唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ひとつ人の世の閾値をすすり。

ふたつ不埒な盗用三昧 みっつ醜いウソの数々 
よっつ夜中まで飲み歩く病み上がり いつついつでも上から目線 
むっつ無茶苦茶な自慢話 ななつ斜めに世の中を見る 
やっつやっつけで書いたコラム ここのつ心にもないことを言う訃報ネタ 
とうでとうとうトンデモさん じゅういち…


…悪行が多すぎて数え切れません。


 唐沢俊一『博覧強記の仕事術』(アスペクト)第2章の続き。

 P.78には「同じ本を繰り返し読むべし」という見出しがついている。P.78〜79より。

 本好きの人の中には、「一回読んだ本は二度と読まない」と豪語する人がいる。それは確かにたくさんの本を読むことができるが、実はほとんどの本の内容を忘れてしまう。一度読んだ本の内容は忘れない、という方がむしろ特異体質で、先に述べたように、人間は「忘れること」が特技なのである。
 たくさんの冊数を読むことは確かにかっこいいことではあるが、そういう人は意外と一冊一冊の本については詳しく覚えていない。

 「かっこいい」? 本をたくさん読んでいるとかっこいいのか。唐沢俊一はそんなつもりで本を読んでいたのか。読書家って「本を読みたいから読む」だけであってかっこつけたいから読んでいるわけじゃないと思うんだけど。「毎日ジョギングしたり筋トレしていてかっこいい」というのと同じくらいバカみたいな考え方だ。

P.79より。

 逆に、私のスタッフで、「一冊の本を一〇〇回読む」と豪語する人がいる。その人は確かに読んだ冊数は少ないのだが、読んだ本の内容に関しては、実によく覚えている。
 それはどちらを勧めるかというと、どちらでもかまわないのだが、私がここで言いたいのは、「冊数がすべてではない」ということだ。

 「どちらでもかまわない」のかよ! じゃあ、「同じ本を繰り返し読むべし」という見出しの意味はなんなんだ。…ビジネス本なんだからハッタリでいいんだ、という考え方もあるんだろうけど、話に一貫性を持たせないとハッタリとしても通用しない。こんなフラフラしているんじゃあ、堂々とウソをついていた方がまだマシなような気がする。まあ、「冊数がすべてではない」というのは確かだろう。『ビジネスマンの強化書』で「10万冊を読破した」と紹介されていた唐沢がこの有様だからね。

P.79〜80より。

しかし、本をある程度読みこなしていけば、本の重要度というのは冒頭を読んだだけでわかってしまうようになる。
 これは、「食べ物の最初の一口」と同じで、本も一口食べればわかる。もっと言えば、読まなくてもその本から発するオーラみたいなものが感じられるようになれば、本読みとしても一人前である。一時朝日新聞の書評委員をやっていたことがあるが、内容の優れた本は、実際に表紙からオーラが漂っている。もちろん、勝手な思い込みだが、この勘が案外、馬鹿にならないのである。

 …前々から思っていたのだが、唐沢俊一「と学会」の運営委員をやっている割りにはオカルト寄りの考え方をする人である。本からオーラが漂っていたらジュンク堂書店ブックファーストなんか大変なことになってそうだが。唐沢はヴァルター・ベンヤミンを読んでいないんだろうなあ。


 次に唐沢俊一「理解できない本は読む必要がない」と説いている。P.80、P.82より。

 どんなに面白い、頭のいい人の書いた本でも、自分にとって面白く語っていなければ、その人はあなたにとって素人も同然である。その本はあなたの勉強にはまったく役に立たない。
 ものすごい専門家よりも、それほどでもない人の方にマスコミがわんさか群がることがある。それは、アウトプット、説明がうまいからである。一般人に話すテクニック、技術、方法というのを心得ているから、専門家でなくても、わかりやすい話ができるのだ。そもそも、マスコミで話す程度であれば、高度に専門的な知識は不要で、一般人にわかる程度の内容をかみ砕いて話せればそれで充分なのである。

