唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

イッツ・ノット・暗喩ージュアル。

唐沢俊一P&Gなんてよくあることさ。


 今回は、唐沢俊一編著『なぜわれわれは怪獣に官能を感じるのか』(河出書房新社)より、唐沢の論文『暗喩文化としての怪獣・特撮』を取り上げる。P.14より。

 原始、女性は太陽であった。
 平塚らいてうはこう言ったが、私もこう言いたい。
 原始の怪獣、アンギラスは女性であった、と。
 いや、実際にあの怪獣が生物学的なメスがどうか、という問題でなく、その存在が、女性原理によるイメージだ、ということである。立ち姿のゴジラに対し、膝をついてよつん這いのスタイルが女性を思わせるというのだろう、と、意地の悪い(カンのいい)読者は言うかもしれない。

 平塚らいてうの自伝は『元始、女性は太陽であった』なのだが、それよりもなによりも、「膝をついてよつん這いのスタイルが女性を思わせる」という理屈がさっぱりわからない。後背位をイメージしているのかもしれないが、ウルトラシリーズから例に出すとローランとかユニタングとかは「女性を思わせる」怪獣(超獣)だけど二本足だ(フェミゴンも入れていいかな)。あと、唐沢俊一の理論ならグビラはどうなるんだろう。「女性的」な四足かつ「男性的」なドリルがくっついているんだけど。意地の悪い(カンのいい)方に解説していただきたいところ。まあ、アンギラスを見て後背位を連想すること自体ちょっと信じられないし、実際に(?)後背位でするとしてもあのトゲトゲした甲羅は邪魔にならないか?とか考えてしまう。夏コミで「ゴジラ×アンギラス」本を探してみようかな。ボーイズラブというかビーストラブ。

 P.15より。

 ゴジラの逆襲』が公開されたとき、その宣伝の一環として、お座敷ソング「ゴジラさん」が発売されたことは濃い怪獣マニアなら既にご存じのことと思う。そのレコードのB面に入っていたのが、野沢一馬と青木はるみによる「うちのアンギラス」という掛け合いソングであった。これは、新婚夫婦がお互いのことをゴジラアンギラスと呼び合っているノロケ歌で、三番の歌詞が
「♪呼んで呼ばれてにっこりと、かわす笑顔の放射能
 というトンデモないものであるのだが、ここではアンギラスが夫の方である。とはいえ、常に奥さんにアンギラス扱いされて頭が上がらず、
「怖かないわよアンギラス
 となめられている、という情けない状況の亭主の歌であって、基本的には男女の立場の逆転を唄ったコミック・ソングであった。通常のイメージで言うなら、アンギラスはやはり女性、なのである。

 この部分を読んだ時は呆然としてしまった。本にする前に誰か突っ込めよ、と思ったものの、肝心の編著者が唐沢俊一だからチェックできなかったのかもしれない。
 『うちのアンギラス』の歌詞では夫がアンギラス、妻がゴジラにそれぞれたとえられている。思うに、怖い奥さんのことを「山の神」と呼ぶのと同じ発想で、奥さんのことを「ゴジラ」にたとえ、そこから旦那さんを「アンギラス」と呼ぶことにしたのではないか。「奥さんに頭の上がらない亭主」というのは今も昔も当たり前のようにある話なのだから、唐沢俊一のいうような「男女の立場の逆転」がテーマなのかはきわめて疑わしい。
 ともあれ、『うちのアンギラス』は唐沢俊一の唱えている「アンギラス=女性的」という考えに反するものであることには間違いない。で、自分がどうして驚いたのかというと、唐沢俊一は「通常のイメージで言うなら」と書いているのに、「通常のイメージ」について全く説明していないのだ。前に挙げている「四つん這い=女性的」というのは唐沢個人の思い込みに過ぎないし、「アンギラス=女性的」というイメージが世間一般に存在するのかどうかもわからない。それどころか「アンギラス=女性的」という考えを証明しようとして「アンギラス≠女性的」としている『うちのアンギラス』だけを持ち出しているのがまったく理解できない。無罪を立証しようとして有罪を立証する証拠を持ち出してきたかのようなチグハグさだ。


