唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

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 今回は『パチスロ必勝ガイドNEO』5月号に掲載されている唐沢俊一のコラム『エンサイスロペディア』第36回北島三郎を取り上げる。

 演歌とパチスロは、ある種とても似た者同士だと思う。ユーロビートだのヒップホップだの、常に時代の最先端を担う音楽が台頭してくる中でも揺るがずその牙城を保っている演歌の姿は、最先端ゲームが次々生み出されていく現代にあって、昔から変わらぬ娯楽の王者として君臨し続けているパチスロを思わせる。

 出だしからずっこける。パチスロの1号機が登場したのは1985年なんだから、パチスロっていうのはそんなに古い娯楽じゃないんだけどなあ。それに毎回毎回「○○とパチスロは合っている」と書く必要はない…、と『エンサイスロペディア』を取り上げるたびに書いているなあ。

 しかし、そんな風に言われる割に実は演歌の歴史というのは古くはない。いや、古くはないどころか、なんと今からたったの47年前、1963(昭和38)年が演歌誕生の年だったという説がある。この年に、それまで大ざっぱに“歌謡曲”といったくくりでまとめられていた歌のうち、独自の音階を持ち、こぶしと呼ばれる歌い方を特徴とする一群の歌を“演歌”と呼ぶという慣習が確立したというのである。

 「古くはない」と言っているのに演歌の起源について説明してくれていない。1963年に誕生したのでなくても古いのだろうか。「演歌=1963年誕生説」についてはウィキペディアを下敷にしたものと思われる。

 そして、その演歌元年の直前、昭和37年に発売され、翌年にかけて大ヒットした歌が、星野哲郎作詞、船村徹作曲の『なみだ船』。それを歌ったのが北島三郎だった。彼を演歌歌手第一号と認定しても文句は出ないと思われる。北島三郎こそ、日本人の本質を、その歌手活動の当初からずっと歌い続けてきた、日本を代表する歌手なのである。

 『エンサイスロペディア』第14回には次のような記述がある。

 私は『よこはま・たそがれ』ヒットの時期に中学校一年生だったが、美空ひばりに代表される当時の演歌が大の苦手で、紅白歌合戦のときも、演歌系の歌手が出てくると自分の部屋に逃げていってしまったものだ。

 美空ひばりが「演歌歌手」なら北島三郎が第一号と言えるのかどうか。

 では、演歌が、いや北島三郎が歌う日本人の本質とは何か。演歌元年とされる1963年という時代を考えてみよう。当時日本は高度経済成長のまっただ中。地方から東京への人口の流入はとどまるところを知らなかった。“集団就職列車”というものが仕立てられ、故郷を離れて東京に出稼ぎに来る若者たちが乗ってきた。その数は63年がまさにピークの頃で、7万8000人に達したという(労働省統計)。彼らの中にはそのまま東京で家庭を持ち、帰らない者も多かった。つまり高度経済成長期というのは、言葉を変えれば故郷喪失者を大量に産んだ時代であると言える。自らも北海道から単身上京し、その生まれ故郷から北島という名前という名前を恩師の船村徹より与えられた北島三郎が、そういう故郷喪失者の切ない気持ちを歌にしたとき、人の心を打つものが出来るのは当然だろう。『なみだ船』は、ニシン漁に従事する流れ者の漁師であるヤン衆の寂しさを歌った歌だし、永六輔作詞の『帰ろかな』はまさにそういう故郷への思いを歌った歌である。そう、演歌が歌う日本人の心の原点とは、都会から、はるか遠いふるさとの山川を思い浮かべて歌う悲しい故郷喪失者の心のつぶやき、なのであった。雪国、日本海、駅、別れと言ったキーワードが演歌に多いのは東京への出稼ぎ者の多くが北国出身者だったからである。