 「その人はあなたにとって素人も同然である」の意味がわからない。教えられる側が素人だからこそ問題なのに、どうしてこういう無礼なことを言うんだろう。教える側と教えられる側の相性というのもあって、山内一弘はバッティングの指導をするときに若手には高度すぎて理解できないことを言っていたために効果が上がらないこともよくあったらしい(山本浩二はベテランになってようやく山内の言っていたことを理解できたという)。
 あと、「それほどでもない人」が自慢しているのが面白い。唐沢俊一って話術に自信を持っているんだなあ。まあ、どうせ自慢するなら、クイズ番組で不正解になった時にウケを取ってほしいと思うけど(詳しくは6月28日の記事を参照)。唐沢俊一岡田斗司夫はオタク業界では話が上手いほうなんだろうけど、テレビで活躍している人と比べるとなあ。どうして2人とも「俺はしゃべりが上手い」アピールが激しいんだろう。

P.82〜83より。

 有名な話だが、田中角栄がゴルフを始めるとき、“入門書を三貫目(約一二キログラム)”読んだというエピソードがある。ゴルフの入門書は、ビジュアル系のものを別にすればだいたいA5サイズの二〇〇ページくらいのものが多いので、これが五〇〇グラムくらいとして、二四冊という計算になる。先に、勉強法の本ばかり買って読んではダメと書いたが、これだけ入門書を読んで頭に入れれば、まずはいきなりコースに出ても驚かないという自信はつく。角栄氏は、生まれて初めてコースに出たときから、人にフォームなどを教えたという。

 唐沢俊一はこの話を『ビジネスマンの強化書』でもしているが、そこでは角栄は入門書を「一貫目」読んだことになっている(詳しくは「トンデモない一行知識の世界OLD」を参照)。3倍になっているよ! それに唐沢は自分から「先に、勉強法の本ばかり買って読んではダメと書いたが」と書いているが、『博覧強記の仕事術』の別の部分ではこのようなことを書いている。P.54より。

 私が、勉強法や情報整理術の本をお勧めしないのには、もうひとつ理由がある。本を買ったらもう「やった」気になって、肝心の勉強をしない人があまりに多いのだ。その意味でも、勉強法の本はせいぜい一冊二冊にとどめ、後は肝心の勉強に力を注ぐのが正しい方法だ。

 くりかえしになるが、ハッタリをかますのなら一貫性を持たせて欲しいものだ。自分でも一貫性がないことがわかっているせいでオタオタしてしまっているのがみっともない。


 P.84には「勉強に必要なのは「枠」」という見出しがあって、自分のペースで勉強することが大事だと書かれている。P.85より。

 目的を自分で決めて、そこに到達できればどんな方法でもいいのだ。飛行機で行ってもいいし、車で行ってもいい。走ってもいいし、歩いてもいい。手段は何でもいいのである。

P.53〜54で書かれている内容と重複している。

 その道筋は、書いた人間にとっては向いているやり方かもしれないが、すべての人間にそれが当てはまるかどうかはわからない。緩やかな坂道をだらだらと時間をかけて走って目的に到達するのが好きな人もいれば、急な坂でも気合で登り切るのが性に合っている、とにかく一直線で行きたい人もいれば、曲がりくねった景色を見ながら寄り道して行くのが好きな人もいる。しかし、極論すれば、人生におけるレースでは、どのルートをたどっても、目的地に到達できれば、どのルートを使ってもよいのだ。模範解答、というものはない。

