唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ロリーチャップリン。

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 今回は『熱写ボーイ』12月号に掲載された唐沢俊一『世界ヘンタイ人列伝』第9回チャールズ・チャップリンロリコンの代償」を取り上げる。なお、『世界ヘンタイ人列伝』は第1回から7回まではカラーだったが、前回からモノクロになっている。理由は不明。


 まず、今回のコラムは構成が奇異である。

チャップリンの結婚歴→1943年、ジョーン・バリー(Joan Barry )から子供の認知訴訟を起こされる→1927年、リタ・グレイ(Lita Grey )に慰謝料請求訴訟を起こされる→最後の妻ウーナ(Oona Chaplin)との間にできた子供の話

 となっているのだが、すぐにわかるように時間的に後の方である認知訴訟の方が先に来ているのだ。コラムを読んでみても認知訴訟が先になっている理由がわからない。

(前略)有名なのは51歳のときの愛人、ジョーン・バリー。22歳と、やや“年増”ではあったが。ジョーンは尊敬する喜劇王との交際に夢見がちになっていたようだが、実はその当時すでにチャップリンはウナ・オニールと結婚を前提のつきあいをしており、ジョーンとは遊びでしかなかったことがすぐ、明らかになる。
 これでジョーンはキレたらしく、ある晩にチャップリンの家に銃を持って乱入。チャップリンを殺して自分も死ぬとわめいて銃を乱射したが、かけつけた警官に逮捕される。

 デイヴィッド・ロビンソン『チャップリン』(文藝春秋)下巻P.225より。

 ジョーン・バリーがまたハリウッドにやってきた。チャップリンがウォルドーフ・アストリアで与えた三〇〇ドルで旅費を支払ったらしい。しつこく電話をかけ続けたあげく、一二月二三日の夜、バリーはチャップリンの家に押し入り、銃を振り回して自殺すると騒ぎ立てた。
(中略)
 まさにチャップリンらしい運命の意外性と言うべきか、この厄介な若い女バリーが彼を悩ませ、将来のさらなる面倒を準備しつつあったのとちょうど同じころ、彼はウーナ・オニールと出会った。

 この記述からすると、ジョーンがチャップリンとウーナの交際を知って逆上したわけではなさそうだ(ジョーン・バリーはもともと精神が不安定だったようで、後に精神病院に入院している)。また、唐沢はジョーンが銃を乱射したこと(「乱射した」と「振り回した」ではだいぶ違うが)で、「30日間の刑務所生活を送った」と書いているが、前出ロビンソン『チャップリン』によると、12月23日の事件ではチャップリンがジョーンに金を渡して帰らせたものの、その後もジョーンがチャップリンにつきまとうのをやめなかったため逮捕されたことになっている。

 マスコミはすぐ、喜劇王のその人でなしなふるまいを書きたて、ジョーンはチャップリンに対し、自分が子供たちの父親であることを認めよという裁判を起こした。ウナ・オニールとチャップリンの結婚はこれでしばらく延期されざるを得なかった。

 「子供たち」とあるが、ジョーンが認知を求めたのは娘のキャロル・アン一人について。そして、ジョーンが訴訟を起こしたのは1943年6月4日だが、チャップリンとウーナはその直後の6月15日に結婚している。ロビンソン『チャップリン』下巻P.229より。

デュラントと弁護士はウーナに、バリー台風が通りすぎるまで東部に帰っていたほうがいいと忠告したが、ウーナは、こんなときだからこそ、チャップリンを愛し、また彼のほうも愛している女性がそばにいることが必要だと主張してゆずらなかった。

 血液型検査の結果、ジョーンのお腹の中の子供はチャップリンの子供にあらず、という判定が出、またジョーンもチャップリン以外の男性と遊んでいたことが証言されたが、判決はなぜか、子供の養育費をチャップリンが支払えというものだった。当時共産主義に共鳴したような発言をしていたチャップリンアメリカの裁判所の憎しみをかっていたからだと言われている。マスコミは非国民と彼を叩き、とうとうチャップリンはあわただしく結婚した四度目の妻、ウナと共にアメリカを去り、スイスに亡命することになる。

