唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ピュア&ストレート。

 The Whoのナンバーに“Pure and Easy”というのもあったっけ。

 
 このようなブログをやっていると良くも悪くも注目を集めてしまうらしく、ネット上で当ブログについて言及されることもしばしばあるようだ。もちろん好意的なものだけでなく批判的なものもあるようなのだが、本当に物申したいのであればうちのブログにコメントするなりトラックバックを寄越すはずなので、とりあえずはスルーすることにしている。例外として、「検証に役立つ」「権威のある人・有名な人がコメントしている」場合などは反応するようにしている。天羽優子先生のケースもそれにあたる(詳しくは6月1日の記事を参照)。
 さて、はてなブックマークのコメントで次のようなものがあった。

kowyoshi と学会, イベント と学会に入りたいらしいが、多分入ったところで扱いは「鳥」で、最後は周りにキレてしまうだろうなあ、この人と思った。この人、人間性がかなり潔癖っぽいからんあ(原文ママ)。

 自分は「と学会に入ろうかな」と書いたのであって「入りたい」わけではないのだが、それは別にどうでもいい。まあ、俺を「鳥」にできるものならやってみてほしいものだけど。カリメロレベルにはなれると思うし。そういう意味では「と学会=バードウォッチャー論」って傲慢だな。自分が「鳥」になりっこないと思っているからこそ言える理屈だもの。しかし、一番気になるのは「潔癖」だ。はて、自分の何処が「潔癖」なのか。事細かく検証しているからって「潔癖」にはあたるまい(「偏執的」とは言えるかもしれない)。というか、そもそも「潔癖」な人間は検証には向いていない。何故なら「潔癖」な人間は自分の考えと反するものを極力目にしたがらないからだ。世の中に数ある論争を見てみると、相手の意見をまるで理解できないまま論争に臨んでいる人間がしばしば見受けられるのだが、そういう人は相手の意見を「理解したくない」だけでなく「目にしたくもない」のではないか。自分が本当に「潔癖」ならば、唐沢俊一の盗用だらけにして間違いだらけの文章など視界に入らないようにして済ませていることだろう(現に多くの賢明な方々はそのような姿勢をとっている)。「潔癖」な人間は「トンデモ本大賞」になんか出かけるわけがないのだ。むしろ自分ではなく「ネット時代は「情報を遮断する」ということが、みんなできなくなってるからね。どうせロクなこと言われていないとわかったら、最初からそんなもん、見ないほうがいいに決まってるの」とのたまう唐沢俊一こそが「潔癖」だろう。…もしかすると、唐沢の雑学が間違いだらけなのも、単に理解力が乏しいせいだけでなく、「興味の無いものは目にしたくない」という一種の「潔癖」さから来ているのかもしれない。それと、唐沢の盗用やガセを批判している人間が「潔癖」で、スルーしている人間がノーマルなのだとしたら、それは「汚れ」に対する基準がおかしくないか?と思うけれども。

 さて、ここからが本題。実は静岡理工大学の幸谷智紀先生ブログ唐沢俊一を批判する人間は「純粋まっすぐ君」だと言っているのだ。

 apjさんとこのblogエントリで,と学会がらみの悶着について運営側の唐沢俊一さんの意見に軍配を上げたら,案の定というか,アンチ唐沢な方々が集まってきてちょっとしたボヤみたいになっている。ワシはと学会の関係者でもないし,この悶着については全く知識がないのでどっちが正しいとか間違っているとかは分らないが,どうもアンチ唐沢な方々は潔癖なお人が多いようで,ワシみたいなゲスにはどーにもその言説が「純粋まっすぐ君」(by 小林よしりん)みたいで,生理的に受け付けないんだが,漫棚通信さんの件以来,訴求力のある町山智浩さんが煽ったこともあって,どーも唐沢俊一さんには風向きが悪いようですな。ま,仕方がないとはいえ,随分とまぁにくまれているモンだと感心させられる。憎まれるってのは大物の条件でもあるわけで,ひょっとしてアンチ唐沢な方々ってファンの裏返しなのかと勘ぐってしまいたくなる。

