唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

第3章だ、YOU!

なんだかジャニーさんっぽい。


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 今回から唐沢俊一『博覧強記の仕事術』(アスペクト)第3章「集めた情報を上手に発表しよう」の検証に入る。


 第3章のアタマには、「不況の時代に最も強い資産は情報と知識である」という話が書いてある。P.128〜129より。

 ただし、誤解しないでほしい。私は文筆業という、最もダイレクトにその情報と知識を収入に替える商売をやっているが、ただ単に原稿を書いて、その原稿料で食べているという仕事は不況に最も弱い職業である。文筆業を、単に文章でお金を稼ぐ商売という認識でいると、どんどん収入が減ってしまう。激減、と言っていい。
 文筆業で生活している人たちのほとんどが誤解をしているのが、情報を原稿に書くネタにしか使えないもの、と思っていることである。情報や知識は、インプットされることにより、その“人間”の個性を形作り、行動原理を変化させ、そして、そのインプットした情報や知識に、ある方向性を与えてアウトプットすることで、それらを持つ人間の“商品価値”を高めるものとなるのである。

 「激減」か。大変だなあ。それはともかく、よくわからないのは、世の文筆業者が「情報を原稿に書くネタにしか使えないもの」と本当に誤解しているのかどうか?ということである。一体どのような事実をもってそのような考えを持つに至ったのかさっぱり見えない。もしかすると、唐沢俊一本人が「情報を原稿に書くネタにしか使えないもの」と考えているから、「他のライターも自分と同じなのだろう」と決め付けているのかもしれない。唐沢俊一に限って言えば、安易にネット上の情報を頼ってしまい、前に書いた文章と矛盾したことを平気で書いてしまうあたり、確かに「情報を原稿に書くネタにしか使えないもの」と思っているのだろうけど。

 P.130で、「私の縄張り内のことに戻れば、趣味(オタク)分野はやはり不況に強い」として、任天堂カルチュア・コンビニエンス・クラブTSUTAYAを運営している会社)、虎の穴が好成績をあげていることを紹介した後で、P.131でこのように書いている。

 それに比べて、そういう知識や情報の、本来の発信元であるはずの出版業界の情けなさはどうだろう。この一年だけを見ても、『主婦の友』『現代』『月刊プレイボーイ』『論座』『諸君!』『エスクァイア』など、単に一雑誌というよりも、その出版社を代表していた、長い歴史を持つ雑誌がどんどん休刊している。

 片方の業界で好成績をあげている部分を取り上げ、もう一方の業界で不振である部分を取り上げるのは、はっきり言ってフェアではない。オタク分野だって不況の影響で苦戦しているところはある(GONZOとか)。ソニーもゲーム関連では売り上げが減少している。そもそも任天堂TSUTAYAとらのあなも本当に唐沢の「縄張り内」にあるのかと。あと、休刊した雑誌の中で『論座』は朝日新聞社を代表しているわけではなく長い歴史があるわけでもないと思う。『週刊朝日』、『朝日ジャーナル』→『AERA』の方が主流だろう。『プレイボーイ』も月刊の方だしなあ。

 で、それらの雑誌が休刊した理由を指摘している。P.131〜132より。

 これらの雑誌が廃刊した理由は明らかであり、要は熟年世代が雑誌を読まなくなってしまったのである。もともと、彼らが青年だった昭和三〇年代、四〇年代には、雑誌や単行本の数など、現在から比べれば微々たるものであり、そもそもこの世代には、博覧強記的情報利用が身についていなかった。現代の若者は実は文字情報に身も心もひたっていると言っていい。ただ、彼らの文字情報を得る媒体が紙媒体とは限らない時代になってしまっているということだ。
 だが、ネットにおいて情報中毒になった若者たちが、いったん、流れていく情報・知識ではない、本当に生き抜くために必要な知識を得ようとすれば、その収得先は本でなくてはならないはずだ(ネットでの情報が身につきにくいものであるということは先に理由を述べた)。

 「博覧強記的情報利用」とか意味不明なことを言われても。そもそも唐沢俊一は「博覧強記」の意味を間違っているんだし(詳しくは6月27日の記事を参照)。情報を上手く使えるかどうかは世代の問題じゃなくて人によるとしか言えないのではないか。
 なお、情報や知識を得るために本を読まなくてはいけない、ということが間違いであることについてはに理由を述べておいた。出版業界を批判したのを気にして一応フォローしたのかもしれないが。それにしても「本当に生き抜くために必要な知識」でない「トリビア」や「ムダ知識」ならネットで収得してもかまわないのだろうか。