P.15〜16より。

そう言えば、彼女がゴジラと二人(?)きりの生活を営んでいた島の名は、岩戸島という設定だった。岩戸といえば連想されるのが天照大神、そして弁財天という女性神である。大阪府八尾市にある岩戸神社には俗に岩窟弁財天(窟弁天)と称される極彩色の女神像が祀られている。神社の由来には、もともと天照大神高座神社がこの地には鎮座していたが、奇岩怪岩が累々と積み重なるこの山中の形状から、あなぐら(女陰)への民間の信仰の形として、弁財天への信仰と形を変えたのであろうとしてある。映画製作者が、アンギラスの住処としての島に、岩戸の名を冠したのも、単なる偶然とはいえ、心理的な裏を読めば、興味深い事実がそこにはある。

 ここでは弁財天を持ち出しているのが全くの蛇足。岩戸島とからめて天岩戸の話をするなら、アンギラス天照大神ゴジラスサノオとすれば(正しいかどうかはさておき)話はずっとスムーズに流れたはずなのに、どうして弁天様の話をしているのか謎。アマテラス=弁天様というのも別に一般的な考え方ではないようだし、「興味深い事実」ってそれは「事実」というより単なる妄想だろう。


 P.16〜17より。

 岩戸島で、ゴジラと仲睦まじい(人間の目から見れば恐ろしい決闘と思えたかもしれないが、怪獣同士にとってはあれは痴話ゲンカだったのだ)毎日を送っていたアンギラスだったが、ある日彼(ゴジラ)は彼女を捨てて、都会へと出ていってしまう。男はいつだって、女を残して故郷を捨てるのである。
 そして、いつか男性は帰るのを忘れ、都会のネオンの灯のトリコになってしまう(この映画ではゴジラが光に対して敏感な反応を示すことを繰り返し強調している)。木綿のハンカチーフすら送ってこないゴジラにたまりかねた女性(アンギラス)はゴジラを追って、同じく都会へと出ていく。そして、都会の闇の中に耽溺している男を見つけ、一緒に帰ることを迫るのだが、男はもう、そのような言葉も聞かばこそ、女を邪険に扱い、怒った女は涙と共に男を責めるが、それをうるさく思った男は無惨にも、昔なじみの女を殺害してしまうのである。
 ゴジラものの対決での最終兵器と言えば、放射能光線であると相場が決まっているようなイメージがあるが、ここでゴジラは、アンギラスの細い(あのような巨体の怪獣とは思えぬほどに、華奢で女性的な首筋である)にその鋭い歯で噛みつき、命を奪っている。ゴジラの野太い咆哮に対して、アンギラスの鳴き声はどこか線が細いのだが、あの、断末魔の悲鳴は、まさに自分を捨てた男を、そして男を自分から奪った都会を呪う、うらみの声に聞こえた。
 あの映画が裏のテーマとして持っていたのは、実はこの映画が公開された昭和二〇年代末に、日本人の若者の多くが体験した、田舎と都会の間でひきさかれる、男女のドロドロとした性愛の物語だったのである。
 ……と、いうような見方を、怪獣映画に対してするという行為は、異端であろうが、果たして許されない見方であろうか?

