唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ほんの昨日のことなのに。

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 唐沢俊一は作品の批評ができない、ということを当ブログをずっと読み続けてこられた方ならばわかっていらっしゃることと思う。唐沢本人もそういったおのれの資質を知ってか知らずか、「作品そのもの」より「作品をめぐる状況」を論じようとしていたわけだ(とはいえ実際のところは「あんなものを好きな奴はおかしい」という話になってしまいがちなのだが)。批評ができないというのはライターとして致命的な弱点なのではないか?と思うのだが、そんな弱点を抱えながらも20年もプロとしてやってきたことには皮肉でなく感心してしまう。ひとえに自己を演出する能力に長けていたということなのだろう。ただ、そんな唐沢が最近になって『唐沢俊一のエンサイスロペディア』『昭和ニッポン怪人伝』のような自分の欠点が露わになってしまう仕事を引き受けているあたりに、自己を演出することに熱心さを失っているのではないか?と唐沢ウォッチャーとしては考えてしまう。
 さて、開田裕治氏の同人誌『特撮が来た17』に唐沢俊一『オンリー・イエスタデイ・1967』という文章を寄稿しているのだが、これがおそろしく開き直った文章なのでビックリしてしまった。今回はこの文章を紹介したい。

 1967(昭和42)年はわれわれ怪獣オタクにとって、怪獣ブームのピークとして永遠に記録されるべき年であった。
 なにしろテレビでは『ウルトラマン』(4月まで)〜『キャプテンウルトラ』(9月まで)〜『ウルトラセブン』といった黄金リレーが日曜夜7時のタケダアワーで行われ、翌月曜にはロッテ提供で『マグマ大使』(9月まで)〜『怪獣王子』が放映されていたというぜいたくさであり、さらに映画では前作『ガメラ対バルゴン』をヒットさせノリにノっていた大映が3月の春休みにシリーズ最高傑作と言われる『大怪獣空中戦/ガメラ対ギャオス』を公開、怪獣ものの本家東宝が夏休みには『キングコングの逆襲』と『長編怪獣映画ウルトラマン』を公開、年末の12月に『怪獣島の決戦・ゴジラの息子』を公開という大盤振る舞いに加えて、それまで怪獣映画を作っていなかった邦画二社があらたに参戦、日活が『大巨獣ガッパ』を4月に、そして老舗の松竹がガメラにぶつけて3月に『宇宙大怪獣ギララ』を公開したという、まるで盆と正月とカーニバルとクリスマスと阿佐谷(原文ママ)商店街七夕祭りが一緒くたにやってきたかのような、そんな夢の一年であったのだ。今のように、一年に一作、特撮映画が見られればラッキーという現在から思えば天地懸絶とも言える状況であろう。
 今の若い(といったって30代40代でもうダメ。なにしろ41年前のことである)怪獣ファン、特撮ファンたちと話して一番意識の食い違いがあきらかになるのは、このオマツリの時期を知っている者と知らない者の差だと思う。つまり、怪獣映画というものを、映画そのものとして鑑賞し批評しようという態度で見る若い世代と、そうじゃない、怪獣というのはあれは現象なのだ、祭儀なのだ、観るものではなく、《体験するもの》なのだ、という認識でいるわれわれロートル世代との違いである。われわれにとって、カイジュウエイガは、単なる映画の域を越えた、時代そのものなのである。


 なぜ1967年が「怪獣ブームのピーク」なのか?というのは、この文章のサブタイトルが「河崎実『ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一髪』(原文ママ)に寄せて」であることから概ね想像がつく。つまり、『ギララの逆襲』の前作(と言っていいのかどうか)である『宇宙大怪獣ギララ』が公開されたのが1967年であるから、それにあわせて「怪獣ブームのピーク」を設定したということなのだろう。いつも結論ありきで文章を書いているからなあ。
 しかし、まず最初に考えるのは「怪獣ブームは2度あったよね?」ということである。唐沢俊一が取り上げているのは1966年から始まったとされる「第一次怪獣ブーム」だが、その後1971年から「第二次怪獣ブーム」が起こっているのだ。『仮面ライダー』『帰ってきたウルトラマン』『スペクトルマン』『ミラーマン』『シルバー仮面』…これらの作品はすべて71年に放映されている。しかも、過去の作品の再放送も行われていたのだから、特撮ファンにとっては十分お祭りだと思うのだが。映画も『ゴジラ対ヘドラ』と『ガメラ対深海怪獣ジグラ』が公開されているしね。
 それにしても唐沢が唱えている「怪獣映画=お祭り」理論はなかなか興味深い。なぜなら、この理論に従えば、唐沢が過去に『ゴジラ』を批判していたことと上手く帳尻を合わせられるかも知れないのだ。特撮や脚本に問題はあったとしても「お祭り」だからいいのだ…という具合に。それが成功しているかどうか、続きを見てみよう(唐沢の『ゴジラ』批判については2008年11月5日2008年11月18日の記事を参照)。

