唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

素人苦労の無い風。

 『唐沢俊一検証本VOL.1』、通販受付中です。タコシェの店頭でも販売しています。
 あと、gurenekoさんにご指摘を受けましたが、再版分の奥付に誤字があります。…これは早いところ売り切ってしまわねば(冬コミ前にもう一度刷るつもり)。『検証本』を読み終わった人はそれを捨てちゃって、再読する場合には新しく買い直すという「KARATEKA方式」の導入を真剣に考える必要が。


 唐沢俊一『博覧強記の仕事術』(アスペクト)、第4章「自分の発想を“売り物”にする方法」の検証に入る。
 P.152には「素人こそ大胆なアプローチができる」とある。

 素人というのは、玄人よりも素晴らしい。
 素人のどこが玄人よりも素晴らしいかと言うと、例えば映画で言うと、純粋に「楽しみ」のために映画を観ることができるからだ。好きな映画を好きなときに観ることができる。これは玄人には望めない素晴らしい境遇なのだ。

 どうやら唐沢俊一は「玄人」を「プロフェッショナル」と同じ意味で使っているようなのだが、単に素人と玄人とでは楽しみ方が違うだけという気がする。唐沢俊一は「雑学」や「裏モノ」の「玄人」なんだろうけど、仕事をやっていて楽しくないんだろうか。

 例えば、映画批評家SF映画を語るときに『2001年宇宙の旅』を観ていないということになると、もうその人はSF映画を語る資格がないと言っても過言ではない。けれど、素人であれば、「私、SF映画は好きだけれど、キューブリックは嫌いだから観ない」で話が済むわけだ。それでまったくかまわない。その自由さというのは素人だけが享受できる特権であるのだ。

 「キューブリックは嫌いだから観ない」で話が済むかなあ? 映画ファン同士で話をしていて、そんな発言をしようものならどうなることか。いくら素人でも問題なのでは(個人的には、キューブリックを嫌いな映画ファンというのを見たことがないんだけど)。あと、SF映画が本当に好きなら『2001年宇宙の旅』は必ず観ていると思う。…っていうか、唐沢俊一は『2001年宇宙の旅』を観ていないSF映画ファンがいたら絶対にバカにするような気がするのだが。「素人らしくていいね!」とか褒めてくれるのだろうか。
 以前の記事「好きなことだけ勉強していても「博覧強記」にはなれない」と指摘したが、映画においても同じことで「好きな作品だけ観ていても「博覧強記」にはなれない」のである。「○○は嫌いだから観ない」という考え方を変えて、なるべく多くの作品に興味を持つようにしなくてはならないのだ。でないと、クリント・イーストウッドの近作を全く観ていない唐沢俊一みたいになってしまう。…しかし、あらためて読んでみても本当にくだらない理由である。

P.152〜153より。

 しかし、素人であっても、義務のようにたくさんの映画を観、どんどん知識を溜め込んでいる人は、往々にして自分が「玄人である」かのような錯覚に陥ってしまう。
 陥るだけなら何も弊害はないのだが、そういう「玄人もどき」の人は他人にまで「玄人もどき」になることを強制し、それをしない人をバカにする。「この映画を観ていないなんてバカだ」と。
 しかし、それは大変にバカバカしいことである。素人の醍醐味と凄みは、プロにはできないような破天荒な解釈(私にはそれがそんなものであるかはとても想像がつかないが)をしたり、プロなら業界のしがらみでとても言えないようなことをポンと無造作に言ってしまえるところにある。

