唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

リアル脳内メーカーを持つ男。

 『唐沢俊一検証本VOL.1』タコシェの店頭にあるのを確認してきました。通販も近いうちに再開するはずなのでよろしくお願いします。


 唐沢俊一『博覧強記の仕事術』(アスペクト)第3章の続き。P.135より。

 ここまで話してきたように、現在のわれわれに必要な情報のインプット方法は、すべてをまんべんなく覆ってインプットすることではない。むしろ、情報がこれだけ溢れかえっている状態の中で、いかにそれを選択し、選別して自分たちの頭の中に“わかりやすい形で”入れていくか、ということにある。

P.136より。

 現代の情報享受者たちは、もはや、いちいちの情報を個別に選択し、検証している時間がなくなっている。であれば、自分のお気に入りの情報を(もちろん、知識も同様)伝えてくれる自分専用の情報キャスターを選び、その選択眼を信用しよう、という気になる。これは当然のことである。

 「博覧強記」を目指しているのに「お気に入りの情報」だけ集めてどうするんだと思うが、それ以上に盗用癖のある人がこのような発言をしているかと思うとなかなか味わい深い。まあ、信頼できる作家やブロガーを見つけて情報源にするのは悪いことではないが、そこから得た情報を自分で見つけたものであるかのように偽って利益まで得ようとするのは明らかに人としておかしい。現に「漫棚通信」さんはお怒りである。

わたしにとってもっとも腹立たしかったのは、山川惣治の「絵物語」を読んでその要約をするという行為に、そうとうな時間と労力を要していることでした。

絵物語が絶滅してしまった現在ではわかりにくいかもしれませんが、新書判で全三巻の「絵物語」は、まさに大長編です。

あのころの絵物語は現代のマンガと違い、読むだけで相当な時間がかかります。「サンナイン」は中日新聞に連載されたもので、新聞連載小説のようなものを想像してみてください。

ましてその要約は、複雑な物語のどこを選びどこを捨てるか、が腕の見せどころ。複数の人間が別々にこれをおこない、同じものができるはずがないのです。

ネット上の文章をコピペして文末をいじるだけという唐沢氏の行為は、まさにわたしの時間と労力を「盗んだ」ものであり、謝罪の有無は別にして、今も腹にすえかねております。

 難解なものをわかりやすく説明すること、膨大な情報をコンパクトにまとめることは実に多大な労力を必要とするものなのである。それだけでなく、それらの行為には技術やセンスも要求されるのであって、誰がやっても同じというわけにはいかない。唐沢俊一はそういったことを理解していないのではないか。ベテランのライターなのに。

P.136、P.138より。

 つまり大事なことは、よい情報を取り入れるだけではなく、あなた自身が「よい発表者」となり、その情報をアウトプットすることによって初めて、その情報は「よい情報」として第三者に認識されることになるのである。そのために必要なのが、ある特定範囲に関する一種の権威ともなる知識の蓄積であることはこれまで縷々、述べてきた。
 情報の価値はアウトプットする人間、つまりあなたによって決まる。これを忘れないで欲しい。

 「よい発表者」になろうとするのであれば、まず他の「発表者」に対して敬意を払うべきだろう。盗用について謝罪もできない人間にあれこれ言われても。それから、もうひとつ大事なことだが、信用できる情報源を見つけるのはいいとしても、そこの情報を鵜呑みにしてはいけない。それにしても「ある特定範囲に関する一種の権威ともなる知識の蓄積」って一体なんなんだろう。


 P.138には「「オタクの話」がつまらない理由」とある。おお、それは他人事ではないから興味がある。どんなことを言っているんだろう。

 博覧強記と、ただの物知りとの違いが、ここまで本書をお読みになった方にはおわかりだと思う。博覧強記人とは、知識と情報のインプット・アウトプットのバランスがとれている人、どちらかというとインプットよりアウトプットの方に力を入れ、頭の中の知識を活用できる能力を開発している人、ということになる。

 …いや、だから「本書」の「博覧強記」は明らかな誤用だからね(詳しくは6月27日の記事を参照)。唐沢俊一ももっとアウトプットの方に力を入れたほうがいいと思うけどなあ。「ワシントン殺人事件」の惨劇をくりかえさないためにも。「カリフォルニアの温泉の用心棒」というのもあったっけ。…アウトプット以上にインプットにも力を入れないとダメだな。