ご本人が認めた漫棚さんの件以外にも,パクリだ剽窃だと唐沢さんが言われ続けているのは,トンデモ事件コラムとかに参考文献(URL)を明示しない上,引用文を多用しないという書き方に起因しているように思われる。ネット時代なんだから,ネタ元として使っているところには仁義を切るべきだろうし,そうでないなら文献を最後に書いておくとかすればいいようなモンだが,それをしていないのは本人のスタイルなんだろう。実際,学者じゃあるまいし,いちいち文献なんぞ羅列していられるかいってんだ,と開き直っちゃった人もいるんだよね。代表的なところでは「なだ・いなだ」がそうで,ちくまプリマ−ブックス「こころの底に見えたもの」でも,フロイトの学説を紹介しながら文献については明示していない。同じシリーズでも金森修の方はちゃんと巻末に文献一覧があるのとは対照的。なだに言わせると,ろくに読んでもいない文献の羅列は学者が権威付けのためにするもんである,と。その割にはビジュアル著作権協会で人様の著作権の使い方には随分小うるさいのですねとイヤミの一つも言いたくなるが,あんまし唐沢さんみたいに声高な批判が聞こえてこないのは単に売れてないからなのか,それともアルコール依存に関してはオーソリティである医者という立場のおかげか?

 しかし,芸能プロを経営し,落語会のようなイベントを開くだけでなく,自らも出演してしまう唐沢さんは,かなり芸人的なノリに影響されているし,意図的に芸人的ライターとしての立ち位置を保っているように思われる。だとすれば,ネタの学術的発掘という金にならないことに精力を費やすよりは,ネタは楽に仕入れてうまく裁いて客に出した方が勝ち,という価値観を今も保っていることになる。パクリ批判に対してほぼ沈黙を守っているのは,「へっ,トウシロが外野でギャーギャー言ってても客は気にしねーよ」ということなのかも知れない。そしてその態度が何となく伝わってくると,神経過敏な方々や空気に乗って叩きたい輩が騒ぎ出すのだろう。してみれば,このアンチ唐沢な方々は,実は唐沢さんに載せられているということも・・・あるのかしらん? まー,あちらは結構な経験を積んできたプロデューサーだからなぁ。相当図々しく計算していたとしてもおかしくはない。そーゆー「古狸」みたいな存在には噛みついても取り込まれるだけ無駄であって,遠くで眺めているに限る,というのは,ワシが40年生きてきて学んだ経験則である。

 つーことで突き放す気はないのだ。だって唐沢俊一さんの著作は読んでて面白いところが多いから(最近は町山さんの方が勢いがあって面白いが)。もしあちらがヤクザな「芸人」なら,こちらはもっと無責任な「客」でしかない。少なくともワシという客は,面白いものには金は出すが,道徳を語るだけの社会運動家街宣車は無視して通り過ぎるようにしているのだ。もちろん「パクリだ!」というご批判はちゃんと受け取って,引用するときにはそっちを使うようにする。まぁ,ワシの商売柄,そうそう使う機会はないだろうけどね。
 してみれば,唐沢俊一という人は,アンチを取り入れることによってさらに使用価値を高めたということになる。無責任な第三者であるワシは,その成果(と悶着)を楽しませていただいて,誠にありがたいと日々感謝しているのである。

