唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

場外乱闘はこれからだ。

ですよねー。


 今回から唐沢俊一『博覧強記の仕事術』(アスペクト)第2章「大人が勉強するにはどうしたらいいのか―好きなことを楽しく学ぶのが長続きのコツ」の検証に入る。


 まず、唐沢俊一は「受験勉強の方法論は人生に役立たない」と書いている。P.52〜53より。

 受験勉強のときは、名称さえ覚えておけば理解をしなくても大丈夫、というところがあった。いわゆる「暗記中心」である。それはそれで決して悪いことではない。
 しかし、受験勉強の方法論がなぜ人生に役立たないかというと、受験においては本質的な理解よりも、反射的に単語が出てくるとか、このカッコを埋める単語を選択するとか、といういわばパズルを完成させるような能力が必要とされる。その詳しい内容については知らなくてもいいし、それで充分なのである。
 けれど、実際の仕事や生活において、そういう知識というのは役に立たない。レベルの高い大学を卒業した人が、意外に仕事で無能なことがある、というのはそこに理由がある。学歴と能力が正比例しない、といわれる所以である。
 実生活において役立つ「本当の知識」、そしてそれを身につけるための勉強は、受験勉強のように「効率よく暗記して反射的に出るようにする」のとは違う。そんなことはそれこそパソコンに任せておけばいいのである。
 大事なことは「理解すること」であり、そのためにスピードが制限されることがあっても、いいのである。「きちんと理解された知識」というものは、量的に少ないものであっても、応用が利くので、無限大に活用できるのだから。

 『トリビアの泉―素晴らしきムダ知識―』のスーパーバイザーを務めたり、『史上最強のムダ知識』(廣済堂ペーパーバックス)という本を出していた唐沢俊一が「本当の知識」の大切さについて力説していることになんとも奇妙な気分にさせられる。『トンデモ一行知識の世界』(ちくま文庫)P.227より。

 へそまがりと思われるかもしれないが、こういう効率一辺倒の時代に、かつての粋人たちの、純粋に楽しみのためだけの知識、雑学にこだわってみたい、集めてみたい、と考えていた。

『博覧強記の仕事術』を読む限りではすっかり「効率一辺倒」になっているのだが、7年前にはこのようなことを書いていたのである。 
 それから、受験勉強の方法論(ついでに知識も)を否定しているのもよくわからない。受験勉強を経験する人はたくさんいるのだから、受験勉強で得た方法論や知識を活かす方向で考えたほうがいいように思う。また、「レベルの高い大学を卒業した人が、意外に仕事で無能なことがある」とあるが、「意外に〜なことがある」というのは、それがあくまで「例外的なケース」であることを意味しているのであって、実際のところ「学歴と能力はおおむね正比例する」ことを示しているのではないか。レベルの高い大学を卒業した人間がみんな仕事で無能だったら、教育のあり方を考え直さなきゃいけなくなるよ。…というか、受験勉強の方法論を否定したり、「レベルの高い大学」に文句をつけるあたり、低学歴の人間を喜ばせようとしているのか?と思ってしまう。唐沢俊一だって青山学院大学に入学しているんだから高学歴なのに、と地方国立大卒(非旧帝大系)の自分などは思うのだが。それに「パソコンに任せておけばいい」と考えているから、最近ますますネットに依存するようになっているのかと思ったり。

P.53〜54より。

 また、同じ理由から、既存の勉強法や情報整理術をなぞるのもお勧めできない。そういう本は、「ただ目標までの道筋が書いてあるだけ」で、それがあなたに当てはまるかどうかは、あなたにしかわからないのだ。
 その道筋は、書いた人間にとっては向いているやり方かもしれないが、すべての人間にそれが当てはまるかどうかはわからない。緩やかな坂道をだらだらと時間をかけて走って目的に到達するのが好きな人もいれば、急な坂でも気合で登り切るのが性に合っている、とにかく一直線で行きたい人もいれば、曲がりくねった景色を見ながら寄り道して行くのが好きな人もいる。しかし、極論すれば、人生におけるレースでは、どのルートをたどっても、目的地に到達できれば、どのルートを使ってもよいのだ。模範解答、というものはない。