大事なことだから二度書いたのだろうか。あと、ちょっと可笑しかったところ。P.84より。

 プロが歩いてマラソンをゴールするのはカッコ悪いかもしれないが、欽ちゃんが歩いてゴールをするのは美談になり涙を誘う。

…いや、それは「自分のペースで勉強するのが大事」ということとは関係ないのでは。


 P.85の見出しは「情報の「ティッピング・ポイント」」。P.85〜86より。

 最初は、やはり基礎体力として、たくさん本を読む、たくさん知識を仕入れるということは必要だ。
 ただ、それを延々続ける必要はない。
 世の中では、「一日二冊、ミステリーの本を読むことを何十年続けてきた」みたいな人を「偉い」と思うようだが、私に言わせれば、「いい本と悪い本を区別するための勘や技術を養ってこなかった人」としかいいようがない。
 先にも述べたように、人に与えられた時間は一日二四時間でそれは皆平等である。そして一生の中で、体調などを気にせずに思う存分、本が読めるのは、せいぜいが二十年にすぎない。その貴重な時間を有効に使うには、いつまでも「全部読む」みたいな態度でいることは決して褒められた行為ではない。
 「観もしないで批評をするな」とはよく言われることだが、例えば剣の達人は、剣士を一目見て「こやつ、出来る」「出来ない」というのがわかる。剣を交える必要はない。だから、そういうのも含めて、あなたの審美眼を磨くべきなのだ。
 それがいわゆる、情報の「ティッピング・ポイント(閾値)」なのだ。そこまでくれば、あらゆる情報を詰め込む必要はない。あなたの審美眼をもって、情報を取捨選択し、必要だと思ったものだけを取り入れるべきだ。
 もちろん、それには例外もある。「面白くないだろう」と思ったものが実は面白いこともある。しかし、それはそうとわかった時点でそれを再度取り入れればよいことである。
 「いつどこで隠れた傑作が見つかるかもわからない」というわずかな可能性に賭けてすべての情報を強制的に入れるよりも、入れる前から自分で選別して、厳選されたものを観る方が、はるかに人生の時間を有効に使えるのだ。

 唐沢俊一は「オタク」とか「マニア」というものを全く理解していない。自分の好きなものに対して情熱を傾けるということがわからないのだ。「一日二冊、ミステリーの本を読むことを何十年続けてきた」人はミステリーを好きだからこそ読み続けてきたのであって、「いつどこで隠れた傑作が見つかるかもわからない」などというケチな考え方に囚われているのではない。駄作だろうと傑作だろうと読むのだ。他人からどう思われようと、何よりも楽しいから続けているだけなのである。それがミステリーに限らず「オタク」とか「マニア」というもののはずだが、世間では「オタクの第一人者」だと思われている唐沢がそれを理解しないどころか軽蔑するかのような態度をとっていることに呆れ果ててしまう。今まで生きていて何かを好きになったことがないんじゃないか? 
 で、唐沢は「審美眼をもって、情報を取捨選択し、必要だと思ったものだけを取り入れ」ているらしいが、残念ながらそれは上手く行っていない。そのことは当ブログの記事を適当に読んでもらえばすぐわかることで、『エヴァンゲリオン』もマイケル・ジャクソンも『サタデー・ナイト・フィーバー』も『ライ麦畑でつかまえて』も『ゴジラ』も『ウルトラマン』も全くわかっていないではないか。そんな人が「審美眼」を語る資格はない。唐沢がオタクではないことは言うまでもないが、唐沢の言うとおりにしても「博覧強記」にはなれないのだ。実際のところ「「一日二冊、ミステリーの本を読むことを何十年続けてきた」みたいな人」の方が唐沢よりもずっと「いい本と悪い本を区別するための勘や技術」はあると思うしね。唐沢が剣法使いだったら、あっという間に脳天からまっぷたつに割られているところだ。
 そもそも「情報のティッピング・ポイント」が本当にあるとしても、それはどのように判断するのか。「もういいや」と自分で判断するしかない、きわめて曖昧な基準であると言わざるを得ない。そのようなものは、結局、自己正当化のための言い訳に利用されることになってしまうのではないだろうか。岡田斗司夫「俺くらいになれば見ないでもわかる」などと言っていたように。
 まあ、唐沢俊一と「「一日二冊、ミステリーの本を読むことを何十年続けてきた」みたいな人」のどちらが本当に時間を有効に使えているかは言うまでもないことだと思うけどね。っていうか、唐沢俊一が本当にやりたいことって一体何なんだ?
 

…なんというかなあ。何も好きになれない人間が何かに打ち込んでいる人間をバカにしているのを哀れむべきなんだろうなあ。もしかするとそれが手塚先生を執拗に批判している原因の一つなのかもね。唐沢俊一も今からでも遅くないから何か好きなことをひとつでも見つけたらいいと思うよ。

桃太郎侍 (山手樹一郎長編時代小説全集)

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複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

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博覧強記の仕事術

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