唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

臀部ウソさそんなもんさ。

『りぞ☆らば』と書くと萌えアニメっぽい。


 本題に入る前に指摘しておく。「裏モノ日記」10月7日のタイトルは「ヒネメスのたりのたりかな」で受けの文章が「日本ハムを首になってからヒマでねえ。」なのだが、今年北海道日本ハムファイターズに在籍していたのは、ルイス・ヒメネス(Luis Jimenez)である。スポーツは詳しくないんだから無理しなくても。


 今回は『熱写ボーイ』8月号に掲載された、唐沢俊一『世界ヘンタイ人列伝』第5回「変態か悲劇の主人公か・野口男三郎」を取り上げる。少年を殺したうえに肉を切り取り、それを義兄に食べさせたと言われる男である。


 最初に、アメリカのフォークソングには犯罪者をテーマにした「マーダー・バラッド」と呼ばれるジャンルがあるが、日本では藤竜也『花一輪』くらいではないか、という話が書かれている。ちなみに、『花一輪』の作詞者である小谷夏久世光彦の別名義である。
 で、野口男三郎のことを歌った『夜半の追憶』(『美しき天然』(天然の美)のメロディで歌われる)が明治末期にヒットしていたとして、本題に入るのである。なお、唐沢俊一は何故か『夜半の追憶』(男三郎の歌)というタイトルを挙げていない。

 そこに登場するのが男三郎である。彼は旧姓を竹林男三郎と言って、明治30年、大阪から上京、東京外国語大学に入学して、野口家に同居していたが、やがて曾恵(引用者註 寧斎の妹)の夫となり、野口の姓を名乗って婿養子となった。

 以上の文章は「野口寧斉について」というサイトを下敷きにしていると見られる。

野口男三郎はもともとは竹林男三郎といい、
明治30年、大阪から上京、東京外国語大学に入学、野口家に書生として同居していた。
やがて妹曾恵と結婚、寧斉は男三郎を養子とし、野口姓を名乗った。

 野口男三郎の旧姓は「武林」である。つまり、誤字が同じなのだ。

 明治35年3月27日、東京・麹町で、11歳の少年、河合荘亮が、何ものかによって窒息死させられ、両目をえぐられたあげくに、臀の肉を切り取られるという事件が起こった。殺人方法はいたいけな少年の顔面を地面に押し付けて呼吸を止め、その上で手拭で首を絞めたものだった。

 殺された少年の名前が「かわいそうすけ」というのは出来すぎなような気もするのだが事実らしい。

 ところがその三年後、薬店主・都築富五郎が代々幡の林の中で首吊り死体で発見され、出かけたときに持っていた現金三百五十円入りのカバンが紛失していたところから、この自殺が偽装ではないかという疑いがもたれ、富五郎が死の前日に金もうけばなしをしていたという男三郎が容疑の線に浮かんだ。

 「代々幡」って何処のことなんじゃい、と思ったら、事件の現場となったのは、当時の「豊多摩郡代々幡村代々木」、つまり現在の渋谷区のことであった(代々木と幡ヶ谷が合わさって代々幡ということらしい)。わかりにくいなあ。

調べると、当時すでに男三郎は寧斎に妹との結婚を破棄されて野口家を出ていたが、陸軍省の通訳官の仕事を得て戦地(当時、寧斎の漢詩の弟子である乃木将軍が戦っていた旅順)へ赴任する、と周囲の人間には告げていた。
 これは逃亡だ、と直感した刑事が陸軍省に問い合わせたところ、野口などという通訳官を雇った記録はないという。
 事件の三日後の5月28日、麹町飯田町(今の飯田橋)の甲武線(中央線)停車場で、野口男三郎は逮捕された。男三郎の出征を祝おうと駅に集まった人々は、突然の捕物劇にぽかんとするばかりだった。男三郎は素直に逮捕されると見せかけて、ストリキニーネを飲んで自殺しようとはかったが、警官にそれを払い落とされると、諦めたように連行されていったという。

