唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

教養より明日より愛が欲しい。

ガセビア…永遠に。

エンディングと来たら当然予告も。

サブタイトルがいちいちカッコいい。回が進むごとにテンションが上がっていくのが素晴らしい。千葉繁の雑魚キャラは大好物。


 唐沢俊一『博覧強記の仕事術』(アスペクト)第2章検証の続き。


 P.110には、「欲しいときに引き出せるのが「使える知識」」とあって、国会図書館大宅文庫が素晴らしいのは蔵書数が多いからではなく、蔵書が整理されて取り出しやすいからだ、という話をしている。P.110〜111より。

 本来の図書館というのは、蔵書が多いだけでは意味がないのだ。それよりも整理、分類がきちんと出来ていて、取り出しやすくなっているということの方が利用者にとっては大事なことだ。蔵書が多いためにほとんどの資料が「閉架」になっているより、少ない資料でもきちんと整理されていて「開架」になっている方がずっと便利なのだ。
 そのあたりは図書館の司書のセンスによると思う。センスのよい司書がいる図書館は使い勝手だけではなく居心地もいいものだ。

 まず、おかしいのは前の方で国会図書館大宅文庫を褒めているのに、「閉架」より「開架」の方が優れているかのように書いてあるところ。国会図書館大宅文庫閉架なんだけど。それから、「閉架」にある本だって司書に頼めば取り出してくれるのだから、別に「閉架」だからといって利用しにくいということはないはずだ。「蔵書が多いためにほとんどの資料が「閉架」になっている」という理屈もよくわからない。あと、「開架」「閉架」の基準を司書個人で決めているのかどうか。図書館全体で決めているのではないか?

P.111より。

 しかし、個人でそこまでの整理をするのは難しい。いや、不可能と言ってもいいだろう。
 例えば、田舎で広い家を建て、書庫を作ったとする。それじゃ、本を分類して入れようとなると、それだけで私の場合は数年かかってしまうだろう。分類法を考えるだけでも大変で、仮に図書館と同じ分類にしたとしても、それでは自分の書庫を建てた意味がない。図書館の方がずっといいことになりはしないか。だから、蔵書家というのは、私も含め、ほとんどの資料が死蔵されることになってしまう。自宅を訪れた人に「これだけ本があるなんて凄いですね」「さすがですね」という、いわゆる見せ本としてはいいかもしれないが、使いやすさという点では、蔵書は多くなればなるほど不便になっていく。
 コレクターとしての唐沢俊一の本は今後も増え続けると思うが、結局のところ、仕事に使う本というのは、私ほどの蔵書を保っていても、実は本棚一本、二本分にすぎないのである。

 ビジネス本で蔵書を処分する言い訳や分類しない言い訳をされてもなあ。普通の本なら蔵書を分類する方法を書くものだと思うけど。自分が分類しないからって他の蔵書家も同じだと決め付けるのもどうだろう。
 それにしても「見せ本」というのはいかにもみみっちい考え方だ。唐沢俊一の場合、蔵書が多いのに間違いばかりを書いて、ネット上からパクってばかりいるんだから、不思議で仕方ない。いい仕事をしていれば「さすが」と思えるけど、そうでなければ「どうして?」としか思えないよ。
 あと、プロのライターとして仕事に使う本が「本棚一本、二本分」というのは少なくないか?と思う。


 P.112には「情報の重要度は自分で決めろ」とある。P.112、P.113より。

 周囲と同じことをやる、というのでは、人として生まれてきた甲斐がないではないか、と私などは思ってしまう。やりたいことを見つけるのが人生というものだ(かと言って、いつまでも自分探しなどをしているのもどうかと思うが)。
 そう考えると、本を読むのも、情報を手に入れるのも、勉強するのも、学問するのも、みんな、自分の人生の最終目標のためだと言えよう。
 その最終目標は人それぞれでいいのである。何も周りと同じ人生目標を持つ必要などどこにもない。

 何となく人と一緒に何かをして、同じものを食べて、同じ本を読んで、ということをしていると、結局「オレの人生って、何だったんだ?」ということになる。
 たった一度の人生、自分の好きなように生きるべきだ。
 あなたが好きなものは何か。それを知り、それを学ぶのが、大人の勉強なのではないだろうか。

 そんな普通のことを言われても。唐沢俊一は『世界に一つだけの花』の歌詞のような「ナンバーワンよりオンリーワン」という考え方を批判していたんだけどなあ。なんでこんなつまらないことを言うんだろう。…しかし、当の唐沢本人は何を「人生の最終目標」にしているんだろうか? 「古本マニア」でも「雑学の神様」でも「鬼畜」でも「オタクの第一人者」でも何でもないんだから。


 P.114では私の少年時代の「超」整理法」として、どうして雑学に興味を持つようになったか、「重要なもの」より「重要でないもの」を保存しておくようになったことについて書かれている。この辺のことは今までの著書の中でおなじみのことなので割愛しようと思ったら、P.115より。

