唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

オリエント工業殺人事件。

被害者はラブドール

 …なんだか今回はタイトルといい受けの文章といい本家「裏モノ日記」っぽい。そういえば『<降りられんと急行>の殺人』というのもあったな。


唐沢俊一の公式サイトによれば、唐沢の夏コミでのブースは「M-25b」とのこと。「島」の角なので見つけやすい。ちなみに自分は「M-05a」。同じブロックだ。なお、同じ日に唐沢は18時から大阪でイベントがあるので早めに撤収するらしい。コミケ直前になったらメールでアポを取るから挨拶はできると思うけど。
・雑談。TSUTAYA渋谷店のDVD売り場に行ったら護法少女ソワカちゃんの特設コーナーがあって、思わぬところに思わぬものが、と驚いていたら紹介文に「マンガ評論家の伊藤剛も大ファン」とあったので笑ってしまった。TSUTAYAの店員さんもやるなあ。
・そういえば、唐沢は先週号の『週刊現代』の書評で『いつまでもデブと思うなよ』を「伝説のダイエット本」と持ち上げていた。…まあ、確かにある意味では「伝説」なんだろうけど。


 では本題。唐沢俊一『博覧強記の仕事術』(アスペクト)第2章の続き。P.103には「ネットで必要なのは検索能力なのである」とある。

 ネットユーザー間に、いつの頃か、「とは検索」という言葉が定着した。要するに、ネットである用語の意味を調べるとき、その用語の後に「とは」とつけて検索すると、その意味を解説しているサイトにたどりつく可能性が高い、ということである。私もこれはネットで検索エンジンを使うようになって、いろいろと試行錯誤の上で「とは」をつける工夫を編み出し、自分は何と頭がいいのだろう、といささか自慢をしていたら、何のことはない、ネットを仕事などにしょちゅう使っている人たちは皆同じことをやっているということを後で知って苦笑した。しかし、誰それがこの方法を発明したというのではなく、自然発生的にこういう方式が定着していったというのは面白い。

 他にも「自分は何と頭がいいのだろう」と思っていることがあれば気をつけた方がいいかもしれないね。

 このあと、「ネットでは調べたい単語の意味ひとつ、すぐには出て来ない」と言っていた「ある高名な女流作家」(誰?)は「ネット使いのスキルが低い」と批判したのに続けて、このようなことを書いている。P.104より。

 もちろん、ネットは万能ではない。その情報に過大な期待をするのは誤りである。だが、うまく使いこなせさえすれば、これほど便利なツールはない。問題は、ネットで情報を簡単に得られる快感に酔ってしまい、サーフィンを続けるうちに、最初に自分が調べたいと思っていた事項とはまるで関係ないところまで流れ着いてしまう、ということだ。
 ネットの利点は、使えば使うほど自分の頭の中に情報量が増していくのが実感できるその「面白さ」であり、欠点もまた、使えば使うほど、本来の目的を忘れて、ネットで検索を続けること自体が目的となってしまうことである。
 あくまでも、自分が一体何を目的としてネットを使用しているのか、そのことを常に忘れないようにして利用すべきなのである。

 …うーむ、これって「ムダ知識」を否定しているのと同じだよねえ。余計な情報を仕入れるなって言っているんだから。…しかし、必要な情報であるかそうでないか、というのを調べる前から判断することはできないし、それに本来の目的とは関係ないところを調べているうちに、重要なヒントを見つけるということは珍しくない。自分も検証していくうちに思わぬところから突破口を見つけたことは結構あるのだ。「博覧強記」を目指すのであれば、とにかく多くの情報を仕入れるべきなのであって、情報量を制限しようとするアドバイスは逆効果でしかないんじゃないか?と思う。…しかしまあ、とうとう「ムダ知識」まで否定したか。


