唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

どーよ?第2章。

 唐沢俊一『博覧強記の仕事術』(アスペクト)第2章の検証、いよいよラストである。


 P.118では「現在の私の「ブログによる情報整理法」」として、「裏モノ日記」について語っている。…でも、「裏モノ日記」はブログじゃないんだけど。P.119より。

 私たち作家にとって、何が商品かというと、つまりは「発想」である。発想であり、視点であり、もっと言えば感想にすぎないものであっても、すべてを記録しておく。それが日常コラムとか気軽な読み物を注文されたときに生きてくるのだ。すごい深い考察や分析をしてもニーズに合わない。だから、私のWeb日記はとにかくすべてを記録しておこうと思っている。

 その割りには「トンデモ本大賞」でトラブルを起こしたときはボカして書いていたのだが。もう一方の当事者である大内明日香女史(『博覧強記の仕事術』の編集者でもある)が洗いざらい書いていたので、唐沢がボカしていたのがまるで無意味になっていて可笑しかった。それから「裏モノ日記」には間違いが多いので、当ブログ、藤岡真さんのサイト、それに唐沢俊一スレッド@2ちゃんねる一般書籍板でも毎日のようにツッコミを喰らっているが、それについては、

私の日記は一見精密に見えて、案外いい加減である。

と考えればいいのだろうか。…まあ、「精密」とはとても思えないのだが。


P.122には「愚作・駄作を読むと視野が広がる」とある。P.122〜123より。

 ビジネス書というものの多くがうたっている基本テーゼのひとつに“無駄をはぶけ”というのがある。この無駄をはぶく、という行為のひとつに、
「すでに評価の定まっている良書を選って読め」
というのがある。ビジネス書に限らない、ショーペンハウエルなども『読書について』の中でそのようなことを言っている。人生という時間は有限なわけで、その限られた時間を出来るだけ効率的に過ごすには、悪書・駄本を読んで無駄にする時間をはぶくことだ、と。
 残念ながら、このような能率を問題にしている限り、人生の本当の喜び(知的快感)を味わうことは出来ない。無駄があって初めて、人生は楽しいものになる。と言うか、何が良書で何が悪書かについて、人の基準を頼りにしている限り、自分自身でものの価値観を見つけ出し、創り出していく博覧強記人にはなれないということだ。
 例えば、ミステリーを『このミステリーがすごい』(宝島社)とか、「週刊文春ベストミステリー10」(文藝春秋)などのベストテン作品を選んで読んでばかりいると、永久にミステリーの面白さはわからない。愚作も読み、駄作も読み、つまらない作品を読むからこそ、「なぜ、この作品は傑作であるのか」わかるのだ。“つまらない作品を読むのはムダ”と思うか、“どこが面白いのか理解せずに面白い作品を読むのはムダ”と思うかの違いだが、話をして面白いのは絶対に後者の人間である。面白さというものの本質がわかっているのだから当然だ。

あれ? P.85〜86ではこんなことを書いていたよね?

 最初は、やはり基礎体力として、たくさん本を読む、たくさん知識を仕入れるということは必要だ。
 ただ、それを延々続ける必要はない。
 世の中では、「一日二冊、ミステリーの本を読むことを何十年続けてきた」みたいな人を「偉い」と思うようだが、私に言わせれば、「いい本と悪い本を区別するための勘や技術を養ってこなかった人」としかいいようがない。
 先にも述べたように、人に与えられた時間は一日二四時間でそれは皆平等である。そして一生の中で、体調などを気にせずに思う存分、本が読めるのは、せいぜいが二十年にすぎない。その貴重な時間を有効に使うには、いつまでも「全部読む」みたいな態度でいることは決して褒められた行為ではない。
 「観もしないで批評をするな」とはよく言われることだが、例えば剣の達人は、剣士を一目見て「こやつ、出来る」「出来ない」というのがわかる。剣を交える必要はない。だから、そういうのも含めて、あなたの審美眼を磨くべきなのだ。
 それがいわゆる、情報の「ティッピング・ポイント(閾値)」なのだ。そこまでくれば、あらゆる情報を詰め込む必要はない。あなたの審美眼をもって、情報を取捨選択し、必要だと思ったものだけを取り入れるべきだ。
 もちろん、それには例外もある。「面白くないだろう」と思ったものが実は面白いこともある。しかし、それはそうとわかった時点でそれを再度取り入れればよいことである。
 「いつどこで隠れた傑作が見つかるかもわからない」というわずかな可能性に賭けてすべての情報を強制的に入れるよりも、入れる前から自分で選別して、厳選されたものを観る方が、はるかに人生の時間を有効に使えるのだ。