 さあ、困ったぞ。間違いが多すぎる。
 まず、ジョーンの娘キャロル・アンは1943年10月2日に生まれている。血液検査は子供が生まれてから行われたものである。
 次に、認知訴訟は陪審のもとで行われ、「11対1」でチャップリンはキャロル・アンの父親であるという評決が下されている。当時のカリフォルニア州では血液検査が証拠として認められていなかったのである(その後カリフォルニア州は1953年に血液検査で父親でないことが判明している場合には認知訴訟を提起することを法律で禁じた)。裁判所は陪審員の評決に従って判決を下したのであって、憎しみからでっち上げをしたわけではないのだ。
 そして、チャップリンが1952年9月にロンドンでの『ライムライト』のプレミアに出発した後で、司法長官ジェームズ・マクグラネリー(James McGranery )がチャップリン再入国許可を撤回したために、チャップリンアメリカに戻れなくなってしまったのである。認知訴訟とは時間的に隔たりがあるし、「亡命」って…。陪審制とマッカーシズムを知っていれば無かった間違いだと思う。
 

 で、この後は、リタ・グレイから慰謝料請求訴訟を起こされた話になるわけだが、この部分は「マジソンズ博覧会」「リタ・グレイ」を下敷きにしているものと思われる。2ヶ月連続かよ!(先月の件については9月29日の記事を参照)

 似ている部分を比較してみよう。まず唐沢。

 今残る写真を見てもリタはそれほど美人とは思えないのだが、チャップリンはとにかく彼女にぞっこんで、それまで映画でのパートナー(もちろん愛人だった)エドナ・パーヴィアンスを押しのけて、『黄金狂時代』の主演女優として抜擢した。

「マジソンズ博覧会」

やがてリタは、それまでのチャップリン喜劇のヒロイン、エドナ・パービアンスを押し退けて、『黄金狂時代』のヒロインに抜擢される。


唐沢。

 仕方なくチャップリンは“出来ちゃった婚”の元祖としてリタと結婚。ところが、そのとたんにリタの母親から伯父から親戚一党がわらわらと集まってきて、チャップリンに寄生しはじめた。広大なチャップリンの屋敷はいつの間にか、リタの親戚たちが住みついて、チャップリンのいる場所もないような状況になっていた。まるで彼の喜劇映画そのままといった雰囲気である。

「マジソンズ博覧会」

ビヴァリーヒルズの豪邸に新婚夫婦よりも先に上がり込んだのは、リタの母ナナだった。ナナは新婚旅行にも付き添い、そのままチャップリン邸に住み着いてしまったのである。蜜月の日々もないままに一人また一人とマクマレー一族が居座るようになり、チャップリン邸は事実上マクマレー一族に乗っ取られる。『サーカス』でのハードな撮影を終え、疲労のピークに達した彼を待ち受けていたのは、飲んだくれたマクマレー一族の大サーカスだったというからまさに悪夢。

 「マジソンズ博覧会」の方が上手いような。あと、「“出来ちゃった婚”の元祖」っていうのはどうなのか。なお、前出ロビンソン『チャップリン』によると、リタが母親と同居するようになったのは「結婚後数週間」としている。


唐沢。

 チャップリンがこれをこばむと、彼らは陰湿かつ執拗な誹謗中傷でチャップリンを攻撃してきた。怪文書を回し、三流ゴシップ誌チャップリンの変態行為の内容を発表して、彼の評判を落とそうとした。

「マジソンズ博覧会」

 ニューヨークで療養し、精神的に落ち着いたチャップリンは、ハリウッドへと舞い戻って愕然とする。二人の結婚生活を暴露する怪文書『リタの不満』が出回っていたのである。この42ページに及ぶ小冊子は三流スキャンダル誌の出版だったが、リタ側が流したことは明白だ。エドおじさんはマスコミを味方にする術をこの時代に早くも熟知していたのである。