…大学の先生もいろいろだなあ、というのが正直な印象である。
 第一に、幸谷先生は唐沢俊一のP&G問題についてあまりにも知らなさすぎである。「この悶着については全く知識がない」と仰っているのは謙遜ではないのだなあ。だから、唐沢の盗用が『新・UFO入門』事件以外にも数多くあることも、唐沢が漫棚通信さんを誹謗中傷したこと(詳しくはまとめwikiを参照)もまったくご存知でないのだろう。当ブログ、まとめwiki、「トンデモない一行知識の世界」を一通り読めば、唐沢俊一の問題がおそろしく根深いものであることに気づいていただけるものと思う。
 第二に、「引用」と「参考文献」とでは話が違う。…まあ、唐沢俊一の問題についてご存知でないのは仕方がない。何せマイナーな問題なので。しかし、「引用」と「参考文献」の違いを理解していないのはとてもマズいことだ。幸谷先生も論文を書いたり読んだりするだろうに。他人の著作物から一部分をそのまま引くのと、他人の著作物を参考にして自分の意見を書くことは異なるものである。加えて「引用」については著作権法32条で規定されているが、「参考文献」については著作権法に規定はない。だから、幸谷先生が「唐沢俊一の盗用」と比較するために「なだいなだが参考文献を挙げないこと」を持ち出してるのは、そもそも論点がズレているのだ。「盗用しているのに批判されていない人間」でないと唐沢の比較対象にはならないのである。参考文献を挙げていない本は他にもたくさんあるのだから、なだいなだが批判されないことに何の不思議もない。幸谷先生が挙げておられる『こころの底に見えたもの』(ちくまプリマー新書)で、なだいなだはフロイトの学説をそのまま書き写しているわけではないのだし。なお、余談だが、なだいなだも『江戸狂歌』(岩波書店)では参考文献を挙げている。
 第三に、唐沢俊一という人は,アンチを取り入れることによってさらに使用価値を高めた」というのは大いに疑問である。それだったら、唐沢は自分が東大で直接質問したときにどうして慌てていたのだろう?(詳しくは2008年10月23日の記事を参照)…もしかするとあれも演技だったのかなあ?わざわざ慌てる演技をする意味がわからないけど。それ以前に唐沢は現在では芸能プロを経営していない。…それに、唐沢俊一は本当に『新・UFO入門』事件を利用できているのだろうか?。単純に考えても、現在の雑誌連載が『ラジオライフ』『フィギュア王』『パチスロ必勝ガイドNEO』の月刊誌3本で、TVも『世界一受けたい授業』(今週出演するよ)『BS熱中夜話』に不定期で出演しているくらいである。そして、『新・UFO入門』事件以降に出た単行本もヒットしたのかどうかわからない(本自体はどれもひどい出来である)。…これって「使用価値」が高まっていると言えるのかどうか。 「相当図々しく計算して」、こういう現状なのかなあ? 
 あと、町山智浩さんが唐沢俊一のことを取り上げ続けていることには、ちゃんと理由がある。詳しくは町山さんのブログを参照。

…で、「純粋まっすぐ君」である。これまたなつかしい言葉だなあ。当の小林よしのりだってもう使ってないんじゃ…と思っていたら、『おぼっちゃまくん』のパチンコ化を批判する人々を「純粋まっすぐ君」と呼んでいた。うーん。
 しかし、唐沢俊一を批判している人間が「純粋まっすぐ君」だったら何か問題でも?と思う。「純粋まっすぐ君」「潔癖なお人」「神経過敏な方々や空気に乗って叩きたい輩」「道徳を語るだけの社会運動家街宣車…、幸谷先生は唐沢を批判している人々がよっぽど気に食わないようだ。天羽先生のブログが炎上したのに怒ってしまったのだろうか。しかし、それよりも「唐沢俊一批判のどこが問題なのか?」を具体的に指摘していただきたいのですが。盗用やガセネタの多さを指摘することがどうして問題なのか、ぜひともお聞かせねがいたい。「純粋まっすぐ君」を批判したいのであれば、彼らの「純粋まっすぐ」な理屈がどうして間違いなのかを指摘すればいいのであって、「純粋まっすぐ君だ!」と指を差したところで何も意味はないのだ。「純粋まっすぐ君」が常に間違ったことを言うわけでもないだろう。「お前らは純粋まっすぐだ!神経過敏だ!」と相手を攻撃したところで「そういうお前こそ汚くて歪んでいる!鈍感だ!」と返されるだけである。つくづく不毛だ。小林よしのりも「パチンコ屋から北朝鮮に送金されている事実はない!」とごーまんかませば一発でケリがつくと思うんだけど。

 
 幸谷先生が大学の先生なので今回は取り上げたのだが、先生が仰っているのは結局のところ「唐沢俊一を批判している連中のことがなんだか気に食わない」程度のことにすぎないので、正直困ってしまった部分もある。不愉快な思いをさせてしまったのは申し訳ないが、唐沢を批判するしかるべき理由が存在することをちゃんとわかっていただきたいものだと思う。

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