 いや、全ての日本人が上京してそのまま暮らすわけじゃないから。東京で生まれ育った人もいれば故郷でずっと暮らす人もいる。なのに「日本人の本質/原点」とか言われても。北国出身の唐沢俊一は演歌にグッとくるのかもしれないけどね。それから、集団就職をテーマにしたヒット曲といえば井沢八郎ああ上野駅』なのだが、あれは演歌なのだろうか?と少し疑問に感じる。

 そして、演歌は「故郷喪失者のつぶやき」というテーマに限定されるものではないし、北島三郎の初期のヒット曲である兄弟仁義は「故郷喪失者の心のつぶやき」とは言えないだろう。…どうも自分の話に都合のいい曲だけを抜き出しているような。

 だが、北島三郎の演歌は、単に故郷を懐かしむばかりではない。彼の代表作とされる『函館の女』は、(おそらく)東京での暮しに破れ、待つ者もない北の故郷に帰った恋人に会いたさのあまり、波頭を乗り越えて会いに行ってしまう男の物語である。もちろん、そこでついに巡り合うことは出来なかったという悲劇なのだが、サブちゃんの歌唱はあくまでバイタリティにあふれ、悲劇を悲劇と感じさせない明るさを持っていた。演歌は高度経済成長へのアンチテーゼではなく、応援歌であったのだ。

 「社団法人日本埋立浚渫協会」のサイト星野哲郎が『函館の女』について語っている。

「(函館の女は)最初、東京へ出てくる歌だった。でもディレクターの言葉で函館に変えた。函館は日魯漁業の本拠地で、船員時代の土地勘があった」

 …じゃあ、やっぱり演歌が「故郷喪失者の心のつぶやき」と限定されるわけではないんじゃ。で、面白かったのはこの話。

「『逢いたくて〜』のあとのフレーズが決まらなくて。悩むうちにオシッコに行きたくてたまらなくなっちゃった。で、トイレに行って『これだ!』と思いました。『と〜ても我慢が〜できなかったよ〜』とね」

 雑学のスペシャリストだと思われているんだから、こういうネタを書かなくちゃ。

そう言えば、彼は三菱ボールペンや永谷園の鮭茶漬など、高度経済成長期のシンボルみたいなCMソングも多く歌っていた。

 永谷園の『さけ茶づけ』が発売されたのは1970年。一応高度経済成長期に含まれているけどかなり末期なので「シンボル」とまでは言えないような。だいたい、高度経済成長期以降に生まれた自分だって北島三郎が出演した永谷園のCMを見ていたのだから、わざわざ高度経済成長にこだわらなくてもいいのになあ、と思う。

 パチンコ・パチスロファンの年配者には、この時代の記憶を残している人も多いだろう。当時の出稼ぎ者にとり、パーラーで遊ぶことは気軽な数少ない娯楽のひとつだった。今、パチスロの画面中に歌う北島サブちゃんの姿に、悲しくも活気のあったあの時代を偲んでみるのも一興だろう。

 ほとんどの年配者は高度経済成長期のことをちゃんと覚えていると思うのだが…。あとは、パチンコとパチスロの区別がついているのかどうか気になるし、唐沢俊一にとって高度経済成長期とは「悲しくも活気があった」のか、などと考えてしまった。『昭和ニッポン怪人伝』(大和書房)P.220ではこんな風に書いていたんだけど。

高度経済成長期を調べれば調べるほど、当時の社会全体が、まるで覚醒剤を服用したかのようにハイで、常軌を逸した行動も平気で行われていることに呆れ、驚かざるを得ない。何か日本中が、
「自分たちにはできないことはない」
という万能感に支配され、浮かれまくっていたかのような感じである。

 だいぶ違うなあ。


 …とりあえず、「演歌は日本人の本質」とかベタな話をするので驚いてしまった。この人ってこーゆー芸風だったっけなあ。それ以前に演歌が嫌いな日本人だっているはずなのだが…。個人的には「ユーロビート」という言葉が出てきたのが面白かったけどね。「唐沢俊一」と「ユーロビート」という取り合わせが妙にツボ。


替え唄メドレー

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函館の女

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あゝ上野駅/石北峠

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