唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

『機動戦士ガンダム ジ オリジン 画集 』の解説について。

天羽優子先生がキレてしまった

 さて、と学会はというと、同好会の延長上のような団体で、法人格を持っているという話はきいていません。権利能力無き社団と考えるとしても、どこまで法人に近いものかはかなり微妙です。と学会とメンバーの関係は、雇用関係に比べればずっとあいまいでゆるやかであやふやなものです。当たり前ですが。
 一方、メンバーには、普通の会社員も居ますし、文筆業で身を立てている方々も居ます。文筆業で身を立てるというのはその人個人の能力によるものであり、その活動の結果発生する責任はその人個人が直接社会に対して引き受けるというのが社会通念ってものでしょう。
 こういう状況で、メンバーの誰かが、メンバー以外の他の誰かから非難されるようなことをしたとして、他のメンバーに何らかのアクション(批判しろとか取り上げろといったもの)を期待するのはおかしいんじゃないですかね。

 別に唐沢俊一が盗用した責任をとれとは言うつもりはないし、先生が責任をとることなんてできないとは思うのだけど、そのことはいいとしよう。しかし、わからないのは、先生は最初は「と学会」を擁護する立場だったはずだし、だからこそわざわざブログでとりあげたのだと思うのだが、にもかかわらず、途中で「自分は関係ない」と態度を変えるのはいかがなものだろうか。先生が「だけど、きみが、一般入場者として来るとしたら、誰にも止めることはできない」という唐沢俊一の発言にだけこだわって文脈を無視する奇妙な文章の読み方をしていたのも、「と学会」を擁護するためだと思っていたのだが、もしかすると単に文章を読めていなかっただけなのだろうか。先生は他にもおかしなことを書いている。

 それでですね、普通に考えて、作者の行状が悪いとか態度が悪いということは、文芸作品の評価に影響するんでしょうか?仮に作者の生活が破綻してたり人格的に問題大ありだったりしても、作品に対する評価は別、というのが普通じゃないでしょうか。他に粗悪な作品を出していたとしても、別の作品への評価には影響しないのでは(直前の作品がアレだから買い控える、ということは起きるかもしれませんけど)。

 いや、まさに唐沢俊一の「著作」こそが問題になっているのだが。盗用やガセの多さは「作者の行状が悪いとか態度が悪い」という問題じゃないのだ。なんでここで「作家と作品は別」とかまるで関係のない話を持ち出してくるのかが謎。問題を理解しておられないのだろうか。
 とりあえず、天羽先生にはリアクションをとっていただいただけでも感謝している。とはいえ、途中でキレてしまうのはいただけない。山本会長も同じようなキレ方をするので「と学会の人ってみんなこうなの?」と正直ビックリしている。最後まで問題を引き受けられないのなら最初から取り上げなければよかったと思いますよ。


「裏モノ日記」5月23日より。

朝、8時起床。
連絡事項等メモ。
ドタバタの当人からメール。
感情的な部分でわけがわかんなくなっている部分と、
仕事の面でのやたら冷静な部分との取り合わせがスゴい。
しかし、ここまで冷静になれるなら、あんなこと(しかも
徹底した自分視点)書かなければいいのに。
人間、感情のほとばしりのブレーキはかけられない。
100%、あとでシマッタと思う方へ突っ走る。

バスの中で携帯で某MLを見る。今回の件は今からかなり前
の某人と某人の感情的対立が顕現化したものだが、めぐる因果と
いうか、江戸の仇を長崎でというか、ひきずればひきずるもの、と
私のような記憶力(執念)に乏しい者はひたすら感服するのみ。
感服はするが、そのとき相談されて間に立っただけで、今回のような
ソバヅエを食うというのは、なかなかの不条理体験である、と苦笑。