 許されないこともないんだろうけど、文章を書く前にまず活字にすべき話か否か考えてからやってほしい。飲み会で同じ話をされたら、
ゴジラアンギラス、岩戸島で一緒に海に落ちてるじゃないッスか」
アンギラスも光に誘われて大阪に上陸してますよ」
アンギラスの首、そんなに細くないッスよ」(下の動画を参照)

とか気軽に突っ込めるんだけど。…いや、シラフでは多少つらいけど、酔っ払って聞く分にはなかなか楽しいお話だと思いますよ。あと、『ゴジラの逆襲』が公開されたのは昭和30年

 P.17より。

 今、敢えてイメージが混乱することをねらい、昭和二八年の映画『ゴジラの逆襲』を例にあげた。この時代の怪獣映画には、よほど目をこらして探さない限り、性への暗喩は見出しにくい。しかし、それから七年後に製作された、『キングコング対ゴジラ』における、性の描き方は、子供心にも大胆であった。

 いや、だから『ゴジラの逆襲』は昭和30年公開だってば。これも「敢えてイメージが混乱することをねら」ったのか? 『ゴジラの逆襲』の7年後に『キングコング対ゴジラ』が作られたのは合っているのに。

 P.18より。

精通はおろか、勃起すらまだ経験したことのない小学二年生でありながら、この映画は佐原健二が、自分よりはるかに巨大な、ゴジラキングコングというライバルから、恋人を取り戻す話だったんだな、ということはちゃんと認識していた。急行列車の中からゴジラに、国会議事堂の上でキングコングにねらわれる浜美枝は、後にお相手をつとめる007よりはるかに巨大なオトコどもを相手にしていたのである。だからこの映画は、佐原健二が彼女をキングコングから取り戻す、あのシーン以降はストーリィらしいストーリィはなくなってしまう。後に残るのは、ふられオトコ同士の、やけのやんぱち的なドツキあいであり、熱海城を徹底的にぶち壊すあのガキっぽい二大怪獣の争いが、結局は勝負つかずのドローに終わるのも、結局、女がいなくなってみれば、この二匹には別に相争う理由などないからであった。

 キングコングはともかくゴジラ浜美枝をねらっていないんじゃないかなあ。ゴジラキングコングが最初に那須高原で戦ったとき、浜美枝はそこにいなかったし、2回目の対決は人間が同士討ちを狙って2匹を対決させたわけなんだけど。「この二匹には別に相争う理由などない」からドローになったって説明になっていないような。


 この後、昭和40年代のヒット曲には性的な意味合いを持つものが多い、という話になる。『伊勢佐木町ブルース』→『愛して愛して愛しちゃったのよ』という風に、年代順になっていないのが若干気になる。

 P.21より。

 歌詞というものが、実はかなり大胆なことを間接的に表しているのだ、と知ったのは中学生になってからの昭和四六年、野口五郎の「青いリンゴ」を聞いたときであったと思う。当時放送部に所属していた私は、放送劇の台本のセリフに
「死ぬ前に青いリンゴの芯をしゃぶりたかった」
と、これは確信犯的に書き、顧問の女性教師が検閲でそこをカットして、顔を赤らめながら
「まだキミたちにはわからないだろうけど、この歌詞には裏の意味があって……」
と言うのを、ニヤニヤ笑いながらながめていた。

 中学1年生の唐沢俊一が「青いリンゴ」に込めた意味合いについてはdiscussaoさんのブログを参照してほしいが、『青いリンゴ』の中の「青いリンゴ」というフレーズに性的な意味合いはあまりないと思うのだが。

 
 P.21〜22より。

 話を歌謡曲から転じれば、永井豪の『ハレンチ学園』が少年ジャンプに連載されて、満天下の親たちのゴウゴウたる非難を浴びるのは右記の「ゆうべの秘密」が歌われた昭和四三年である。テレビのモーニングショーで、作者が鬼のような顔をしたPTAの父母に取り囲まれ、吊し上げを食っている様子を見て、私は“子供のため”という看板を背負ったオトナの表情の醜さも知ったし、また一方で、あれだけモラルへの大胆な挑戦を作品中で行っていた永井豪が、ただうつむいて“時代が違いますから……”とだけしか返答できないのを見て、理論武装するだけの教養基盤を持たない創作者はダメだな、というような生意気な感想を抱いたものだった。私だけがマセていたのではない。大学紛争というようなものが日常化し、あちこちで革命論争が行われていた時代の空気は、子供たちをすら必然的に、頭デッカチにしていっていたのである。