 そう思っているんだったら『博覧強記の仕事術』という本なんて書かなければよかったのに。唐沢俊一にしか向いてないやり方でしかないんだから。

P.54より。

 受験勉強では、一年という期限があるので、何よりも効率が求められるが、大人の勉強は期限がない。あなたの好きな方法でやるのが、量的にも質的にも一番良いのである。

 どうして受験勉強の期限が「一年」なのか。受験の一年以上前から準備している学生はいくらでもいる。それから、社会人になっても仕事のために期限を定めて勉強をしなくてはならないことはよくあることだ。…「仕事術」を教える以前に社会人がどういう仕事をしているのかわかっていないのでは。


 次に、唐沢俊一は「情報に対する審美眼」を身につけるべきだと説いている。P.56より。

 その「審美眼」をどうやって身につけていくのか。
 結論から言ってしまえば、「自分の中に確固たる判断基準」を構築することができれば、情報の取捨選択は簡単にできるようになる。
 その判断基準は、別に世間一般でいわれるところの「正しい」内容でなくてまったくかまわない。むしろ、その判断基準の個性こそが、あなた自身の価値につながる。

 判断基準に個性があっても、それが世間一般の「正しさ」と比べて劣っているものであれば笑いものになって、自分の価値を落としていくだけである。ちょうど今の唐沢俊一のように。

同じくP.56より。

 私は時々テレビ局からコメントを求められるのだが、いつも「ネットで調べれば載っているのに、なぜ私に聞きにくるのだろう」と不思議に思っていた。しかし、関係者に聞いたところ、「欲しいのは生の知識でなく、ある人の解釈が欲しい」ということなのだそうだ。
 なるほど。それなら私のところにコメントを求める理由がわかる。かつて岡田斗司夫が『ぼくたちの洗脳社会』(朝日新聞社)で「情報の解釈が流通する時代が来る」と予言したことが、今まさに起こっているのだ。

 この場合、テレビ局が求めているのは「唐沢俊一のコメント」ではなく「自分たちにとって都合のいいコメント」なのではないだろうか。マスコミがコメントを求めるときには、あらかじめ「この人ならこういうことを言いそうだ」と決め打ちしている面もあるのであって、希望と合わないことを言った場合にはボツにされることもよくあるらしい。だから、無難なコメントよりも個性的なコメントの方がボツを喰らう確率は高いと言えるのかも知れない。まあ、相手の考えを察知して希望通りのコメントをするのも立派な仕事ではあるのだろうけど。

P.56〜57より。

 情報というのは、ひとつひとつは同じ価値を持っているが、「ある人が認めた情報」というのはそれだけで価値が付加される。ネットではいくらでも情報が集まるが、匿名の情報では価値が薄い。また、その情報を利用して問題が起こった場合の対処ができないので、情報を二次利用する側としては二の足を踏むのは当然だ。

 確かに唐沢俊一が認めた情報」というのはそれだけで負の価値が付加される。そして、唐沢はネット上の情報の二次利用には二の足を踏むくらいでちょうどいいと思う。アマチュアのブロガーから何の躊躇もなくパクるもんね。


 その後で、「好きなことを勉強するべき」という話になる。P.57〜58より。

 ビジネスにつながる勉強をしたい、と思っている人は多いだろうが、ビジネスのためだけの勉強、というのは意外にビジネスには役に立たないことが多い。いつの時代も、宝の山というのは、一見、宝とは関係のないところに埋まっているのだ。

として、「寺の息子だった三島海雲が発酵乳に興味を持ったことをきっかけにしてカルピスを創業」「医療器具の修理工だった山葉寅楠がオルガンを修理したことをきっかけにしてヤマハを創業」というエピソードを紹介しているのだが、これって「ビジネスのためだけの勉強がビジネスで役に立たない」ことの証明にはなっていないよね? 「役に立たない」方の例を示さないと。それに、三島海雲が寺の息子だということを書いているのに、「カルピス」という社名が「カルシウム」とサンスクリット語の「サルピス」を組み合わせたものであることを書いていないのは「雑学博士」としていかがなものか。

P.59より。

 自分が楽しいから学ぶ。そういう最も大事なことを忘れて、「情報をとにかく入れることが是なんだ」「完全にいいことなんだ」と思ってしまうと、いわゆる「情報乞食」になってしまう。そんな知識はいざというとき何の役にも立たない。先にも述べたように、今必要とされている、または使える知識というのは、「あるフィルターを通した知識」であり、何でもかんでも知識をただ入れる、というのは、「使える知識」にはなりがたいのである。