 映画という芸術形式は、基本的にリアリズムをその基礎に置く。舞台であれば、70代の女優が10代の娘を演じることも可能である。異なる時間を同一場面で進行させることも、3人4人の人間が一人の人間を分裂させて演じることも可能である。しかし映画はよほど特殊な演出意図の作品以外、そうはいかない。現実の再構築である演劇と違い、現実そのものの影である映像は、その根本でリアリズムを超越することが出来ない。フィルムに焼き付けられた映像はそのまま《現実》との対比を強いられる運命にあるのである。
 このリアリズムに最も遠い世界のものが、いわゆる昭和特撮ではないか、と思う。円谷特撮は確かに世界にとどろくものではあれ、しかしあれがリアリズムかと言われると、その彼岸にあるものとしか言いようがない。どんなに金をかけて精巧なミニチュアを作ろうと、怪獣が踏みつぶすのは、リアルな戦車ではありえない。怪獣が破壊するのはリアルな東京ではありえない。ゴジラの造形はいかに巧みであろうと、それは人間の動き以外のものではありえない。それは子供の目にもあきらかなことであった。

 凄いなあ。中島春雄の努力を全否定している。観客にスクリーンの中で起こっていることが「リアル」だと感じさせることに成功しているからこそ「円谷特撮」は賞賛されているのではないだろうか。

しかもこの時代は、怪獣映画は必ずしも子供の独占物ではなかった。1962(昭和37)年に公開の『キングコング対ゴジラ』は、サラリーマン向け映画として、前年公開の『サラリーマン弥次喜多』の主演トリオ(高島忠夫藤木悠有島一郎)をそっくり移植する形で製作されていたのである。大のオトナが喜んで、ぬいぐるみの怪獣映画を観ていたのだ。

 正しくは『サラリーマン弥次喜多道中』。しかし、主演している役者が『サラリーマン弥次喜多道中』と同じことが『キンゴジ』が大人向けだという証明になるのかどうか。東宝の役者さんは特撮映画にだけ出ているわけじゃなくて、サラリーマン喜劇やギャング映画にも出ているわけなんだから、他の映画とキャストがカブったって何の不思議もないと思うのだが。高島忠夫藤木悠は『海底軍艦』でもコンビを組んでるし。

 これを、当時の日本人の映画鑑賞眼が幼稚だったからだ、と言うのは当たっていない。すでに当時の日本の観客は溝口健二の『雨月物語』(1953年)を、黒澤明の『七人の侍』(1954年)を、市川崑の『ビルマの竪琴』(1956年)を知っている。それらの映画を観た同じ人たちが、『キングコング対ゴジラ』を観ている(日本の人口が1億なかった時代に一割以上にあたる1255万人が観ている)のである。

 『キンゴジ』は確かにヒットしている(1962年の興行成績第4位)。しかし、「名作」だからといって必ずしもヒットするとは限らない。唐沢が挙げている「名作」のうち、年間興行成績ベストテンに入っているのは『七人の侍』だけである(1954年第3位。ちなみに8位が『ゴジラ』)。だから、『キンゴジ』を観た人が唐沢の挙げている名作を観ているとは限らないし、「名作」が作られたことは当時の人間の鑑賞眼を証明するものではないのだ。それに、昔の映画は名作も多かった一方で、それ以上に駄作も多かったということを忘れてはいけない。

 これをどう受け止めればいいのか。答はひとつ。あの当時の怪獣映画には、あの当時でなければ体感し得なかった、ある種のニーズがあるのである。映像や脚本の非リアリズムを超えて、当時の日本人たちの心に訴えかけるものがあったのである。
 そのキーワードが、60年代の高度経済成長だった。史上類を見ない発展を遂げた日本国。国土開発は凄まじい勢いで進行し、昨日まで見ていた光景が今日はもう跡形もない、などという状況は珍しくなかった(私の生家もあっという間に取り壊されてビルと化した)。人々はそのあわただしさの代償に消費に走り、つねに他人との新製品購入競争に追い立てられていた(♪うちのテレビにゃ色がない、隣のテレビにゃ色がある……とエノケンが『ジャングル大帝』のときのCMで歌ったのは1965年であった)。そして、その経済成長が、東西冷戦の上に成立していたことも、人々は十分に理解していた。高度経済成長の足がかりとなったのは、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需景気だったからである。日本は地理的にはロシア、中国に隣接する東側にありながら、政治的には完全に西側(アメリカ側)の一員とみなされ、もし米ソ戦争が起れば(原文ママ)、まっさきにソ連水素爆弾の洗礼を受けて消滅する運命にあった。今日の発展が、明日には全くのご破算、どころか命まで一瞬にして無くなるという不安の中で、人々は経済発展に狂奔していたのである。あに肩が凝らんや。