 昭和43年といえば、唐沢俊一10歳である。…10歳の少年がワイドショーを見てそんなことを考えるか? いくら「頭デッカチ」といってもさあ。…しかし、そんなことを考えていた少年が40年後にクイズ番組に出て、簡単な計算問題に答えられず「す、すみません」としか言えない有様だったことを考えると、確かに理論武装するだけの教養基盤を持たない創作者はダメ」なのだろうね(詳しくは2009年6月28日の記事を参照)。


 P.22〜23より。

「豪ちゃんは才能あるマンガ家だけど、ああいう作品は好きじゃない」
 と、彼にギャグの帝王の座を奪われた赤塚不二雄(原文ママ)が負け惜しみのようなことを言いながら、自分も時代に迎合したかのような、ストリッパーとそのヒモが主人公のマンガ『鬼警部』を描いたのは、その三年後、西暦も七〇年代へと変わった昭和四六年であった。この年には、あの“マンガの神様”手塚治虫が、“ハレンチから性教育へ”と称した作品『やけっぱちのマリア』を発表して、福岡だかどこだかの児童福祉審議会から有害図書に指定されていたが、これは読んでみても、医学教育マンガをヘンに通俗化させただけの、つまらぬ作品に過ぎなかった。こういう“正しい教育”へのアンチテーゼとして『ハレンチ学園』はあったのだ。そういう意味で、これもまた隔靴掻痒でしかなかった。

 …やっぱり唐沢俊一の中で「本1冊につき1回は必ず手塚治虫を批判する」というルールがあるんじゃないかなあ。もしくは「老婆にボタンをちぎられる系」の呪いをかけられているとか「手塚を批判しないとお前の帽子が大変なことに…」と脅されているとか。ここまで執拗だとそんな風に考えないと説明がつかない。なお、『鬼警部』と『やけっぱちのマリア』はともに1970年に発表されているので、唐沢の文章は間違っている。
 
 で、『鬼警部』の性的な描写を「あまりにヒネリがなさすぎる」と批判した後でこのように書いている。P.23〜24より。

 私はこの作品の載った『別冊少年サンデー』を、弟の入院していた病院のロビーで、憂鬱な気持ちで読んでいた。弟は盲腸で緊急入院し、私はつきそいを命じられたのだった。夜になり、迎えに来た母親が、
「怖いわ」
 と言い、私は何のことかわからなかった。
「テレビを見てごらんなさい。三島由紀夫が、自衛隊で割腹自殺したんですって」
 ……うちの弟と三島は、同年同月同日に腹を切ったわけであるが、まあそんなことはどうでもいい。

 『鬼警部』は別冊少年マガジン1970年12月号に掲載されたので間違い。なお、唐沢俊一は弟(唐沢なをき)の盲腸ネタをくりかえし書いているが、「裏モノ日記」2003年2月2日では次のように書いている。

ちなみに私は70年代になった頃、70年代が嫌いで嫌いで仕方がなかった。忘れもしない1970年11月25日、なをきが盲腸で入院した病院のロビーで月刊少年マガジンを読んでいた小学校5年生の私は、その誌上で、赤塚不二夫の、妙に“時代に迎合したような”ギャグ漫画『鬼警部』、池上遼一の、妙に“現代的に屈折した”ヒーローもの『スパイダーマン』を読んで、
「ああ、60年代はよかったなあ」
 とため息をついたものだった。笑いも、正義も、単純さを失い、混沌の中に溶け込んでパワーを失ってしまう、そんな時代がやってきたことを、12歳にして早くも悟り、これからは懐古の中に生きていくんだな、自分は、とぼんやり考えていたものであった。そのとき、二階の病室から降りてきた母が、一緒に帰りましょう、一人だと怖いわ、と言った。その病院は私たちの家から歩いて三分の場所だったのだから、いくら夜道だって怖いことはないよと言うと、母は眉をひそめて、
「だって、テレビのニュースを見てごらんなさい。三島由紀夫が割腹自殺したのよ」
 と答えた。……うちの弟と三島由紀夫は、同じ日に腹を切ったのであった。自分でというのと、第三者によって、という違いはあったが。

