唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

コラムはドーピングコンソメスープ?

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 今回は『編集会議』2003年12月号に掲載された唐沢俊一のインタビュー『コラムはコンソメスープ』を取り上げる(インタビュアーは花田紀凱氏。当時『編集会議』編集長だった)。…余談だけど、このタイトルは10ccの『人生は野菜スープ』からとったんだろうなあ。

邦題すごいな。


 コラムは一種のコミュニケーションですね。誰かに何かを伝えるということが、文章の基本だと思うんです。その最もストレートな形がコラムじゃないかと。
 コラムやエッセイといったいわゆる雑文学は、小説と違って書き手個人の思考―その人が何に怒っているとか、何に対しこだわっているというようなことがダイレクトに伝わる。なるほど知識人はこういう事に興味を持つのか、こういう見方もあるのか、この人はこう言うが自分はどう思うかなどなど、子供の頃から僕は雑誌のコラムで人生の大事なものを学びました、本当に(笑)。

 確かに唐沢俊一のコラムを読んでいると、唐沢俊一のキャラがよくわかる。まとまりのなさや間違いの多さからして、「そういう人なのか」と。

 でもこの頃は、コラムが楽しみで雑誌を買うことが少なくなりましたねえ。
 かつて我々のカルチャーヒーローはコラムニストだったんですけど、いつからでしょうね、雑文学が衰退してきたのは。
 理由のひとつは、文体が出尽くしたことではないかと思っているんです。コラムの基本型を作った書き手が三人いまして雑学ウンチク系では伊丹十三さん、戯文というか、自分を何も知らない人間であると設定して書く東海林さだおさん、フリージャズ的なノリで文章をつむいでいくジャズピアニストの山下洋輔さん、この御三方がいまのコラム全体の原型になっていると思う。文章を読むと、だいたいは原型がわかります。僕は伊丹さんの流れにあるし、椎名誠さんは東海林さんの流れでしょう。いったん型がキチッとできるとそれを越えるのはなかなか難しい。
 椎名さんの世代までは、書き手の人格と文体と内容、この三つがぴったりとシンクロしていたんです。でものちに多くの模倣者が出てきて文体だけ一人歩きしてしまった。さらにサブカルチャーブームで雑文がもてはやされた時期にダンピングで質の低下が起きて、それで飽きられちゃったのかなという感じがします。

 …というわけで、唐沢俊一伊丹十三の流れをくんでいるらしいです。そうなのかなあ。あと、東海林さだお椎名誠という流れは合っているのか?という疑問がある。2人ともいわゆる「昭和軽薄体」にあたるわけで、コラムニスト(エッセイスト)として登場した時期はそんなに違わないんじゃないかなあ。そして、ナンシー関はどうなるの?とか思ったり。いまだに影響力あるもんなあ。

 もうひとつは、音楽でも何でもそうだけど、個人の好みがとても狭くなってきていますよね。自分の好む分野に関してはやたら深いオタク的な知識を持っているけれど、ちょっとでもそこから逸れると一気に興味をなくしてしまうような。
 雑文学というのは世の中の森羅万象、ありとあらゆる、社会、政治、芸能、文学、映画、その他の芸術など、諸々にアンテナを張っていないとネタが集まってこないんです。そういう意味では、書き手の体質と読者の体質が相反するようになってしまった。
 雑誌はなんでも入っているから「雑」の誌なんですけどね。寄席の衰退も同じ。いろんな芸能を寄せたから「寄席」なのに、近頃は落語なら落語、しかもその人の落語しか聞きたくないという人が増えたので、構成しにくくなっちゃった。

 確かにそうだ。唐沢俊一のアンテナの鈍さは本当にヒドいからね。「一体何に詳しいんだ?」と思ってしまう。『社会派くんがゆく!』のズレ具合は毎回悲惨きわまりない(次回検証します)。それから、いろんなジャンルに興味がある一般の人というのは実はそんなに多くないと思うので、「書き手の体質と読者の体質が相反する」というのは疑問。あと、寄席が衰退した理由もちょっと違うような気がする。やっぱりテレビの存在がデカいと思うんだけど。「ホール落語」じゃダメなのか。