 「玄人もどき」ってまさしく若き日の唐沢俊一がそうだったわけだ。「ガンダム論争」といい「アニドウ」の同人誌といい。「私も若いときは「玄人もどき」だったからわかるのだが…」とか書けば文章に説得力が出たと思うのだけど。まあ、唐沢は自分の恥を話したがらない人からしょうがないか。
 後段の文章については個人的に「なるほど」と思った。唐沢俊一の関係者が「しがらみでとても言えないようなこと」を自分は「素人」だからこそ「ポンと無造作に言ってしまえる」というのはあるかもしれない。あの正義感にあふれるマジメな山本弘会長まで唐沢俊一には何も言えないんだもんなあ。まあ、要するに唐沢は「しがらみ」のおかげで救われているということになるんだろう。
 そして、唐沢俊一の醍醐味や凄みは、破天荒なガセビア(自分にはそれがどうしてそうなったのかはとても想像がつかないが)を書いたり、普通の人間なら著作権を知っているからとてもできないようなコピペをポンと無造作にやってしまえるところにあるのではないかと。


 その後で、唐沢俊一は「素人の醍醐味と凄み」の実例として、例の「女性被害者の部屋」や『奇譚クラブ』に掲載されていた女優の緊縛シーンのみにこだわった映画評を挙げている。…いや、あの、そんな独特な性癖によるものが「素人の醍醐味と凄み」というのはちょっと…。
 さすがに唐沢もこれだけではマズいと思ったらしく、中野美代子『綺想迷画大全』(飛鳥新社)を別の例として挙げている。なお、唐沢は「朝日新聞」2008年1月27日の書評で『綺想迷画大全』を取り上げている。唐沢は中野氏が「知性」で絵画を鑑賞していると称賛しつつ、このようなことを書いている。P.155〜156より。

現代の絵画鑑賞においては、教養主義というか、絵画をデータで理解するといった見方を一段下に起き(原文ママ)、感性でその素晴らしさを味わう鑑賞法を最も優れたものとしている。一切の予備知識抜きの白紙状態で作品と向き合い、色彩、タッチ、画面の空気感などを感性で受け止めるのがよい鑑賞法、であるらしい。
 しかし、絵画の専門家ならともかく、一般人にとっては、そのような絵の見方は退屈なものでしかない。なぜなら、絵画に“肥えてない”われわれの目にとっては、感性というあやふやなものを媒介にしていては、絵と自分との間に共通項を見いだすことがほとんど不可能だからである。歴史や、人物像といったものの知識に頼って、実はわれわれのほとんどは西欧絵画を観ている。絵のプロならば、例えばゴッホの自画像を見て、
ゴッホには精神病歴があってね」
と口に出したり、ダ・ヴィンチヨハネ像を見て、
ダ・ヴィンチは同性愛者で……」
などとしたり顔で解説することは邪道だろうが、われわれにとっては、そちらの方がずっと絵を身近に感じることが出来るのである。

 「画面の空気感」ってナンジャラホイ、という感じなのだが、いや、感性による絵画鑑賞ばかりが推奨されているわけではないと思う。美術展に行けばわかるはずだが、絵画の横についている解説には「この構図にはどのような意味があるのか」ということがよく書かれている(最近では音声解説もある)。構図、色彩、コントラストを分析しつつ鑑賞するという方法もあるのだから、知性による絵画鑑賞も十分に認められているのだ。感性で受け止めろ、というのであれば解説なんか必要とはされないだろう。
 また、解説には「どのような時代背景のもとに描かれたのか」ということもよく書かれている。つまり、「知識に頼って」鑑賞することも認められているということになる。まあ、「精神病歴」「同性愛者」とか言われても「ずっと絵を身近に感じることが出来る」とは思えないけど。誰でも下世話な話題に関心を持っていると誤解しないで欲しいし、唐沢が「絵画オンチ」なだけなのでは?と思ってしまう(前出の朝日新聞の書評の中で唐沢は印象派の絵画というのがよくわからない」と書いている)。あと、絵画の知識が多少あれば「この絵は○○の影響を受けているな」という見方もできるようになる。この点、高階秀爾ピカソ剽窃の論理』(ちくま学芸文庫)は面白かった。
 さらに付け加えると、唐沢が中野美代子氏を「素人」としていることには疑問がある。唐沢は中野氏について「岩波文庫で『西遊記』を担当している中国文学の大家」と紹介しているのだが、『綺想迷画大全』の著者紹介欄では