 以上の文章は「オワリナキアクム」というサイトを下敷きにしている。

5月28日、麹町飯田町(現・飯田橋)の甲武線(中央線)停車場に数人の男たちが集まっていた。戦地に赴くという男三郎を見送る人たちである。
 午後6時ごろ、停車場に汽車がやってくると、仲間たちが激励の言葉を投げかけるなか、サーベルをさげた男三郎は乗り込もうとした。そこを麹町署の刑事たちが取り押さえた。男三郎は軍服の懐にしのばせてあった劇薬「ストリキニーネ」を取り出したが、刑事にはたき落とされ、あっけなく逮捕となった。友人たちは連行されゆく男三郎の後ろ姿を見送るだけだった。

 前の文章では「代々幡」と説明抜きで書いていたのに、今度は「飯田町」にしろ「甲武線」にしろちゃんと解説をしているのが不自然。コピペすると文章に統一感がなくなってしまうということか。


 その後、男三郎には寧斎殺害の容疑もかかることになる。

 そして、哀れな寧斎は死してなお、墓に安眠することを許されず、死体を発掘して調べたところ、あきらかな絞殺の跡が確認された。

 男三郎は寧斎の殺害については証拠不十分で無罪となっている。寧斎に「あきらかな絞殺の跡」があったのなら何故無罪になったのだろうか、と思って男三郎の弁護を担当した花井卓蔵の手記を読んでみたら、寧斎の遺体を墓から掘り起こして解剖したところ、遺体の腐敗が激しく詳しい死因が確認できなかったという。検察側は「詳しい死因はわからないが少なくとも脳溢血ではない」と主張したというが、それで有罪にしようとするのは無理があるというものだ。

もし彼(引用者註 寧斎)があのような不幸な死を遂げさえしなければ、その後の日本において、漢詩はこれほどに廃れたりせず、俳句や短歌のような、ポピュラーなジャンルとして残ったのではないかとさえ言われている。そういう意味では男三郎は、単に人間を数名殺しただけでなく、その後の日本の文壇の勢力図まで変えてしまった男、ということが出来るかもしれない。

 男三郎は薬店商殺しでは有罪になっているが、河合少年と寧斎の事件については無罪になっているので、「数名殺した」と書くのはいかがなものか。

世間はこのあたりになると完全に男三郎の味方であって、彼は政府の“国策”裁判により命を奪われる哀れな犠牲者、というイメージを男三郎に付与し、彼を悲劇のヒーローとして扱ったのである。

 よく意味のわからない文章である。「彼」というのは男三郎のことなのだろうが、自分自身で「哀れな犠牲者」というイメージを付与したのだろうか。それに「国策」とはどういうことなのか。明治政府が男三郎を国家の政策として有罪にしようとした事実があるのだろうか。少し前に「国策捜査」という言葉が流行ったから使ってみたくなったのかもしれない。

 だが、野口は曾恵と結婚していながら、大陸に行くと言って家を出て、実は神奈川県の情婦の家に転がり込み、その情婦ばかりか、彼女の母親とも関係を持っていたという、性的変態性を十二分に持っていた男だった。河合少年の臀肉を切り取るばかりでなく目までえぐっているところから見て、彼がその肉を寧斎に食べさせようとしたということ自体後付けで、実際には変態性欲にかられて殺したのではないか、という疑いも、いまだ大きく残っているのである。

 まず、母娘と関係を持つことは変態なのだろうか。仮に変態だとしても少年の死体から肉を切り取る猟奇性とは別物のように思えるのだが。
 次に、男三郎は河合少年の事件については無罪判決が下されているのだから、男三郎が河合少年殺害の犯人であることを示したうえで、犯罪の具体的な態様について考えないと意味が無い。武烈天皇の時と同じで男三郎を「ヘンタイ人」にしようとするあまり強引な結論になってしまっているのだ。


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