唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

KYでJYなKS。

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 唐沢俊一『博覧強記の仕事術』(アスペクト)の検証の続きである。P.145には「空気ではなく「自分」を読め」とある。P.145〜146より。

 私はときどきテレビからお呼びがかかるが、例えば、バラエティに出て、お笑いの人間とおふざけをやってもあまりサマにならない。
 私に向いているのは、解説者とか、コメンテーターであり、ちょっと偉そうに解説する役どころである。これは自慢ではなく、実際にそうであるのだから仕方ない。それは「キャラクター」で決まるものなのだ。
 だから、ものを書くときでも、あるいは企画などをプレゼンするときも、自分のキャラを知らなくてはならない、ということだ。キャラに合わないアウトプットをしても、どこか滑稽でサマにならず、結果もいいものにならない。
 自分は「賢いキャラ」でいきたいと思っても、実際はバカキャラであったとしたら、それはやっぱりサマにならない。いくら賢いキャラを装っても失笑を買うだけである。
 逆に、私などは「博覧強記」キャラなので、まったく知らない分野であっても、「唐沢は知らないとか言っているけれど、実は知っているだろう」と思われてしまうことが多い。それはそれで面倒ではあるのだが、キャラというのはそういうものだ。

 えー。コメンテーターには向いてないよ。「カリフォルニアの温泉の用心棒」とか「金嬉老はヒーロー」とか面白コメントばっかしてるじゃん。もともとアドリブがきくようでもないしね。
 それにしても、本人は「賢いキャラ」のつもりなのに実は「バカキャラ」だったとわかったときのインパクトは半端じゃない。俺も検証していて失笑が止まらないもの。
 あと、ひとつ気になるのは、知らない話を聞かれたときに「賢いキャラ」に見せかけようとして無理に答えたりしているんじゃないか?ということだ。そういうのってガセビアを生むもとになるからやめておいたほうがいい。

P.146、148より。

 KY、つまり「空気を読め」というのはよく言われることであるが、実はそれよりも大事なことがある。周りの空気は実にやりようによっていくらでも変えることができる。
 大事なのはJY、つまり「自分を読め」なのだ。
 自分さえ読んでいれば、周りの空気なんていくらだって変えられる。「この人が来ただけで空気が変わる」という人がいるだろう。そういう人は、自分のキャラクターを知っている人だ。
 人を動かすことができる人は、そういう人間なのである。つまり、「カリスマ」とはそういう人間の総称なのだ。
 私はカリスマというタイプではないが、少なくとも自分がどういうキャラクターで、どういった行動を期待されているかは知っている。テレビやラジオなどに呼ばれたり、文章の仕事が来ているのは、どういうことが自分に期待されているのか知っていて、それに答えることができるからである。
 これは、物書きに限らず、どんな商売の人にでも言えることだ。

 実に皮肉な文章である。「自分を読め」と説いているのに、当の本人が自分を全く読めていないのだから。だいたい、唐沢俊一は編集者と打ち合わせをすればいつも絶賛され、人前で話をすればいつも大ウケと「裏モノ日記」で書いているのだ。そういう人が自分を読めているとは思えない。余談だが、先日編集者の方と話をしたときに、「裏モノ日記」の件が気になっていたので「編集者はライターと打ち合わせをするときは相手を褒めるものなんですか?」と質問してみた。すると「あたりまえじゃないですか」と笑われてしまった。しかも、編集者が褒めたからといって企画が通るわけではないということだった。…そうか、唐沢俊一は「あたりまえ」のことをあんなに嬉しそうに書いていたのか。
 で、あと「怖いな」と思ったのは、唐沢俊一が自分を「カリスマ」だと考えているフシがあることだ。


私(唐沢)は自分がどういうキャラクターで、どういった行動を期待されているかは知っている→自分のキャラクターを知っている人は周りの空気を変えられる→そういう人間は人を動かすことができる→そういう人間の総称が「カリスマ」である


 ね? 話の流れから考えると唐沢は「カリスマ」ということになってしまう。
 それにしても、ここで書かれている「カリスマ」というのはずいぶんチンケな存在である。本当の「カリスマ」は自分も周りの空気も読んでいないのに無意識のうちに周囲に影響を与えてしまうような、それほどの存在である。自分を読んだくらいで「カリスマ」になれるのなら誰も苦労はしない。まあ、「カリスマ美容師」にはなれるかもしれないが…。
 「KY」というのは「空気を読め」というほかに「空気を読めない奴」という意味でも使われるが、そういう意味では唐沢俊一も「KY」だろう。あと、「KY」といえば朝日新聞の捏造事件も連想するね。


 その後、唐沢俊一は一般人にとって最も重要なアウトプットは会話なので、会話することによって勉強の成果を活かしてほしいと書いている。…だが、どのように会話したらいいのかについては書かれていない。そこを具体的に説明してくれないと困るんだけど。


 これで第3章の検証は終わりである。第3章はサブタイトルに「自分のキャラクターに合ったアウトプットを知る」とあるように、情報を発表するにあたってはキャラクターが大事だということが再三にわたって語られている。しかし、世の中の大多数の人は無個性なのであって、「自分はこういうキャラクターなんだ」と下手に決め付けないほうがいいのではないのだろうか。だいたい唐沢俊一本人がセルフプロデュースに大失敗しているんだしね。岡田斗司夫も今の日本は「キャラ社会」だと言っているんだけど(詳しくは悠々日記を参照)。「帽子に黒ずくめの格好(シャツはよれよれ)」「ダイエットに成功した人」という外見にどれだけ意味があるのかはよくわからない。自己愛の強い人ほどキャラクターの重要性を訴えるのではないか?となんとなく思ったり。

博覧強記の仕事術

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