怪文書」「三流ゴシップ(スキャンダル)誌」ね。


唐沢。

 いろいろあった結果、ついにリタ側は62万5000ドルという莫大な慰謝料を手に入れる。チャップリンの心労は凄まじく、まだ38歳という年齢ながら髪の毛が真っ白になってしまったという。後にチャップリンは有名な自伝を書くが、その中に、2人の子まで作ったリタのことは全く出てこない。思いだすのも不愉快な経験だったのだろう。

「マジソンズ博覧会」

かくしてマクマレー一族は62万5千ドルの示談金喝取に成功する。
 裁判を終えたチャップリンは38歳だったが、心労のためにすっかり白髪になっていた。中断していた『サーカス』の撮影を再開するためには髪を染めなければならないほどだった。よほどこたえたのだろう。彼の自伝には、リタについては一言も触れられていない。

 ロビンソン『チャップリン』によると、慰謝料の大半は弁護士への支払いにあてられ、リタの手元にはさほど残らなかったという。
 他にもフェラチオという言葉がこの裁判で初めて知られるようになったということが出てくるのも同じである。…しかし、これで今回のコラムの構成が奇異なのもなんとなく想像がつく。おそらく、ジョーンの裁判とリタの裁判について別個の資料を使ったせいなのだろう。それにしたって時間の流れにあわせて構成することもできただろうに、「やっつけ」なのかなあ。
 

 それから、唐沢はいいネタをスルーしている。

 彼女の名前はリリータといったのである。まさにロリータ・コンプレックスを具現化したような名前だ。

 いや、「具現化したような」じゃなくて、ナボコフはまさにリタ・グレイに影響を受けて『ロリータ』を書いたのである(詳しくは「トンデモない一行知識の世界」を参照)。
 それに加えて、唐沢はリタ・グレイの本名を2回書いている。

 彼女の名前はリタ・グレイ。本名はリリータ・ルイズ・マクマレーであるが、生涯のうち3年間だけは、リタ・チャップリンと名乗っていた。

複数の資料を使ったときにまとめることが苦手なようだ。


 その後で、チャップリンがウーナとの間に8人の子供をもうけた話になる。

 そして、スイスに移り住み、映画界からも引退してやることがなくなったチャップリンは、最後の36歳年下の妻と、ひたすら子作りにはげむ毎日を送ることになる。以下、その記録を上げておく。

チャップリン55歳のとき、長女ジェラルディン・リー誕生。
・58歳のとき、長男マイケル・ジョン誕生。
・59歳、次女ジョゼフィーン・ハナ誕生。
・62歳、三女ヴィクトリア誕生。
・64歳、次男ユージン・アンソニー誕生。
・68歳、四女ジェイン・セシル誕生。
・70歳、五女アネット・エミリー誕生。
・73歳、三男クリストファー・ジェイムズ誕生。

 チャップリン最後の作品は1967年、78歳の時に監督した『伯爵夫人』。最後の子供が生まれて5年後のことである。
 なお、上の記録は「Pourmi-Phillyu」からコピペしたものである。

ちなみにこの最後の子が生まれた五年後に、リタとの間に生まれたチャップリンの最初の子供、チャールズ・チャップリン・ジュニアが42の若さで死んでいる。アルコール中毒によるものとされている。やはり、自分の生みの母と父があそこまで大きな争いをやり、かつ父に無視される存在であったということに耐えられなかったのだろう。この実に無益でみにくい争いの、彼が最大の被害者であるように思う。

 チャップリン・ジュニアがアルコール中毒だったことは確かなようだが、死因は血栓症とされている。また、『ライムライト』にも出演していて、父親との関係が険悪だったというわけでもなさそうなのだが。


 P&Gに加えて不自然な構成が気になった。それにしても「来夢来人」という名前の店は全国に何軒くらいあるのだろうか。

※追記 藤岡真さんのご指摘に基づき訂正しておきました。


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