 …えーと、12歳の時から「昔はよかった」と言ってる人には何を言っても仕方がない気がする。さらに、『昭和ニッポン怪人伝』でもこの話は出てくるが、なぜか「小学校5年生」の時の話にしてしまっている(詳しくは2009年5月25日の記事を参照)。…そういえば、『なぜわれわれは怪獣に官能を感じるのか』に唐沢なをきが参加していないのは何故だろう。

 
 その後、唐沢少年が三島の小説『憂国』を読んだ時の話になる。P.24より。

 そして、驚いた。その作品の中の思想であるとか、悲壮美とかにではない。その作品には、切腹する青年将校とその妻との、死の前の濃厚極まる情交シーンが描かれていた。それは、それまでにマセガキであった私が盗み読みしていたポルノマンガなどより、よほど直截的な性描写であった。

 しかし、唐沢俊一は小学校時代から性の知識に詳しかったとたびたび語っているから、そんな少年が『憂国』のベッドシーンにショックを受けるものだろうか(詳しくは「トンデモない一行知識の世界」を参照)。


 P.25より。

ああ、思えば思えば「黒猫のタンゴ」なんて歌を六歳のガキに無邪気に歌わせるなどというニンチクショウなことを歌謡界はやっていたのであった(鰺の干物というのが何の暗喩だと思う?)。

 「ニンチクショウ」というのは「人畜生」らしいが、「黒猫のタンゴ」は正確には『黒ネコのタンゴ』。…で、『黒ネコのタンゴ』の中に出てくる「鰺の干物」に卑猥な意味があると言いたいらしいけど…これも飲み会向きの与太話だよなあ。『レザボア・ドッグス』の『ライク・ア・ヴァージン』の話っぽい。


 P.26より。

怪獣映画は正月か夏休み(お盆)にしか公開されない、いわば“ハレ”の映画であったが、それを一気に日常、“ケ”の世界に引きずり出し、一躍大ブームを巻き起こしたのは、昭和四二年の『ウルトラマン』であった。

 『ウルトラマン』の放映開始は1966年7月

 
 P.26〜27より。

 われわれは、オトナたちが馬鹿にして、
「どうしてウルトラマンは、最初からスペシウム光線を出してしまわないんだい? あんな、怪獣を一発でやっつけてしまう武器を持っているのに、こっちがピンチになって、ギリギリの最後まで使わないのはおかしいじゃないか」
 とこちらをからかうのに、せいぜい
「じゃあ、水戸黄門はどうして最後まで印籠を出してみせないの?」
 という程度の切り返ししか出来なかったが、もし、もっとずっとマセていたならば、こう口答えしたことだろう。
「ならお父さんは、お母さんに前戯もなしに、いきなり突っ込んで射精するの?」
と。

 子供が親に向かってそんなことを言ったら100%ビンタだろう。当方は30代になっても、親の前で「前戯」とか「射精」とかとても言えないけど、世間一般ではそういうこともないんだろうか。

 P.27より。

怪獣とウルトラマンのじゃれあいのようなドタバタは、最後のスペシウム光線を発射する、あの興奮感を出来るだけ高めるための、前段階であった。スペシウムという単語が、スペルマという単語から来ていることは、ほぼ確実だろう(制作者は絶対認めないだろうが)。あの発射は、クライマックス、最後の射精の快感のアナロジーである。よく見れば、スペシウム光線の表現は、非常に細かい光の粒子の噴出である。あれが、ザーメンの中に含まれる、何億というスペルマの比喩でなくてなんであろう。