 私にとっては、例えば「少年マガジン」の大伴昌司さんの記事は、「大伴さんの記事を読んだ」というだけで完結してしまう。しかし、無署名・無記名の、本当かどうかすらわからないような一行知識というものは、自分の中に消化吸収することが出来る。もっと踏み込んで調べてみようとか、ホントかウソなのか調べてみようとか、これには関連した知識が欲しいなとか。不完全なるがゆえに、補完していく作業が楽しかった。どんどん自分の好奇心、知識欲のおもむくままにやっているうちに、いつのまにか今の私の原型が出来上がっていた、というわけだ。

 本当に「一行知識」を「補完していく作業」をやっていたとしたら、検証blogなんてやらなくてもよかったと思う。


 P.116には「青春時代に感じた、B級知識への「使命」」とある。人間には学校で教わる教養のほかに、「女を口説くときにどうするか」「セックスはどうやってやるのか」などといった「裏の教養」が必要だと書いている。もっとも、P.116にはこのようにあるので混乱してしまう。

まったくそういう人たちは、“生活に必要な教養”だけはなかったが、他の遊びや楽しみのことに関してはほぼ百科全書のようにいろいろ知っていた。


 “生活に必要な教養”=「裏の教養」ではないのだろうか。


 そして、「裏の教養」を伝えていく人が現代ではいなくなってしまったと書いている。P.116〜118より。

 その伝統というものが昭和四〇年代で崩れていって、住み込みの使用人もいなくなれば、居候なんて存在もいなくなった。裏の、いけない教養の伝統はここで伝播役を失ってしまったのである。
 その役割を誰かが担わなくてはいけない、と思った。これは私の仕事だ、と。何の根拠もなくそう思った。このままではそういう裏の教養が途絶えてしまう。雑多な知を今のうちに体系化して整理しておかないと、と強く感じた。一生のうちに一度はこういう、どうしようもない「神の啓示」としかいいようがない体験がある。人の一生というのは、こういう些細なことで決まっていくものだ。
 私がこの使命を感じたのは、高校生のときである。またその頃、裏の知識に、セックスとか口説き方とかそういうものばかりでなく、アニメ、特撮といったいわゆる「オタク知識」というのが入ってきたのである。
 まさかそのときは、後々今のような巨大な「オタク産業」が出来るとはつゆ思わず、「こういう知識もいずれは消えていく裏の知識なんだ」と私は思い、せっせと整理・分類していった。受験勉強をしながらそんなことをしていたので、これは大変だったが、いい息抜きになったことは確かである。
 その作業は楽しくて仕方なかった。その頃は、まさかそれで食べていけるなどとは思っておらず、ただ単に、好きで面白くてやっていただけのことである。だからこそ私は皆さんに「好きなことをしなさい」と勧めるのだ。
 私は些末な知識や雑多な知識が好きで仕方なくて、いろいろ集めていくうちに、本当に世の中はこういう雑多な知識で動いているのではないか、という風に思うようになったのである。

 唐沢俊一が自らの過去について語るたびにおかしなことが起こるというのは当blogではすっかりおなじみになった現象だが、今回もひっかかるところがいくつもある。
 まず、高校生のときに「裏の教養」を伝えていこうと思ったのなら、大学でもその手の学問(民俗学など)を勉強しようと考えるものではないだろうか。まあ、「裏の教養」を扱っている学問の存在を知らなかったとしたら不幸だとしか言いようがないが。唐沢は東京に出てきて、アニドウに入ったり古本を買ったり名画座に通ったり、あと演劇にも興味があったようだけど、これも「裏の教養」のためだったのだろうか。
 次に、「裏の教養」というものは無くなりはしない。今の若者が女の子の口説き方やセックスのやり方を知らないということがあるわけがないんだから。それに、自分は学生時代に寮生活を送ったことがあるので、年頃の男の子が集団になればその手の話がいくらでも聞けることは経験上よく知っている。平成の世の中でもそうだったんだから「昭和四〇年代で崩れていって」というのは、はっきり言ってウソだろう。…そもそも、唐沢俊一は「裏の教養」に通じているかのように言っているけど、セックスの話題になると妙に幼くなるからなあ。「世間知らず」とまでは言わないとしても「人間通」という感じはしない。
 それから、「裏の教養」や「オタク知識」を体系化しているのなら、早いところ披露してほしいところだ。「体系化されたガセビアというのは何やら凄そうだが。
 あと、これが一番大事なことだと思うけど、「裏の教養」を語るためにはしっかりした教養がないとダメなのだろう。そして、教養を身につけるためには好きなことだけやっていてはダメなのだろうね。


 次回で第2章の検証を終了する予定。

ユリア・・・永遠に

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博覧強記の仕事術

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