P.137より。

 いわゆるオタクという人々がいる。自分が嗜好を持つさまざまな分野に対し膨大な知識を蓄えている、いわば知識方面での肥大者である。
 彼らが自分で書いているブログを読むと、その知識の該博なことに驚くことが多い。
 しかし、その知識が、社会に役立てられることというのは極めて希である。オタクたちだって、自分が得た知識は他人に聞いてもらい、感心して欲しいことは一般人と同様だ。にもかかわらず、一般人たちはオタクの話を聞こうとせず、オタクたちが仕入れた知識はオタクたち同士の間でぐるぐると回って、それで終わりになってしまうことが多い。これは何でなのか。

 そんなの簡単。オタクの知識が社会から見て「どうでもいいもの」だからである。社会に役立てられないのは当たり前だし、オタク自身も自分の知識が社会から見て無意味であることをわかっている。まあ、時たまどういうわけか面白がられたりすることもあるんだけど。
 ところが、唐沢俊一「オタクと一般人との間で、フォーマットの統一が行われていないからなのである」という答えを導き出している。「フォーマット」の使い方が若干気になるが、要するに、オタク以外の人間にも伝わる説明ができるオタクがいない、ということらしい。…ここらへんは岡田斗司夫とともに「オタクの第一人者」として未だにマスコミに起用されることの多い唐沢らしい意見と言えるだろうか。唐沢が言うには、たとえば50代の人に堀北真希について説明するときには、『ケータイ刑事銭形舞』を持ち出すのではなく『篤姫』の和宮であると説明する気配りが必要なのだという。P.141〜142より。

 こういう“気配り”を、会話におけるフォーマット統一というのである。オタクに最も欠けている資質が、このフォーマット統一である。自分の知識を相手に伝えるとき、相手と自分の間には、まずベースとなる共通の知識、共通の価値観というものが設定されていなければならない。たとえ自分の知識がそこの知識と重ならず、自分の価値観は相手の価値観とまったく異なり、共通の世界基盤の上にいないということがわかっていても、そのことを相手に伝えるためにも、共通となる認識のやりとりの場を設置し、整備しなければならないのである。

 でも、それだったら、唐沢も福田沙紀について説明するときに「美少女クラブ31」を持ち出さない方がいいような(詳しくは5月21日の記事を参照)。あの文章を読んでいたら唐沢が福田沙紀のことを知らないのが一発でわかっちゃったもんなあ。あと、最近の唐沢俊一ごく限られた価値観の中で活動していることが多いような気がするのだが。マニアックな雑誌での連載といい劇団での客演といい。「トンデモ本大賞」の会場の「できあがった感じ」を思い出す。

P.142より。

 オタク文化と今、呼ばれているものは、この、前準備を全部取っ払い、いきなりオタク情報を投げ掛け合う、というところで成立している。
 アキバという、歩いている人間のほぼ九割が自分と同じフォーマットで会話している場所に集まり、一目で同族とわかるファッション(チェックのシャツに肩掛けカバン)に身を包んでいれば、前置きなしに
「○○たん、萌え〜!」
と叫んでも、誰も不思議には思わない。いわば、アキバはオタクにとり、フォーマット済みの場なのである。

ははははははは!!!

…もう、笑いすぎて腹が痛い。この「アキバ」って一体どこのことなのよ。少なくとも秋葉原のことじゃないよね。自分は秋葉原にはわりと多く行っている方だと思うけど、「○○たん、萌え〜!」と叫んでいる輩など見たことないし、そんな風に叫んでいる人間がいたとしたら万世橋警察署のおまわりさんが駆けつけます。あと、いかにもなオタクって実はそんなに見かけないけどなあ。外国人も多いし。…いやあ、凄いなあ。「オタク第一世代」の代表(?)が語る「脳内アキバ」。