「某人と某人の感情的対立」というのは、山本弘会長と大内女史のことなのだろうが、でも、大内女史に「トンデモ本大賞の会場に来ないで欲しい」と頼んだのは「トラブルを持ち込みたくない」からじゃなかったのか?「感情的対立」にしてしまったら「大内女史がいる前で悪口は言いにくい」という話になってしまうと思うのだけど。あと、唐沢俊一はかなり執念深いような気が。本当に執念深くないなら過去にトラブルのあった人と仲直りしてみればいいのに。あと、これも。

ゲゲゲの女房』を担当した実業之日本社の担当S氏から手紙。
NHKのスタッフに『昭和ニッポン怪人伝』を読めと指示した、
とのこと。

たとえリップサービスだとしてもそれはやめておいた方がいい。『昭和ニッポン怪人伝』はトンデモ本である(水木しげるについては5月13日の記事を参照)。ついでに付け加えておくと、唐沢俊一の家のDVDデッキってタイマー録画の機能はついていないのか?(もしかすると機能はついていてもやり方がわからない?)…それじゃあ、深夜アニメを追いかけるのは無理だろうね。


・では、本題。
 唐沢俊一が『機動戦士ガンダム ジ オリジン 画集』(角川書店)の解説をすることは以前にも紹介した(詳しくは3月28日の記事を参照)。で、画集が先日発売されたので入手してみた。画集そのものはとても素晴らしいもので、自分のような『ガンダム』ファンでない人間でも「買ってよかった」と思えるものだった。ただ、描き下ろしがないので、その点に不満を持つ人もいるかもしれない。
 さて、唐沢俊一の解説なのだが、まずその前にプロフィールを読んで吹き出してしまった。

大学在学中から評論活動をはじめ、映画情報誌『ぴあ』でガンダム(ファースト)批判を展開して話題になったことも。ただし、その文章は富野由悠季氏に面白がられた。

ウソばっかり言ってるよ。
明らかに唐沢の自己申告だ。安彦良和角川書店の編集者も実際の「ガンダム論争」がどのようなものだったか知らないのだろう。ためしに「ガンダム論争」での唐沢の発言をいくつか抜き出してみよう。

今度映画化されるというあの『機動戦士ガンダム』。あれくらい日本のSFファンの気質を嫌らしく具象化した作品を僕は知りません。日本人の深刻癖はどうしても『スター・ウォーズ』程無邪気には騒げないんだよね。かといって『ヤマト』はあまりにオソマツでほめるのがためらわれる。まるでそういったファン層を狙ったかの如くアレは出来たね。ストーリーはハインラインの「宇宙の戦士」のエピゴーネン(しかも相当無理がある)。お定まりの美形キャラ。ハデハデしいメカの行列。SF用語の羅列。反吐をつきそうな気障ったらしいセリフ。小説版(これが所によってはフォーサイスの新作より売れてる)にはベッドシーンまで出てくるという、ミーハー向けサービスたっぷりの道具立て。これだけなら単に陳腐というだけで別にとりたてて騒ぐ程のものでもありませんが、それを「戦争とは?人類とは?」といったいかにもそれらしそうなテーマで飾って高級そうに見せかけているのが中・高生のSFファン達にああまで奉られている所以です(それとて、戦争否定みたいなポーズをとっている一方で、戦闘メカのかっこよさを誇示しているんだから衣の下から鎧が透けて見えてます)。

次に耐えられないのは、あのセリフです。無節操なまでに気取ったりニヤケたり悲愴ぶったり、ドサ回りで新劇を見てるような気分になるね、ああいうのをシャレていると、本気で思っているんでしょうか。これは少女マンガの、それも二流どころの感覚ですね。あのダースベーダーもどきの鉄カブトかぶってるキャラクターのセリフ回しなど、聞くだけで顔が赤らみます。よくまあ、ああ気障ったらしいセリフをイケしゃあしゃあと……あ、だからシャアってのか。