というわけで、高度経済成長期の人々のストレスを解消したために怪獣映画がヒットしたのだという。…しかし、今の人もストレスは無いわけじゃないよねえ。テポドンが飛んでくるかもしれないし、テロに巻き込まれる可能性だってある。

 小松左京の『明日泥棒』(ちなみに初版は1966年)の冒頭に、ムシャクシャした主人公が丘の上から東京の町なみを眺め、“ゴジラにでもなって踏みつぶしてやったらどんなにスッキリするだろう”と想像するシーンがあるが、60年代に怪獣映画が大ブームを巻き起こした理由はまさにそこにある。怪獣映画の破壊シーンは、そういうストレスのたまった観客が、その文明社会の象徴である都会や兵器をいとも易々と怪獣がブチ壊してくれるところに拍手を送るのが身上で、観客の心は怪獣にシンクロしている。パニック映画で、例えば火事とか溶岩とか隕石とかに意識をシンクロする観客はいないだろうから、ここが怪獣ものとパニックものとに一線を画する要素だろう(後略)

 『明日泥棒』は『週刊現代』1965年1月1日号から連載され、単行本は1965年12月に出ている。しかし、ファンは怪獣目線で映画を観てるかなあ? 『ゴジラ対○○』の場合はどっちに感情移入してるんだろう。それがアリならホラー映画を殺人鬼の目線で見るというのも有り得るかも。

(前略)子供は子供で本能的な破壊願望を発揮させているわけで、現在も細々と怪獣ものが作られているのは、残ったこっちを主要ユーザーとして何とか商売しているのである。その分水嶺となったのも、ガメラが子供主体の演出にシフトチェンジしたこの1967年頃であったと思う(後略)

 『ガメラ』シリーズが「子供向け」になったとされるのは1967年の『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』からなのだが、しかし、ゴジラ』シリーズはそれ以前に「子供向け」になっているから(ゴジラが「シェー」をしたことで知られる『怪獣大戦争』は1965年)、1967年を分水嶺とするのは疑問。

 そのストレス解消こそ特撮大怪獣映画の最大の有効性であればこそ、怪獣映画の特撮はあまりリアル過ぎぬ方がよかった。自分が怪獣に成り代わってビルを壊すのはいいが、そのビルの中には知人も働いているかもしれない、家族も買い物に来ているかもしれない、では破壊の興がそがれる。いかにもミニチュア、という石膏作りのビルだからこそ、いくら破壊しても罪悪感が生まれないんである。
 もちろん、これは当時の特撮関係者を誹謗した言ではない。いま見ても、その当時の技術として、各映画会社、テレビ制作者の特殊美術技術は世界の最高峰のレベルに達していた。それだからこそ、当時のオトナたちがその映画の中に入り込み、破壊妄想を発揮できたのだ。しかし、彼らがリアル(本物)指向を目指さず、江戸の根付に通じるミニチュアのリアリズムの方に走ったからこそ、映画の中の怪獣の大破壊は、見る者に恐怖感を与えるパニック場面とならず、カタルシス場面として受け入れられたのである。昭和怪獣映画の特撮の魅力は、歌舞伎のケレンに通じる、ファンタジーとして見るべきものなのである。

 この部分はかなり混乱している。思うに、最近の特撮の「リアル」さを否定しようとして昭和の特撮は「リアルじゃなかった」としたのだが、そうなると当然昭和の特撮をバカにすることになってしまうので、「リアルじゃないけどいいんだ」みたいな妙な弁護をしているのだろう。…いや、当時のスタッフも「リアル」さを追求してたと思うけどなあ。映画じゃないけど、『ウルトラマンA』のセットの作り込みなんか今見ても凄いよ。『大日本人』の終盤でスーパージャスティスが登場するといきなりしょぼいセットになるけど、唐沢俊一はあれも「ファンタジー」として評価するのだろうか。「江戸の根付」「歌舞伎」というのは権威付けなんだろうなあ。そもそも、「当時のオトナたち」が「怪獣映画」を見ていたのかどうか。

 高度経済成長期が過ぎ、怪獣映画もまた、黄昏を迎えることとなった。皮肉なことに、それ以降、映画における視覚効果は(ハリウッドでの『スターウォーズ』などの大ヒットにより)格段に進歩し、さらにはCGなどの出現により、怪獣ものもまた、一般映画とほとんど変わらぬリアルさを有することが可能になってきた。『ガメラ3 邪神覚醒』『ゴジラモスラキングギドラ大怪獣総攻撃』、海外でも『グエムル』『D−WARS』といった、ホラーやパニック映画のリアルさを取り入れた怪獣映画も多く作られるようになった。……だが、何か違う。どこか違う。その思いは、あの1967年を体験した世代に、ほとんど共通の思いの筈である。そう、決定的に違うものがある。それは、時代というものだ。怪獣映画と高度経済成長は密接に、双子の兄弟のように結びついていた。その一方が消えてしまった今、あの時代のような怪獣映画は、二度と観ることが出来ないのだろう……。

