原稿で食いつないでいた。ネタがなくなると駄法螺を書いた」と(笑)。それを読んで大笑いして、「そうだよね」と。こういう世界マル秘情報のようなネタの魅力って怪しげなところなんですよね。情報で一番喜ばれるのは<世界はかくも怪しげなものである>というエキゾチズムというのかな、あるいは自分の常識から外れた未知の世界があるという魅力なんで、雑学もそれでなくてはいけない。だから<昔ながらの怪しげなネタは残しておかなければいけない>というのは僕の持論なんです。


東スポの見出しを楽しむという形で残っていますよね(笑)。ただいまはガセネタを真剣に怒る人もいますよねえ。


 私もかなり怒られている。でもこれはねえ、譲りたくないんですよねえ。つまりただ雑学を知っているだけでは駄目なんです。現実に対するフックにならないといけないと思う。それはアニメもそうだし、特撮もそうなんだけれども、普通のオタクと世の中にそれを武器にフックしてくるオタクの二種類がいるんです(後略)

 唐沢俊一のガセネタって単なるミスばっかりじゃないか。毎度おなじみロバート・ケネディ大統領」とか、谷崎潤一郎を全然読んでいないとか、特殊相対性理論と一般相対性理論の関係をわかっていないとか、怪しげでもなければ面白くもない。どれも普通に調べていれば防げたミスばかりだ。「譲りたくない」というなら好きにすればいいけど、「この人は手抜きしているんじゃないか?」とか「義務教育をちゃんと受けているのか?」とか疑われるリスクを犯してまでガセビアを広げようとするとは勇気がありすぎる。ミスをしているだけなのに「雑学はアヤシゲなところが魅力」とか話をすりかえるからいけないんだよな。「駄法螺」だってちゃんと考えるのは大変だと思う。唐沢のガセビアと一緒にされては東スポも気の毒だ。
 それから、唐沢俊一の信念とは違って、現在の「雑学」には正確さが要求されている。テレビ番組で雑学を扱う時はリサーチを念入りにやるというしね。だいたい「ガセビアの沼」はガセビアが二度と使われることのないように沼に沈めてしまおう、というコーナーなんだから、雑学の怪しさを否定しているはずなんだけど。カンチガイにしてもおめでたいとしか言いようがない。そりゃ緒川たまきに「うそつき!」って言われるわ。


 …この『中洲通信』のインタビューは本当に面白いので、第2弾、第3弾とやっていきたい。驚きの発言がいくつも飛び出すので乞うご期待。


中洲通信 親子三代ママ稼業

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東スポ黄金伝説。 (幻冬舎アウトロー文庫)

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