 若い編集者に露骨に言われたことがあるんですよ。「最近は唐沢さんみたいにたくさん物を知っているというのは流行らないんですよ」って。知識欲自体がダサい、と。要するに、いまは無知というものが恥でも何でもないし、逆に人生に変にこだわり持って無駄な知識を溜め込むと、ウンチクばかりでおもしろくないんだそうです。ノリだけで充分なんだ、と。
 で、その反発もあって『トリビアの泉』を始めました。やってみた感想は「ほら、まだみんな知識欲があるじゃないか」。出版の人間としては、もう少し凝ったほうがいいのでは? と思うこともありますが、二ひねり三ひねりすると視聴率が取れないみたいです。誰でも予想のつく範囲から、一ひねり半くらいがちょうどいいと、テレビ局の人は憎らしいほどそのさじ加減を知っているんですよね。

 …いや、唐沢俊一が自分から『トリビアの泉』をスタートさせたみたいな言い方をするのはちょっと違うのでは。だいたい、スーパーバイザーとは言っても番組にそんなに深く関わっているわけじゃないんだから(唐沢と『トリビアの泉』の関係については『検証本VOL.2』で簡単にまとめてあります)。
 

 さて、この後、唐沢俊一の「コラムベスト5」が紹介されている。ラインナップは以下の通り。


筒井康隆『狂犬樓の逆襲』
阿川弘之『葭の髄から』
中野貴雄『シネマ死ね死ね団
・『週刊新潮』連載『私の週刊食卓日記』
植木不等式『向こう三軒ノーフューチャー』


 まずは『狂犬樓の逆襲』について。

 今、毎号楽しみにしているコラムは、『噂の真相』で筒井康隆さんが書いている「狂犬楼の逆襲」(原文ママ)。もう雑誌自体がなくなってしまうけれど、あれはいいですねぇ。作家としての矜持とジジイの韜晦(笑)。「青山に引っ越して、毎日うまいもん食って金がなくなってきたので、本が売れている時に買った絵を売った」とかですね。「私の本は段々売れなくなってきている」とか、毎回書いているんですよ。本当か嘘かわからないけど、これまでの日本にはこういう感じのコラムはありませんでした。自虐でもないユーモアでもない、意地の悪い視点というか。日本人って、偉い人ほど謙譲の美徳を持っていて、ものを大切に言わないものだけど、そんな意識はまったくなく「今は売れていない。だが昔は神様と言われていた。出版社が土下座した」なんて書いていて。読むたび、ああ、こういうジジイになりてぇなぁと思います。

 『狂犬樓の逆襲』は『笑犬樓よりの眺望』(例の断筆宣言で終了)の続編なんだけど、 まさかそれを知らないわけがないと信じることにして。…しかし、「ジジイの韜晦」っていうのはヘンだな。唐沢のコメントの中でも筒井康隆は別に「韜晦」してないもの。むしろ逆に露悪的というかね。唐沢俊一「韜晦趣味」も妙なものだけど。
 …なお、『コラムはコンソメスープ』の中で『狂犬樓の逆襲』第63回(『噂の真相』2003年11月号掲載)が転載されているのだが、それが偶然にも筒井さんが『トリビアの泉』に出演した時の話だったりする。その中に興味深いくだりがあったので引用してみる。

 放映後、行く先ざきで、それはもう八百屋の主人、文房具屋の店主、薬局のお姐ちゃんなど、あらゆる人から「見ました」と言われて今さらながら人気の高さに驚いたのであるが(後略)

 …あれ? この芸風は「裏モノ日記」で見覚えがあるような。…まさか。
 でも、筒井康隆の芸風をパクるにしても中途半端である。『狂犬樓の逆襲』第63回から再度引用。

 さて「トリビアの泉」であるが、その後わしの出た回の視聴率が驚くべき高さであることがわかったらしく、これは勿論わしが出たせいではないのであるが、そのためかわがジャーマネによれば再度お呼びがかかっているらしい。ただ出て「へえボタン」を押しているだけで高額のギャランティが頂戴できる。わしの小説本、特に文庫本が売れなくなって収入減となった昨今、これはまことにありがたいことである。

 露悪をやるならここまでやれってことだなあ。学生時代に筒井さんのエッセイや日記をよく読んでいたのでなんだか嬉しくなる。唐沢俊一「企画が通らない」「連載が終了した」「本の発売が延期になった」などなど率直に語らない限りは筒井康隆の足許にも及ばない。服を脱いでふざけているくせに最後のパンツ一枚だけは必死で守っているようであまりカッコよくない。…唐沢俊一に「帽子とパンツ、脱ぐならどっち?」と「究極の選択」(我ながら古い)を聞いてみたい。