 まるで逆じゃないか。前の方では効率を優先する読み方を勧めているのに、今度は「能率を問題にするな」と書いてある。『博覧強記の仕事術』の検証を始めてから何度矛盾点を指摘しているんだろうか? 一貫性のある文章を書けないのでは博覧強記人どころか社会人としても怪しいものだ(面接試験も無理なんじゃ?)。なお、この点については藤岡真さんも「机上の彷徨」7月8日で指摘しておられるので参照していただきたい。


 その後で、今はDVDで好きな作品を選んで観ることが出来るが、昔は名画座のオールナイトでお目当ての一本を観るために観たくもない作品を観なければいけなかったという話をしたうえで、駄作を見たおかげで批評眼が養われた、という話をしている。唐沢はアニドウの上映会でも駄作の中にテックス・アヴェリー(唐沢はそのように表記している)の作品があると輝いて見えたとも書いている。
 何とも奇遇なことだが、自分も唐沢と同じ経験を最近している。カートゥーン・ネットワーク『カートゥーン・クラシックス』という昔のアニメ専門の番組をやっているのだが、そこでテックス・エイヴリーの作品がかかることがあるので、自分はエイヴリーの作品観たさに『カートゥーン・クラシックス』を観ているわけなのだ(実はこの記事を書きながら観ていた)。要するに今でもそういう現象は起こりうるので、「近頃の若い者は…」という理屈を安易に振りかざすのはやめておいた方がいいのではないかと思う。…俺も漫棚通信さんが買ったDVDボックスを買おうっと。
 それに「愚作・駄作」を読むことを勧める必要なんてない。単純に「たくさんの作品を読め」と言えばいいのだ。たくさんの作品を読めば駄作や愚作にぶちあたるのは必然なのだから。

P.125〜126より。

 優れたものしか身につけていない人間は、視野が狭くなる。その作品の素晴らしいところばかりを語るが、「なぜ、素晴らしいのか」がわかっていない場合が多い。やはり、比較対象というものは絶対必要なのだ。まずいラーメンを食べたことがあるからこそ、うまいラーメンを語ることが出来る。
 そして、うまいラーメンがあれば、まずいラーメンはいらないのか、というとそうではない。そのまずさの繰り返しが、ラーメンを食べ比べ、食べ歩いていた若い頃の経験に直結し、まずいラーメンの思い出(何しろうまいラーメンよりまずいラーメンの方が格段に多い)が、青春の思い出と重なり合って、郷愁につながるのである。

 「優れたものしか身につけていない人間は、視野が狭くなる」って本当なんだろうか。よくわからない。ただ、「優れたものを知らない人間は視野を広くしようがない」のは確かだろう。唐沢俊一は「優れたもの」を知らないから、トンチンカンなことを言ってるんじゃないか?と思ってしまった。何せこの人は『ダーティーハリー3』以降のクリント・イーストウッドの映画を観ていないんだからなあ(このことは後日記事にする)。あと、ラーメンの話を読んで、岡田斗司夫が『オタク座談会』で自分こそが「本当のグルメ」だと言って、一般のオタクのことを「Spa王が一番美味いと思っている」と揶揄していたのを思い出した。…『オタク座談会』も読み返す必要があるかな。


 これにて第2章の検証は終了。ようやく折り返し地点まで来た。

 さて、以前書いた通り、しばらく東京を離れるので、7月末までブログの更新が不定期になります。一応、手元に資料が無くても書けるネタがあるのでそれをやるつもりですが、唐沢俊一が「裏モノ日記」でヘンなことを書けばそれをネタにするかもしれません。金田伊功について妙なことを書かなきゃいいんだけどなあ。

ロード 第二章

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博覧強記の仕事術

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