 「情報乞食」ってそんなに一般的な言葉なのだろうか。「ネット乞食」ならウィキペディアにも載っているけど。ただし意味は唐沢が書いていることとだいぶ違う。
 
同じくP.59より。

 変な話になって恐縮だが、あたかも私たちが本を読んだり映画を観たりして評論するように、いわゆる「女とやる」ということを評論する人がいる。これは、切り口が変わっていて話を聞くと非常に面白い。
 この元祖みたいな人は『日本全国女地図』の殿山泰司あたりだろうが、ちょっと前に一世を風靡したのが島本慶ことなめだるま親方の文体。

 シモネタに走ったことはともかく、「元祖みたいな人」ってなんだろう。それから、『日本全国女地図』ではなくて『日本女地図』。…まあ、要するにセックスも勉強の対象になるんだから、好きなことなら何でもテーマになるんだと言いたいらしい。そういえば「裏モノ日記」3月2日にはこんな記述が。

ラーメン屋でも劇団の人間の常の、妙に酔うと真面目な演劇論に
なってしまい、これではいかん、柔らかくせねば、と思って、
話の合間に
「セックスー!」
とかはさむ。
「だから、あそこの芝居は……セックスー!」
「セックスー! セックスー!」
……他にお客がいなかったとはいえ、よく追い出されなかった
ものである。

…中学生ならともかく50過ぎの人がこんなことやっているんだからなあ。20歳近く年下でオクテの自分から見ても唐沢が幼く見えるのが不思議。


 そして、確固たる判断基準を身につけるために「信用できるナビゲーターを見つけろ」という話が出てくる。P.62より。

 それで、そのナビゲーターが薦める本をどんどん読んでいくうちに、「全然自分の興味のない分野の本だけれど、読んでみるか」というところまできたらしめたもの。新しいことにどんどん興味が行き、あなたの守備範囲も広がることになる。
 信頼できるナビゲーターを持つ利点というのは、そこにある。「この人が面白い本だと言ったから面白いはずだ」という期待感を本来関心のなかったジャンルに対して持つことができ、躊躇なく飛び込んでいけるのだ。

 62ページ目にして初めて『博覧強記の仕事術』らしいことが書かれてある。今まで「好きなことだけ勉強しろ」とあるばかりで、興味を広げるためにはどうしたらいいかまるで書かれてなかったもんなあ。とはいえ、その後でヘンなことも書いてある。同じくP.62より。

 つまり、情報というのは、情報そのものが大事なのではない。その情報を「誰がどのように語るか」が大事なのである。

 いや、何よりも情報そのものが大事に決まっているだろう。ナビゲーターの薦める作品を追っていくうちに判断基準が定まっていくのだから、「情報の語り方」ではなく「情報の選び方」を学んでいるということになるはずなんだけど。まあ、唐沢俊一がパクったネタをことごとく劣化させていくのを見ていると「誰がどのように語るか」も重要だとは思うが。ついでにP.61〜62も。

 同じ本でも書評家によって評価は異なる。
 例えば私は、椎名誠さんたち、「本の雑誌」一派の書評とは相性がよくない。「本の雑誌」出現のときは、これこそ新しい時代の書評誌、と快哉を叫んだものだが、そこで取り上げられている本を読んで面白かったためしがないのだ。むしろ私はそれよりもちょっとスカした感じの書評、丸谷才一氏とか百目鬼恭三郎氏あたりが薦める本を読んだほうが面白かった。これはどちらが良くてどちらが悪いということではなく、単に相性の問題である。

 唐沢俊一百目鬼恭三郎を好きだったのは栗本薫を批判したりしていたからだったりする(詳しくは6月1日の記事を参照)。それに唐沢は過去に『本の雑誌』に寄稿しているし、『本の雑誌』で『社会派くんがゆく!』が取り上げられたこともあるんだけどなあ。自分の本も「面白かったためしがない」ということか。まあ、『本の雑誌』の1996年のベスト1が『空想科学読本』だから「と学会」的に褒めたらマズいのかもなあ…と思っていたら、おいおいおい!2006年の3位に山本弘会長の『アイの物語』が入っているじゃないか! …これでも「面白かったためしがない」の? 大丈夫か?「と学会」(『本の雑誌』ノンジャンル歴代年間ベストテン)。

場外乱闘はこれからだ (文春文庫 (334‐1))

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舐達磨(なめだるま)

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本の雑誌 313号

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空想科学読本〈1〉 (空想科学文庫)

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アイの物語 (角川文庫)

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博覧強記の仕事術

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