 P.105には「他人のブログで「視点」を拾え」とある。ネット上で公開されている意見の中には自分とは全く違う考え方があるので参考になる、というわけである。その一例として、映画『オリエント急行殺人事件』の音楽についての話が書かれている。P.106〜108より。

 例えば、『オリエント急行殺人事件』(一九七四)という映画がある。社会派として知られたシドニー・ルメット監督が久々に撮った娯楽映画で、豪華なキャストや衣装などが話題となったが、この映画についている音楽がまた素晴らしい。リチャード・ロドニー・ベネットという人が作った音楽で、英国アカデミー作曲賞を受賞した、軽快かつ心はずむ音楽だ。
 私はその映画を劇場公開のときに観、「キネマ旬報」などの映画の批評を読み、その音楽が絶賛されていることを知って、自分の感覚がその評価に一致することに満足し、それ以降、この映画の音楽に関しては何の疑問も抱いていなかった。
 ところが、初めて観てから三〇年以上経って、その若い人が書いている映画ブログには「この音楽は映画の内容とまったく合っていない」と、ケチョンケチョンに書いてあった。 要するに、
「これから殺人が起こるんだから、もっとミステリアスなムードを高める音楽をつければいいのに、どうしてこんな軽やかな音楽をつけるんだろう」
というようなことである。
 そのブログを読んだときに、正直私は
「若造が何を言っておるか。物知らずめが」
と思ったものだった。こんないい映画音楽がわからないのか、と。
 ところが、その後、その映画のDVDのオーディオコメンタリー(音声による解説)で、リチャード・ロドニー・ベネット本人が言うには、
「私は反発を前提として、あえてそういう音楽をつけた」
とのことだった。つまり彼は確信犯だったわけだ。
 その証拠に、当時ミステリー映画ではベテランの音楽作家、バーナード・ハーマンヒッチコックの『サイコ』などの音楽を担当)はこの映画を観て怒り狂ったという。
「何で殺人の映画なのに、こんなに明るい音楽をつけるんだ」
と言って試写室から出て行ってしまった、というエピソードが残っている。
 つまり、この映画を何の前提もなしに観れば、そのブログの若者と同じ感想を持つのはむしろ当然なのである。理解するにせよ、いい音楽だ、と思うのは一瞬後で、まずはエッ、と驚くのが“正しい”聴き方だったのだ。これは鋭く、大事な視点である。おそらく私の周囲のプロたちで、そのことについて言及した人間はいない。
 この出来事は私にとって少なからずショックであった。初めてこの映画を観てから三〇数年が経っているが、私は一度もそんな感想を持ったことはない。また、この若者と同じ感想を一度は持たないと、「あえて違う雰囲気の音楽をぶつけた」ことを褒めることもできない。
 私にはその若者並みの発想もなければ、そこに気がつく目も耳もなかったということだ。いかに先入観が私の目と耳を曇らせていたか。

 唐沢が取り上げているサイト(ブログではない)は“matsumo's Home Page ”のことだろう。唐沢は「裏モノ日記」2006年3月22日でこのサイトの『オリエント急行殺人事件』の感想をかなり厳しく批判している。

昨日、ネットでビデオ評サイトで『オリエント急行殺人事件』を評しているところを見つけた。これがまあ呆れる半可通で、
「女優さんですが,上記に上げた役者さん達(唐沢注:イングリッド・バーグマン、バネッサ・レッドグレーブなど。ご丁寧に”バークマン”“レッドグローブ”と二人とも誤記している)は年寄りなので,もうどうでもいいという感じで,一番よかったのは,伯爵夫人を演じていたジャクリーヌ・ビセットで,品があって実にいいですね。年寄り女優のシーンなんか削ってもっと彼女のシーンを増やして欲しいと思いました(それにしても,バークマンがこの映画で助演女優賞をとったらしいのですが,私には??でした)」