 次。阿川弘之『葭の髄から』。

身近な周辺の変哲もないことを書いておもしろくするというのは、技術と、書く文章の奥に何十倍の教養が必要なんです。それがない人が身辺雑記を書いてもただの作文。
 どうして同じような、庭に花が咲いているということだけを書いても阿川さんの文章は美しいのだろうか。と考えるとくやしくて眠れなくなります。僕なんかがいくら目標にしても書けないタイプのエッセイです。

「僕なんかがいくら目標にしても書けないタイプのエッセイ」 

 そりゃそうですね、としか言いようがない。


 次は、中野貴雄『シネマ死ね死ね団』なのだが、唐沢俊一は中野監督の文章をホメた後でこんなことを書いている。

 B級映画の評論家って、『映画秘宝』にけっこういるんですけど、大抵は変な人が変な映画を好きだというだけで終わってしまう。書いているほうは自分が好きだということを前提にしちゃっているから、すでに読者との間に高い塀がつくられちゃっていることに気付いていないんです。一般人に伝えようという表現の工夫がない。ま、マニア雑誌だからいいようなものの。そこも、中野貴雄という人間はものすごく工夫するんです。

 まず、ヘンだなあ、と思うのが中野監督も『映画秘宝』の常連ライターだということ。…っていうか、『映画秘宝』に執筆している人はたくさんいるんだから一まとめにするのがおかしいのであって、一体誰のことを指しているんだかわからない。まさか町山智浩さんのことではないんだろうけど。そもそも「マニア雑誌だからいいようなものの」ってわかっているんだったらケチをつけるのは筋違いだろう。プロのライターなら媒体に合わせてスタイルを変えるのは当然のことで、『映画秘宝』だからこそマニア向けの書き方をしているんだから、それを「一般人に伝えようという表現の工夫がない」と批判するのはムチャクチャである。『秘宝』で一般人向けの書き方をしたら「ウスい」って文句を言われるのは目に見えているよ。
 …こういう「一般人に伝えようという表現の工夫がない」と他の評論家やライターを批判するのは(唐沢だけでなく岡田斗司夫もやっていたが)、自分のウスさを誤魔化す意味もあるんじゃないか?と思えてしまう。一般向けというなら『シネマハスラー』くらいやってほしいものだと思う(でも宇多丸さんは実は唐沢よりもずっと濃い人だ)。唐沢俊一マニア向けでなければ一般向けでもない立ち位置をどう考えればいいのか。どういう層にニーズがあるんだろう。


 次に『私の週間食卓日記』。

 その点「私の週間食卓日記」は、単なる食事日記なんですが、その人の人生観も見えたりするんです。人気文化人はやはり健康にむちゃくちゃ気を使っているとか、映像関係者は逆にどうしようもない粗食であるとか、はたまた「歌舞伎役者は八十いくつでも中華料理やステーキをペロリと食う、だからあんな年齢で子ども産めるんだなあ」とか、いろいろわかっておもしろくてたまらないですね。僕も食べるものについてはウェブ上にずっと書いていますので、それで余計におもしろく読めるのかもしれません。

 「カラシュンの食卓」も面白いもんね。「カラシュンの食卓」のために「裏モノ日記」を一日も早く再開してほしいものだ。


 最後。『向こう三軒ノーフューチャー』。

昔から僕は、科学者の“余技としてのコラム”が好きなんですよ。
(中略)
 花の専門家が花のコラムを書けばそれは専門の文章でありコラムではない。雑文というものは、なんか人生の寄り道みたいなところがあるじゃないですか。
(中略)
 だから本当いうと僕が雑文書きを目指しているのは間違いだったのかもしれないですね。他に専門を持って雑文を書くというスタイルが、いちばん正しい雑文家のあり方かもしれない。

 
 なるほど、確かに唐沢俊一は「専門家」ではない。クスリや古本も別に専門家ではないし。…だから、この人の得意なジャンルは何なのか。

 僕は芸能プロダクションに寄り道していたから、ライターオンリーで飯を食い始めたのは二十八歳の時なんです。ちょっと遅い。当時はとにかく「書く」という仕事を全部知ろうとして、下の下から、駆け足でいろいろな仕事を体験しました。
 AVの新作キャプション書きで、五反田にあった某社の地下室倉庫で一日中ネガを見て熱射病になったりもしたんですけど(後略)

 えーと、唐沢俊一1958年生まれだから、「ライターオンリーで飯を食い始めた」のは1986年ということになるわけで、俺の作った年譜と矛盾するなあ。1986年11月に例の「前説事件」が起こるわけだけど、その時ライターとして飯が食えていたなら札幌に帰らなくてもよかったわけだし。…どうして過去を語るたびに時空が歪むのか