 ポカーン。
 …いや、「スペシウム」は「スペース」+「ium」なんじゃないの? スペルマから来ているんなら「スペルミウム」になるはずであって。東大の講義で一緒だった中野稔さんに「スペシウム=精子」説を聞いてみればいいと思うよ。
 …っていうか、「スペシウム=精子」説をやるにしても「シルバーヨード」について触れていないのが謎。ウルトラマンには口から「シルバーヨード」という液体を発射するという没設定があるんだから、それを利用しない手はないと思うんだけど。…もしかして知らないのかなあ。

 
 P.27より。

しかし、まだ本当の女性の美しさというものに目覚めないオトコの子にとり、銭湯などでときどき間近に目にする、“女性”の形状は、あれは異形の恐怖、自分たちとは異なる形質を持った者に対する本能的な恐怖に根ざしたもの以外の、何物でもないのである。

 いや、たとえ銭湯でも「“女性”の形状」は簡単に見えないと思うのだけど。よほどのラッキースケベじゃないと。
 

 P.27〜28より。

 初代ウルトラマンの中でも殊に印象深いエピソードが、真珠を食べる怪獣ガマクジラの回である。宝石に詳しい人に聞いていればわかるが、真珠は処女性のシンボルである。その処女を、われらが怪獣ガマクジラは、長い舌でべろべろと舐め回すようにして食べてしまう。そして、深夜、月の光の下で、バリ、バリという音と共に、胃袋の中で真珠をスリ潰すのである。もはやこうなると、隠喩というにもあまりにもあからさまな感じさえする。

 この理屈で行くならなんでもエロく解釈できるんじゃないかなあ。『ウルトラマン』全話この調子でやってほしいものだが。…俺も「カラサワマン」全39話やろうかなあ(不評覚悟で)。


 P.28より。

 映画の方では昭和四〇年代に入り、ゴジラと入れ替わる形で人気を博していったのが大映ガメラシリーズであった。このシリーズは、ゴジラとのぶつかりあいを避けるために、春休み公開ということで、それまでのゴジラにあったハレの映画という性格がだいぶ薄まっていたが、少なくとも最初の二本、さらにシリーズ最高傑作とされる『大怪獣空中戦・ガメラ対ギャオス』(昭和四三年)までは、ゴジラ映画と同じく、ガメラ(男性原理)、敵怪獣(女性原理)という色分けができていたと思う。バルゴンはアンギラス以来の女性的怪獣の特長である四つ足造型であったし、雨の日は行動できない、という弱点もまた、女性のメンスを連想させる粘膜的な表現であった。

 ガメラも四つ足だから唐沢俊一理論から見ると女性的なのでは。あと、バルゴンの弱点は気圧の変動に弱い唐沢俊一に似ている。検証している人間を虹色光線で破壊するのか?


 P.28より。

 ところが、もともと“子供好き”という女性的な性格を付与されていたガメラは(カメのくせに)、その後の、いささか乱作的に作られていった作品でどんどんヒーローらしからぬ女性的な存在になっていく。

 いや、だから、ガメラは四つ足だからそもそも女性的な存在だった、としておけばいいのに。「子供好き=女性的」というのもどうかな。

 
 P.29より。ウルトラセブンが痛めつけられるシーンで興奮した人がいたという話。

フロイト的に言えば(最近は流行らないらしいが)肛門期にあたる年代のわれわれが、レイプされる側に心的同情を示しても、それは自然なことと言えよう。

 ウルトラセブンが痛めつけられるシーンで興奮した人は実際多かったらしいが、肛門期というのは3歳くらいまでの時期を指すらしいので、ちょっと早くはないか?と思う。肛門期だから「レイプされる側に心的同情を示」すというのもよくわからない。