「後,この映画のアガサ・クリスティの原作は読んではいないのですが(彼女の小説は私の趣味ではないので),冒頭の誘拐事件は何となく大西洋を飛行機で初飛行したリンドバーグ夫妻の子供の誘拐事件を参考にしているように思えました」
「それにしても,この映画を観てて一番違和感を覚えたのは,軽快なダンス曲を背景に列車が進むことです。この楽しそう曲と陰惨な内容とは全く合わない感じで,この手の映画でしたら,やはり,重々しく進む感じの曲が欲しかったです。また,列車の撮影に関しても,同じくオリエント急行が舞台になっていた「007/ロシアより愛をこめて」の方がスピード感があって,遥かに素晴らしいです。この映画のダンス曲でしたら,アニメ「銀河鉄道999」でしたら合うという感じがします」

などと、頭からシッポまでどうしようもない意見の羅列で大笑いしてしまうが、しかしこれと自分の批評との距離がどれほどあるのか、と考えたとき、私は戦慄する。全ての評論家が戦慄しなければいけないだろう。そう、紙一重なのだ。その一重の差は、自分の好き勝手が商品になるかどうか、の他者(編集者など)の値踏みだろう。

 ちなみに、唐沢は“matsumo's Home Page ”のことを

若い(二〇歳くらい?)の人が、自分が観た映画の感想を書きつけているブログ

としているが、“matsumo's Home Page ”の人ってそんなに若いようには思えないのだが。
 ここまでやっつけておきながら、リチャード・ロドニー・ベネットの話を聞いた途端に意見を変えてしまったわけなのだが、本当にベネットはそんなことを言っているのだろうか。そもそもオリエント急行殺人事件』のDVDにはコメンタリーはついていないのだ。ただし、特典としてメイキングがついていて、唐沢俊一「裏モノ日記」2006年4月29日でメイキングを観たと書いている。…オーディオ・コメンタリーとメイキングの区別がつかないのか、記憶力が悪いのか。
 では、メイキングの中でベネットが何を言っているのかというと、ベネットはシドニー・ルメットから「これは娯楽映画だ」「列車に合った音楽を頼む」と言われて「ワルツを使って列車を踊らせる」ことにしたのだという。
 それから、バーナード・ハーマンが『オリエント急行殺人事件』の音楽について「あれは死の列車だ。それなのにワルツを使うとは」と言ったというのはメイキングの中でも説明されているが、「試写室から出て行ってしまった」という話は出てこない。無意識に話を膨らませてしまったのだろうか。そして、ベネットはハーマンの意見についてメイキングの中で次のように話している。

ヒッチコック映画は心底怖い。『サイコ』の音楽など実に見事だ。だが本作は娯楽作品だ。恐ろしい映画じゃない、楽しむためのものだ。それにふさわしい音楽にした。

 …えーと、唐沢が書いていた「私は反発を前提として、あえてそういう音楽をつけた」とは違うようなんだけど。つまり、ルメットは『オリエント急行殺人事件』を「娯楽映画」として作ろうとしていて、ベネットはそれに合わせた音楽を作っただけなのである。それを「サスペンス映画」だと考えるとハーマンや“matsumo's Home Page ”のように勘違いしてしまうということではないのか。まあ、勘違いはしょうがないとしても、そのように考えるのが「当然のこと」とまでは言えないだろう。それに唐沢俊一が立場を変えているのはまったく理解できない。ベネットはそんな発言をしていないんだから。ちなみに、唐沢はP.105で次のように書いている。

 私や私と同じような「通」の人は、実は先達の言うことを鵜呑みにしてしまうことが多い。なぜなら、通は「物知らず」と言われることを恥とするからだ。淀川長治氏がこの映画のことをこう評している。蓮實重彦氏はこの映画の見どころはここだと指摘している……といった“ツボ”の部分を、それが定説のように無意識に引用し、自分の意見はその上に付け加える何パーセントにすぎないというスノッブさが映画マニアにはある。映画マニアの多くは映画評マニアでもあるからである。

