唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

唐沢俊一の「朝日新聞」書評について。

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・初めての方は「唐沢俊一まとめwiki」「唐沢俊一P&G博覧会」をごらんになることをおすすめします。


 町山智浩さん唐沢俊一の『ライ麦畑でつかまえて』紹介文のデタラメさについて書かれている。もしかすると、サリンジャーが亡くなったので、例によって「裏モノ日記」で適当な追悼文を書かないように牽制しているのかもしれない。俺個人としては「当方に迎撃の用意あり!」って感じですが。ああいう紹介文を書いておいて、どういう風に追悼するのかとても気になる。
 いい機会なのでスクラップ帳を開いて久々に『唐沢俊一が選ぶアブナイ奇書』を読んでみたけど、何度見てみても「ジョン・サリンジャーだ。あと、芥川龍之介が「妻子ある女性」と不倫しているのも、21世紀が2000年から始まっているのもやっぱりそのままだ(詳しくは2008年10月11日の記事を参照)。残念ながらあの惨劇は幻ではなく現実なのであった。
 それにしても、今回はtwitterの威力を見せ付けられた思いだ。とにかく反響がものすごい。佐々木俊尚氏にも

ロストジェネレーションが1950年代って、ものを知らなさすぎると思う

って言われちゃってるし。「ものを知らなさすぎる」というのは唐沢俊一が一番言われたくないことだろうなあ。ついでに書いておくと、上に挙げた当ブログのエントリーの中で唐沢俊一今までの人生で10万冊もの本を読破したと『ビジネスマンの強化書』で紹介されていた件を疑問視していたら、やみびかりさんから

一日10冊を30年。そこだけは不可能ではないw

とのご指摘がありました。確かに速読が出来るのなら可能なのかもしれないけど、唐沢俊一は『博覧強記の仕事術』で速読に対して否定的なことを書いていた(詳しくは2009年6月29日の記事を参照)ので、おそらく速読はできないのではないかと。

ものを書こうとか、研究しようとしたときに、読まねばならぬ資料は呆れるほど多い。早く読もうとして、飛ばし読みをしたり速読をマスターしたりする人もいるが、寡聞にして、速読によってものすごい読書量が増えたという人を聞いたことがない。もちろん速読をマスターすることは悪いことではないのだろうが、それによって実は読書量は増えたりしないものだ。
 その理由は簡単で、いくら目が速く文字を追っても、脳の方がついて行かないのである。大事なのは速さよりも「集中の度合い」なのである。
 その点、立ち読みは非常に集中して読め、しかもさまざまな本を拾い読みできる。自宅の環境がよほど恵まれている人を除けば、書店は自宅の書斎よりもはるかに「蔵書」数が多く、しかも多彩で、きちんと整理されている。そして図書館よりも新しい話題の本がある。

 速読より立ち読みの方が優れているというのも凄いな。


 さて、町山さんは、唐沢俊一を「朝日新聞」の書評委員に推薦した木元俊宏植木不等式)氏の責任を問われている。なお、唐沢を手塚治虫文化賞」の選考委員(現在は外れている)に推薦したのも木元氏で、さらに木元氏は伊藤剛さんに仕事を発注する代わりに唐沢俊一に謝罪するように言ったこともあるらしい2009年11月15日の記事のコメント欄を参照)。よく言えば友情に篤く、悪く言えば公私混同も甚だしいというところか。唐沢俊一山本弘会長から処分されそうになったときも擁護していたし(詳しくは2009年8月9日の記事を参照)。
 ただ、たとえ木元氏が友情から唐沢を書評委員に推薦したとしても、唐沢が素晴らしい書評を書いていれば、結果オーライということでまだ大目に見られたかもしれない。しかし、実際問題として、唐沢が手がけた書評には『唐沢俊一が選ぶアブナイ奇書』ほどではないにせよ、いくつもの問題があるのだった。以下そのうちのいくつかを紹介していく。

(1)アフリカという国
 「朝日新聞」2008年6月15日の書評唐沢俊一は次のようなことを書いている。

抑制のきいた描写がいい文章の条件、と教えられてきた日本人にはやや辟易(へきえき)する語り口(翻訳もその原文の混乱をよく伝えた実に読みにくい名訳だ)だが、読み進んでいくうちに、その迷彩的文体こそが、アフリカという国をまるごとそのままに描く、最適の文体なのだということに気づかされる。

 「アフリカという国」って、サラ・ペイリンみたいだな(町山さんのブログを参照)。こういうミスをしているのに文体についてあれこれ言っているのが滑稽。

(2)先見の明を誇ろうとして失敗
 2008年12月14日の書評ではウディ・アレン『ただひたすらのアナーキー』を取り上げているのだが、ここでもヘンなことを書いている。