 P.30より。

 精神科医斎藤環氏などは、オタク世代の性のイメージの依って来るところを、アニメの中に描かれた美少女により培われたものとして考察している(『戦闘美少女の精神分析』による)が、しかし、本来、オタクの根元には、アニメより先に特撮というものがあった。アニメでは直截に絵として描かれる性というものが、実写映画では、それをさらに数層倍のイメージの奥底に塗り込めなければならない。オタクの世界では“特撮三倍段”という言葉があるのも、特撮ファンは、その自らの中の性に対する欲望を、より屈折した形で読み取り、享受する能力が、特異に発達した人々だからなのである。それは、昭和四〇年代暗喩文化が育てたものと言えよう。オタクは時代の子であり、時代と共に変化していく。第一世代オタクがそれ以降のオタクと異なっているのは、育てられた作品の質と差によるものなのである。

 特撮オタクが他のオタクよりも「思い込み」が強いという説のおかしさについては過去に指摘した。


 P.30より。

 お色気、というものが直に子供向けドラマに描かれるのは、昭和も五〇年に入ってから、変身ものはじめての女性ヒーローである『秘密戦隊ゴレンジャー』の、モモレンジャーまで待たねばならない。

 …あれ? 変身ヒロインといえばビジンダーの方が先じゃね? と思っていたら、後の方で何やら言い訳している。P.31より。

 それは、それに先立つ昭和四八年の『キカイダー01』で、女性らしさを強調したロボット“ビジンダー”を登場させて失敗していた(この番組は子供番組にしては遅い時間帯の夜八時からの放送ということもあり、仮面ライダーシリーズに比べて色っぽい設定も多かったが、結局それがイメージの暗さにもつながってしまい、高視聴率はとれずに終わった)平山(引用者註 亨)にとり、難しいポイントであったと思う。

 そう! ビジンダーといえば第3ボタンを外すと水爆が起動するという「色っぽい設定」について語らないと。なんてったって志穂美悦子だしね。あと、第21話『吸血の館 美人女子寮の恐怖!!』という若い女の子の生き血を集めてロボットを作ろうとする(深く考えないように)エピソードもある。…でも、『01』は別に「暗い」イメージはないけどなあ。それを言うなら『人造人間キカイダー』の終盤なんかかなりハードな展開だったし。むしろ『01』は予算不足が問題だったような気がする。ワルダーが死ぬ回なんか顔を白塗りにした素浪人が敵だったもんなあ(今見ると底抜けで凄く楽しい)。それから、裏番組が『8時だョ!全員集合』だったことも考慮すべき。…まあ、こんな具合に語りだすと長くなってしまうのだが、要するにビジンダーよりモモレンジャーを特別視する意味がよくわからない、という話だ。…今思い出したけど、『流星人間ゾーン』のゾーンエンジェルもモモレンジャーより早いな。


 P.32より。

 それ以来、たとえ子供向け特撮ヒーローものの中であっても、性はもっとストレートな形で見るものの意識の中に飛び込んでくるようになった。お色気が時にはヒーロー人気を上回るようなこともあった(『宇宙刑事シャイダー』における主人公のアシスタント、ハニー役の森永奈緒美人気、『忍風戦隊ハリケンジャー』における敵の幹部フラビージョを演じた山本梓人気など)。

 「アニー」な。まーた、考えられないミスをするなあ。個人的にはウェンディーヌ派。


 そして、性を間接的に描いていたかつての特撮とそのファンのありかたについて考察すべきではないか、と提唱して文章は終わる。


 以上! 長くなってしまって申し訳ない。
 細かいミスが多いこともさることながら、自分勝手なイメージで話を進めているのが多くて困った。「四つ足の怪獣は女性的」とか「スペシウム光線精子」とか言われてもなあ。はっきり言って納得できない。とりあえず、特撮についての与太話は飲み会でやってほしい。本にするよりはずっと地球に優しいしね。メールをくれれば俺が相手してもいいですよ。


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