 しかし、『オリエント急行殺人事件』の評価がグラグラしているのを見ていると、単に唐沢が他人の意見に流されやすいだけなのではないか?と思ってしまう。蓮實重彦の言葉をそのままパクってたしなあ(詳しくは2月3日の記事を参照)。

自分は『ドラクエ』の音楽っぽいなー、と思いました。


P.108より。

 その視点に気がつくと、その映画も新しい見方ができるようになる。つまり、あえてロドニー・ベネットにあのような曲をつけさせた監督の真意は何か、ということだ。

 つまりは、この映画は、レトロブームの先駆けで、七〇年代に三〇年代の風俗を再現した映画である。あの当時のイギリスの映画スターや舞台劇のトップスターを集めて撮った作品で、ミステリー映画の体裁を取ったオールスターキャストのバラエティ映画なのだ。現に、クリスティの原作では重要なポイントとなっている、部屋の向きによって鍵の位置が違う、などという要素は映画では完全にネグレクトされている。

 「イギリス」のスターだけ出ているわけじゃないけどなあ。それ以外の国の俳優も出ている(アメリカ4人、フランス1人、イングリッド・バーグマン)。そして、部屋によって違うのは「鍵の位置」ではなく「かんぬきの位置」。
 それから『オリエント急行殺人事件』という映画はミステリーとしてもちゃんとしている。オチを知ってから(大抵の人は知っているだろうけど)見ると伏線がしっかり敷かれているのがよくわかる。


P.109より。

 この出来事は私に、「素直な視点の大切さ」を知らしめた。いや、ひねくれた視線もプロには必要なのだが、プロはその自分の視線のひねくれぶりを誇るあまり、素直な視線しか持てない人物を馬鹿だと思ってしまうことがある。まず、素直な視線から入り、しかる後ひねくれる、でなくては、ものごとの本質をつかめない。

 物事を素直に見た方がいいのは確かだが、「私に」「知らしめた」って言うかなあ? 

P.109より。

 しかし、この映画ファンのブログが、惜しむらく「これっておかしいよね」というところで文章、すなわち思考の流れが終わっているところだ。
 彼がもし、もう少し踏み込んで考えて、「じゃあ、なぜこんなに軽やかな音楽をつけるんだろう。何か理由があるんじゃないだろうか」という疑問を持って、そこまで語れば、このブログの文章はきちんと「論」として成立したと思う。この監督が描きたかったのは、殺人ではないのではないか、と……だが残念ながら、ネットにおける評論というのは、大抵、この最初の疑問の段階で、疑問を感じたということを結論として終わってしまう。ここらへん、書籍と違い、編集者という人間がいないことの悲しさだろう。もし、ある程度しっかりした出版社で、ここで終わる論考を著者が出してきたとしたら、編集者はそれに
「論考が出発時点で終わっています。そこから、なぜこのような結果になったのかまで、論を発展させてください」
というメモをつけて著者に戻すはずだからである。
 プロまがいの、あるいはプロの批評もネットでは山のように読める。しかし、それはプロから観ると、新鮮でも何でもない。ネットの最大の利点のひとつは素人の新鮮な視点が拾えるところにあるのだ。

 さすが、『漫棚通信』さんからツッコミまでパクった人の言うことは違う。「素人の新鮮な視点」をそのまま原稿にしていたわけだもんね(『漫棚通信』さんは素人ではないけど)。最近の唐沢俊一の文章が「論」として成立しているのか?とか、唐沢の編集者は何をしているのか?とか思ってしまったけど。…あ、もしかすると、唐沢俊一は「ある程度しっかりした出版社」で仕事していないから、編集者もちゃんと仕事をしていないということなのか? 


 結局のところ、自分の考え方を持っていないと、いともたやすく他人に流されてしまうということなのだろう。「他人の視点」を拾ってそのまま影響を受けていたんじゃしょうがない。もちろん「他人の視点」が自分だけのものであるかのように言うのは論外。

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