中国文学者にして、シノロジー図像学の第一人者

と書かれている。図像学というのは「絵画・彫刻等の美術表現の表す意味やその由来などについての研究」(出典はウィキペディア)なのだから、中野氏は絵画について素人ではないのではないか? …この記事を書き終わったら「ベルギー幻想美術館」に行こうかな。


P.156、158より。

 素人はある意味「特権階級」なのであるから、特権階級ならではの楽しみ方、特権階級だからできる見方というのを自由に楽しんで欲しい。素人から見れば玄人の方が特権階級に見えるかもしれないが、実情はとんでもない。下僕、奴隷と呼んだ方がふさわしいのではないかと思うこともある。
 逆に、私もものを書くとき、あまり知らない分野のものについては素人という特権階級になれる。それを専門にしている学者から見ればむちゃくちゃな内容かもしれないが、専門外だからこそ、プロが腰を抜かすような大胆な解釈も可能なのだ。
 畑違いの人というものは、本来の専門家にはできなかった大胆な発想をすることが往々にしてある。そして、それは「素人のたわごと」ではなく、大変貴重な意見であることも、また事実なのだ。

 『博覧強記の仕事術』という本で素人を褒めたたえてどうするんだろう。読者は素人から卒業して「博覧強記」になりたいからこそ、本を手にとっているはずなのに。
 確かに素人には「プロが腰を抜かすような大胆な解釈も可能」ではある。ただし悪い意味で。「なんて的外れな」「明らかに基礎知識がない」とプロは困っていることだろう。唐沢俊一ガセビアを見たときもまったく同じ感想が思い浮かぶのだが。断言してもいいが、素人の発想や解釈というのは、そのほとんどが「素人のたわごと」でしかない。ろくに勉強もしていない経験も積んでいない素人が玄人を超える論考をするなどまず有り得ないことだ。まあ、それは幻想としては美しいのだけど…。
 

 今回紹介した文章は、少し角度を変えれば大丈夫だったと思う。たとえば、「ひとつの分野に通じていれば別の分野にも応用が利く」とか「自分の考えに凝り固まらずに他の人の意見も参考にする」とかそういうことであればよかったのだ。では、どうしておかしくなったかというと、一言で言えば素人におもねったせいである。『博覧強記の仕事術』は全体的に読者に媚びているのだが(「好きなことだけ勉強すればいい」とか)、今回もそれが出てしまっているわけだ。人にものを教えるときには多少厳しくした方がいいと思うし、今回の素人礼賛や『エンサイスロペディア』でよく見られる「難しいことを考えずに楽しもうぜ!」的な文章を見ていると、唐沢俊一は本格的にバカになろうとしているのか?と心配になってくる。頭が悪いのに賢いフリをするのも問題だけど、開き直ったからっていいものでもないしなあ。
 ついでに書いておくと、素人が玄人に勝てる数少ないケースとして、玄人が「しがらみ」にとらわれている場合が考えられる。「ゴッドハンド」藤村新一の疑惑を毎日新聞のスクープ以前に指摘していたのは、畑違いの人類学の研究者や外国の研究者だったという。冷静に考えれば、あれほど高確率で石器を掘り出せるはずがない、ということにすら考古学の玄人たちが思い至らなかったのだから恐ろしいことだ。また、前の方の文章で書いたように、唐沢俊一のガセやパクリを素人である自分が指摘しているのに対し、唐沢の周囲の人間はいろいろなしがらみがあるのか、それを指摘しないままでいる。…以前は、自分より能力も経験もある玄人に唐沢俊一の検証をやってほしいと思っていたが、1年以上検証を続けているのだから、他人任せにせずなんとか最後までやり遂げようと今では思っている。ただ、玄人の方々が揃いも揃って「しがらみ」にとらわれて口をつぐんでいるのだとしたら、少し残念である。


KARATEKA

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綺想迷画大全

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ピカソ 剽窃の論理 (ちくま学芸文庫)

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旧石器遺跡捏造 (文春新書)

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博覧強記の仕事術

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