 『D-WARS』はストーリーは全然「リアル」じゃなかったけどなあ。「リアル」な怪獣映画の例として挙げるべきなのは『クローバーフィールド』のはずだけど、唐沢俊一はどうせ観てないか。「裏モノ日記」をチェックした限りでは『グエムル』も観てなさそうだが。…そういえば、怪獣映画に興味のない自分の父親が『グエムル』の怪物が初めて出現するシーンを絶賛してたっけ。…しかし、まあ、「ノスタルジー」以外の何物でもない。ノスタルジーはかまわないけど、今の作品を否定することはないのに。今の作品にも、かつての怪獣映画の魅力が受け継がれていることを確かめた方がずっと楽しいんじゃないかなあ。

 08年に公開された河崎実『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一髪』は、そういう世代のフラストレーションを解消する、いや、解消するためにのみあるような作品である。そこにある映像は、まさしく昭和のミニチュア特撮である。そこに流れる音楽は、伊福部昭に限りなく近い、というか近すぎるテーマ曲である。

 
 というわけで、いまどきの怪獣映画に不満を漏らしていた唐沢俊一は『ギララの逆襲』を称賛するのであった。でも、タイトルは『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』なんだけどね。水野晴郎が出演しているから『007危機一発』にひっかけたタイトルだと想像がつく(『ギララの逆襲』は水野晴郎の遺作となった)。
 で、伊福部昭へのオマージュを評価するなら、『クローバーフィールド』を忘れてはいけない。エンディングで『ROAR!』が流れたときには、「そうか、この映画は『ゴジラ』からつながっているんだ」と感動してしまった。

 やっぱり最近の映画もチェックした方がいいと思うのだが、唐沢俊一は『ギララの逆襲』のゆるさを褒めたたえるのであった。

 思えばオリジナルのギララは、まさしくあの怪獣時代のピークをそのまま体現している怪獣であった。そのデザインからして、まさにゴジラウルトラマンの合体なのである。ゴジラの体にウルトラマンの目。

 ギララの目は赤いんだけどなあ。仮面ライダーの目の方が近いかも(もちろん『仮面ライダー』はまだ制作されていないけど)。あとギララには触角もある。
「シネリエ」には、ギララをデザインするにあたってゴジラガメラと差別化を図ったことが書かれている。

 アナクロであるかもしれない、単なるロートルの趣味の押し付けかもしれない。しかし、そこにはかすかに“そう、これだよ、これなんだよ!”というあの時代の空気のカケラが残っている。河崎実という、“いい映画でない、俺様の作りたい、観たい映画を作る”という、エンタテインメント業界には珍しい作家とその作品がまったくのイコールで結びつけられる人物でなければ作れないのが、この作品であろう。私は、彼が楽しんできたものをほぼ、同時に楽しんできた世代に属する。彼と多くの趣味を同じカッコ内で味わえる自分を、幸運に思いたい。
 この映画を観てぽかんと口を開けている若い世代に、ニヤニヤとしてわれわれはこう言い放つべきなのだろう。
「どうだ、この楽しさを君たちはわかるまい。気の毒に。生れた(原文ママ)時代が悪かったねえ」

 
 自分が面白いと思ったなら他人がどう思おうと気にしなきゃいいんじゃないの? そんなに自信がないのか? 表現者としては、『ギララの逆襲』について説得力のある評価ができるかどうかが問題なのであって、「高度経済成長期を過ごしていたから評価する」という唐沢の言い分が他の世代に対してどれだけ説得力があるのかどうか。逆に唐沢が若い世代から「萌えがわからないなんて、生まれた時代が悪かったんですね」などとニヤニヤされたら、もの凄く怒りそうな気もする(現に岡田斗司夫はそれで『オタクはすでに死んでいる』という本を書いてしまった)。「すぐれた作品は世代を超えて感動させる力を持っている」と考えた方がいいんじゃないかなあ。なんでもかんでも世代で区切るのって本当に不毛だし、唐沢と同世代の人間でも全く違う考え方の人もいるはずだ。自分自身を特権化するために「世代論」をやって一体何の意味があるのか。なお、「裏モノ日記」2008年6月19日に『ギララの逆襲』評がある。


 もういっそのこと、現在に関心を持たずに過去だけに興味を持って生きていった方が唐沢俊一にとっても他の人間にとっても幸せなんじゃないか?と思う。でも、『昭和ニッポン怪人伝』を読む限りでは、高度経済成長期の知識もボロボロなんだけど…。

※50歳男さんからのご指摘に基づき追記しておきました。

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