 雑文というのは長すぎたらダメですよね。電車でいえば二駅で読みきれるくらいの量が魅力。短い中で、ピリッとしたものを。しかもコンソメスープのようにいろんな材料をドサッと詰めこんで凝縮させるという、そこが魅力。作家の小説以上に材料が必要なんです。小説なら同じテーマで何回も書くことができますけど、コラムだと二重売り二重原稿になってしまいますんで(笑)。

 …このインタビューの7年後に起こった事件を考えるといろいろ考えさせられるコメント。どうして自分でもダメだとわかっていたのにやっちゃったのかなあ。

 コラムは素材中心でエッセイは主観中心。そう考えると、僕自身はまだコラムニストだと思います。自分の思ったこと自体はまだ商品として出せないような。もっとも、コラムというのは取材能力、時代感覚というものが要求されるから、歳を取るとともにエッセイストになるのかもしれませんが。これは別に退化するわけでもなく落ちぶれるわけでもなく、今度は人間的成長や人生経験で書けるようになるのではと期待はしてるんです。

 じゃあ、唐沢の文章が年々劣化していってるのもある意味「成長」していると考えればいいのか。

 以前、若い文筆業の人を集めて、文章講座みたいなことをやったんです。そのとき思ったんですが、今の二十代以下の人たちって、少なからず、「アナタがいちばん素晴らしい、アナタの考えている事がいちばん」という教育を受けていて、客観を省みずに自分の考えが基準になると信じ込んでいる人がほとんどなんですね。まずその考えを改めさせないといけない。
 一般が考えていることとアナタの考えていることは必ずしもイコールではないんだよ、と。自分の考えを押しつけるんじゃなく、読者がうすうす思っていることを言葉にしてすくい取り、気付かせてあげるのがコラムなんだよ、と。視野が狭くなれば狭いなりに同調は得るでしょうが、そうすると音楽系の人は音楽雑誌だけ、科学系の人は科学雑誌だけになり、さっき言った別の畑の人が書いたエッセイやコラムを読むという僕の楽しみがなくなってしまう。

 2003年当時20代だった身として言わせてもらうが、「アナタがいちばん素晴らしい、アナタの考えている事がいちばん」などという教育を受けたことは全くない。独善的な人間はどの世代にもいる、それだけの話だ。若い人を全否定できればラクなんだろうけどね。それにしても、前の『映画秘宝』批判もそうだけど、この人はマニア向けの雑誌というのをどう考えているのかよくわからない。「僕の楽しみ」を無くしたくないなら『トンデモ都市伝説探偵団』をもっと面白くして欲しい。『ラジオライフ』という雑誌の趣旨にも合ってないわ面白くないわじゃあ存在意義がまるで見出せないよ。

 僕も十三、四年前に弟の唐沢なをきとエッセイマンガを始めたんですが、男のエッセイマンガだと「どこへ行ってこうで私などが入れる世界ではなくてほうほうのていで帰ってきました」となるところを、女の人は「これはつまらん!」と言い切っちゃう。そこが女は強しと感じるゆえんです。
 でもそれを文章で書こうとするのは難しいです。マンガは絵にする時点で客観が入りますが、文章だと本当にただの身辺雑記になってしまう恐れがありますから。

 「女は強し」という話か?とは思うものの、この部分が面白いのは、唐沢俊一の文章より唐沢商会のマンガが優れているということを唐沢本人が無意識のうちに指摘しているからだ。唐沢俊一だけではひとりよがりになってしまうところを、唐沢なをきがツッコミを入れることで客観性を獲得し、おまけにあの可愛らしい絵柄のおかげでずっと読みやすくなるというわけだ。唐沢商会のおかげで唐沢俊一はだいぶトクをしていると思う。


 長くなったので要点を挙げておく。

唐沢俊一伊丹十三の流れをくんでいる(あくまで自称)
筒井康隆の芸風を中途半端にパクる
・執拗な「マニア向け雑誌」批判
・またしても時空が歪む
・「原稿の二重売り」について


 …ともあれ、7年の間にずいぶんと状況が変わったものだと思う。このインタビューの時は、『トリビアの泉』がゴールデンに進出したばかりでイケイケだったんだろうなあ。今になってみるとツッコミどころ満載で楽しく読めるんだけど、ところどころでは痛々しくてツラくなってしまったり。


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