P.132、P.134より。

 高度経済成長期時代に多く創刊された週刊誌、月刊誌のひとつの特徴は、当時の一般的中流社会人の願望に応えるべく記事の中に情報を盛り込んでいた。それは、“社会の動きに遅れないための基礎教養を雑誌でつける”というものだった。戦前や戦後の混乱期、庶民は圧倒的な情報弱者、教養弱者であった。経済成長期になって彼らが中流意識を身につけ、細かい面倒くさいことは省略して、出来るだけ手っ取り早く世間の動きに置いてきぼりにならないための基本的知識を身につけようとしたときに、それに応えた媒体が月刊誌、週刊誌だったのだ。
 従って、そういう雑誌の中の記事は、まんべんなく、全方向に向けられている必要があった。世界にもあまり類を見ない、政治論から性風俗記事までが一誌に詰め込まれている“総合誌”の伝統は、敗戦により情報・知識の占有階級だった上流社会の没落により湧き上がってきた、庶民の知的欲求のパワーによって成立していたのだ。

 「基礎教養を雑誌で身につける」、だよねえ。まあ、文章の乱れをいちいち気にしていたら大変なのだが、それ以上に気になるのが、唐沢俊一ヘンテコな歴史観である。
 唐沢は、高度経済成長期以降に雑誌が創刊され、庶民の間で広く読まれるようになった、ということにしたいようなのだが、戦前でも雑誌は広く読まれていたのである。たとえば、『キング』は発行部数100万部を超えていたし、いわゆる「総合雑誌」にしても『文藝春秋』や『中央公論』は戦前に創刊されている。あと、雑誌ではないが「円本」ブームというのもあったのだから、「庶民の知的欲求のパワー」は何も高度経済成長期になってから目覚めたものではない。…これらの事実は学校の授業で習うはずなのだが。ついでに付け加えておくと、高度経済成長期を象徴するメディアであるテレビの存在を無視しているのも気になるところだ。

P.134より。

 それから時代は移り変わり、いつの間にか日本には情報弱者の庶民なんて存在はいなくなってしまった。いや、自由に使える時間が山ほどある(現在の日本は上流の人間ほど忙しい)庶民はその時間をネットなどでの情報収集に用い、むしろ下層の住人の方が情報に関しては精通していたりする。こういう時代に、昔ながらの雑誌の作り方をしていれば、それは売れなくなる、広告収入が途絶えるのも無理はないのである。

 よく言い切ったなあ。今の日本に情報弱者がいないとは。日本中の人間が唐沢俊一のP&Gについて熟知しているのであれば、情報弱者が存在しないという話を信じてもいいんだけど。そもそも唐沢俊一自身が「情報弱者」なのでは。それに今の庶民は本当に「自由に使える時間が山ほどある」のだろうか。

同じくP.134より。

 現代人は知識・情報においてはすでに下駄を履かされている。もっとディープな情報、マニアックな知識を求めているのである。ネット上の、流れる水のように消えていく情報でなく、本当に生活に活かすための知識・情報には逆に飢えている。。(原文ママ)取材の依頼があればアラブの油田にでも上野の外人パブにでも飛んでいき、そこそこの記事を書くライターよりも、限られた範疇であっても確かな鑑識眼を持ち、これがいい、と絶対の判断を下せる評論家をどれだけ揃えるか、で今後の雑誌の生き残りは決まってくるだろう。

 最後らへんは一体何の話なんだという感じだが、ひとつひとつ指摘していく。まず、ネット上の情報は実は消えにくい。一度ネット上のあがった情報を完全に消すことはかなり難しいということはみなさんご存知のはずだが、唐沢俊一はそのようなことを考えて「流れる水のように消えていく」と言ったわけではなく、ただ単に「ネット上の情報は価値が低い」ということを言いたかっただけと思われる。次。これは前に書いたはずだが、知識を「本当に生活に活かすため」とか区別している限り本当の意味での「博覧強記」にはなれない。だいたい「本当に生活に活かすため」の知識かどうかをどうやって判断するんだ。最後。唐沢俊一は「そこそこの記事を書くライター」でも「絶対の判断を下せる評論家」でもない。まあ、もともと、唐沢は取材をあまりしない、取材に向いていない人なので、「絶対の判断を下せる評論家」になりたかったのだろうが、「限られた範疇であっても確かな鑑識眼を持ち」とはとても…。『ガンダム』と『エヴァ』について見当違いなことを言っているし、『ライ麦畑でつかまえて』をまったく理解できていないし、『昭和ニッポン怪人伝』を読む限りではメジャーなネタも十分に扱えていない。…まあ、それでも、何らかの「限られた範疇」では「確かな鑑識眼」を発揮しているのかもしれないけれど、今のところその「限られた範疇」を発見できていないのが残念である。

※追記 altnkさんにご指摘を受けたが、「下駄を履かせる」「実際よりも多く見せる」という意味なので、「現代人は知識・情報においてはすでに下駄を履かされている」という文章は意味が通らない。

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