20代半ばの頃、『羽根むしられて』『これでおあいこ』『ぼくの副作用』といった傑作群に出会い、その才知と文体に驚き、映画人として日本でもようやく認められかけていたウディ・アレンに惚(ほ)れ込んだ者として、27年ぶりに彼の新作が読めるのは、喜びと共に、まさに初恋の人のイメージが崩れはしないかという不安とが相半ばする、複雑な心境だった。

 ウディ・アレンが映画人として認められていたからこそ、小説も日本に入ってきたと考えるのが自然だし、事実、ウディ・アレンの短編集が日本で初めて出版された1981年以前に、ウディ・アレンの作品は『キネマ旬報』のベストテンの常連になっていたのである(詳しくは2008年12月16日の記事を参照)。

(3)意味不明な自主規制
 2008年8月31日の書評では、デヴィッド・マドセン『カニバリストの告白』を取り上げているが、唐沢俊一はどういうわけか書評の中でこの小説が人肉嗜好をテーマにしていることについて一言も触れていない。このことについて唐沢は、「裏モノ日記」2009年3月18日の中で、

それからカニバリズム小説なのに、朝日の規定で“人肉食”という言葉が
使えず悲鳴をあげながら書いた『カニバリストの食卓』
http://book.asahi.com/review/TKY200809020153.html
といったあたりか。『カニバリスト〜』は書評委員の間で
「他紙にも書評が載ったけど、唐沢さんのが一番面白かった」
と言われてホッとしたものである。

と書いていたが、朝日新聞」の紙面では「人肉食」という言葉は普通に使われている(詳しくは2009年10月27日の記事を参照)。そもそも『カニバリストの告白』というタイトルを見れば本の内容はすぐにわかってしまうのだから、言葉を規制する意味なんてないのに。

(4)本のまえがきやオビに書かれていたことをそのまま書いている
 まず、2007年5月27日のジョナサン・カーシュ『聖なる妄想の歴史』の書評の中で、前書きに書かれていることをそのまま書いている(詳しくは2009年2月23日の記事を参照)。それから、2009年1月25日の吉田広明『B級ノワール論』では、『B級ノワール論』のオビにある蓮實重彦の推薦の言葉と同じ内容を書いている(詳しくは2009年2月3日の記事を参照)。普通に本を読んでいればわかることを、わざわざ書評で書いてどうするのか、と思わざるを得ない。

 …その他細かい点を指摘していくとキリがないけれど、書評全般を通して言えば「本に関係のない記述が多い」(しかも面白くない)というのも気になる。あとは「書評委員会でもらった本の内容を他の雑誌で紹介する」(いいのかなあ?)とか東浩紀の本を皮肉交じりに取り上げたら逆襲されてキレる」(詳しくは2009年2月7日の記事を参照)などなど、いろいろ楽しいことがあったわけである。唐沢俊一の書評は現在でもネット上で読むことができるので、興味のある方はチェックしてみるといいかも。

 しかし、一番の問題は別のところにある。唐沢俊一が「朝日新聞」で書評委員をつとめていたのは2007年4月から2009年3月までなのだが、ご存知の通り2007年6月に『新・UFO入門』での盗用が発覚している。そして、唐沢俊一は事件発覚から10月末までの約4ヶ月間、「朝日新聞」の書評欄から姿を消しているのである。…おそらくは謹慎していたんだろうなあ。いわゆる大新聞の書評委員が任期中に不祥事を起こし謹慎したという事例が今までにあったのかどうか。前代未聞の事態ではないとしても少なくともそうそうある話ではないことは確かだ。それに「漫棚通信」さんとは交渉が決裂しているのにどうして復帰できたのか気になる。「相手方と示談が成立しました」「じゃあ示談書を見せて」的なやりとりはなかったのだろうか(タイムリーなネタ)。朝日新聞」の罪は唐沢を書評委員に選んだことではなく、盗用事件の後も委員を続けさせたことにあるのかもしれない。唐沢は委員を辞めた今でも「朝日新聞書評委員」の肩書きを使っているしね。…それにしても、朝日新聞に一人「ともだち」がいるだけで(NHKにもいるけど)、こんなことになるのかと思うと「ギョーカイって凄いなあ」といろんな意味で感心してしまう。

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

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キャッチャー・イン・ザ・ライ

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横綱 朝青龍

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「朝日」ともあろうものが。 (河出文庫)

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