P.142〜144より。

 私の記憶では、このフォーマット済み文化が台頭し始めたのは、七〇年代末の、『宇宙戦艦ヤマト』の劇場公開の頃からだったように思う。あの時分、映画館の前に立っていると、いきなりスケッチブックを広げてこちらの目の前に差し出し、
「これ、僕の描いたヤマトの改造案なんです」
と話しかけてくる人がいて、驚いたものだ。まだ、
「あなたもヤマトがお好きですか」
と“挨拶”を前置きに話しかけてくるのはいい方だった。
 それまで横のつながりを持たず、引きこもりに近い形でアニメや特撮映画の知識を収集することだけに没頭していたオタク(まだそのような言葉はなかったが)たちが、『ヤマト』ブームで、街へと進出し始め、自分と同じような仲間がたくさんいることを知り、嬉々として“横のつながり”を持とうと話しかけてくる。それはいいことだったかもしれないが、逆に、前置きなしに話が通じる相手がこれだけたくさんいる、と思ったことで、オタク以外の、一般社会人たちとの共通基盤を作る必要性を認めなくなってしまった。これは、今にして思えば一大痛恨事だったと思う。
 一般社会人たちは、同じ日本人でありながら、自分たちと話のまったく噛み合わないオタクたちを気味悪がり、また、オタクたちは、一般社会人と話が通じないことを、むしろ自分たちのエリート意識(多少歪んでネジ曲った)をくすぐる事実として認識し、互いの溝はどんどん深くなっていった。
 もちろん、一般社会人側にも、オタクたちの方へ一歩歩み寄ろうとする姿勢が必要だとは思う。しかし、日本社会において、これだけ基盤を広げたオタクたちが、まだ実際には差別的な扱いを(殊に心理上において)受けていることは、その地位向上や、何よりオタクたちのリアル人生の充実において、大きな損失になっている。
 岡田斗司夫眠田直らと一〇年ほど前にオタクアミーゴスというユニットを結成し、オタ知識を日本の文化向上のために役立てようといろいろ活動してきた身として、このオタク・非オタクの両サイドの意思の疎通の障害というのがいかに大きな壁であったか。
 自分の蓄えた知識、仕入れた情報を死蔵しないためにも、博覧強記人たちはオタクの踏んだ轍を再びたどってはいけない。知識はアウトプット、それも一般社会人に向けてアウトプットして初めて有益なものとなることを覚えておいてもらいたい。

 …まさか『博覧強記の仕事術』というビジネス書でオタク史について長々と語るとは。ビジネスマンもビックリしていることだろう。しかし、この文章にはいろいろと気になるところがある。
 ひとつめ。『ヤマト』のスケッチブックの話は、『裏モノ日記』2002年7月11日にも出てくるが、「映画館の前に立っていると」という説明がどうも曖昧だ。岡田斗司夫も『ヤマト』が公開されたときに劇場の前に徹夜で並んで、時間を潰すためにマニアックな話をしたと言っていたが、唐沢も岡田と同じようなものなのだろうか。それにしても、この日の日記に出てくる「オタク史座談会本」はちゃんと出ているのか。
 ふたつめ。『ヤマト』のブームでオタクたちが同好の士を見つけたせいで一般社会人と話が通じなくなってしまった、という話の流れは不自然だろう。じゃあ、『ヤマト』ブームがなかったら話が通じるようになっていたのだろうか? 唐沢俊一は「ガンダム論争」の時も「『ゴジラ』が成功したせいでSFファンが非SFファンをぶちのめすようになった」という「風が吹けば桶屋が儲かる」式の理論を展開していたが(詳しくは2008年11月20日の記事を参照)、基本的に「ブーム」というものが嫌いなのだろうか。
 みっつめ。「オタク」が「一般社会人」から気味悪がられるようになったのは、宮崎勤事件以降のことではないか。
 よっつめ。「オタク」であることと「一般社会人」であることは両立する。どうして両者を分けて対立させようとするのかわからない。
 いつつめ。オタクアミーゴスって「オタ知識を日本の文化向上のために役立てようといろいろ活動してきた」のか。「オタク・非オタクの両サイドの意思の疎通の障害」を取り除くために努力してきたのだろうか。そんな高尚な目的があったとは。岡田さん、眠田さん、そうだったんですか? 単に面白映像を見るだけの集まりだとばかり考えていたよ。申し訳ないなあ。
 

 …オタクに対する見方が間違っているだけでなく、「博覧強記人たちはオタクの踏んだ轍を再びたどってはいけない」という文章に見られるように自分の望んだ結論に導くためにオタクを都合よく利用しているのがひっかかる。なんだっていきなり「オタクたちのリアル人生の充実」なんか訴えているのか。アキバにしてもオタクにしても脳内でメイクしすぎだって。帽子の中は夢工場なのかも。


次回で第3章の検証を終了する予定。

おまけその1

おまけその2

脳内メーカー オフィシャル・ハンドブック

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ケータイ刑事 銭形舞 DVD-BOX

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博覧強記の仕事術

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