ガンダムに関すると、どうしても感情的になるのは悪い癖であります。それというのもあの田舎クサイ、野暮ったらしいセンスを臆面もなく、“どうだシャレてるだろう”とさらけ出す恥知らずさに我慢出来ないせいであります。でんでんの漫談じゃあるまいしね。洋画を気取ったあのキャラクターの名前を英語で列記して最後…andGUNDAMなどとトメてるポスターがありますが“アタシ、映画大好き少女デース”などとはしゃいでいる女子高校生のセンスですね。こッ恥ずかしくて見ちゃいられない。「ガンダム」が圧倒的支持を受けているのは(貶す我々の方がむしろ少数派でしょう)ひとえに、この下衆な少女マンガ感覚で作られてあるがためであります。やれんなァ。しつこいまでにぴあの紙面を駄文で汚すのは本意ではありませんが、こと「ガンダム」に関しては別です。いささか蟷螂の斧の感はあれど、あくまで悪口を言い続けるつもりなので、ファンの皆様、あしからず。

これは批判ではないだろう。ただのいちゃもんである。念のために書いておくと、『ぴあ』での「ガンダム論争」に参加していた他の投稿者はおおかたまともな人であったし、当ブログで「ガンダム論争」を取り上げた際には「唐沢俊一がレベルが低いのであって、当時のマニアがみんなああだと思われては困る」という反応が見られた。「オタク第一世代」のみなさんに迷惑をかけてどうする
 それから、唐沢俊一は富野監督に面白がられるどころか、逆に怒られている。唐沢が

マスコミに(というより富野氏に)踊らされているのは実のところあなた方のような人々なのですよ。あなた方が提燈持って騒ぎやすいように、易いようにと彼らは御膳立てしているのです。

と言ったところ、富野監督は

 最後に、“富野にお前ら踊らされている”という言い方に関してだけは、正直クレームをつけたい。そういう関係の中で作品を創るほど、僕は余裕がないんですよね。自分の事を吐き出すだけで精一杯なんで、どんな年端のいかない子ひとり捕まえてでも、踊らせる為に、こんなものやっているって気分はありませんね。確かに、一つの論法としては認めるけれど、やっぱりキツイですよね。

と反論しているのである。面白がってなんかいないではないか。いくらみっともないからって過去を捏造してはいけない。なお、「ガンダム論争」については当ブログの2008年11月18日の記事から全7回にわたってまとめているので参照して欲しい。

 さて、肝心の解説の内容だが、明治以来の商業アートの歴史から安彦良和を位置づけるというもので、いつもの唐沢の文章に比べるとまともな内容であるといっていい。さすがに気をつけて書いたのだろう。笑ってしまったのは、解説に「参考文献」として5冊もの本が挙げられていたことで、解説に「参考文献」ってつくのかなあ?と思ってしまった(角川書店が気をつけたのだろうか?)。まあ、文章を書くのならいつも5冊くらいは参考にして欲しいものだが。自分だって長めの検証をするときはそれくらい読んでいるよ。
 しかし、はっきり言ってしまえば、ガノタのみなさんは唐沢の解説をスルーしてかまわない。なぜなら、当の唐沢本人がこのようなことを書いているのだ。

 安彦良和という人物を、またガンダムアートを語る補助線として、ここはそろそろ、押さえておくべき時期であると思う。思いもかけずそのようなテーマで語るように安彦氏自らの指名を受け、これからしばらく、そこの事情を理解するための、ちょっとした講釈を述べてみたいと思う。自分はガンダムのことだけ知っていればいいのだ、というファンにはあるいは退屈かもしれないが、少しの間ガマンしておつきあい頂きたい。

 何でわざわざケンカを売るようなことを言うのかね。逆に言えば「ガノタに何を言われるのか」という恐怖心があるからこそ挑発してしまっているのかもしれないけれど。それに「安彦氏自らの指名を受け」云々って自分語りもやってるし。そうだね、安彦先生がどうして唐沢俊一をチョイスしたのか、本当に謎だよね。いずれにしても、唐沢の解説をほったらかしにしても全然問題はない。『空の境界』(講談社ノベルズ)の笠井潔の解説の次くらいに(さすがにあれは超えられない)本編と関係のない解説なので。

 では、唐沢の解説の問題点を指摘しておく。まずは全体的な指摘。くりかえしになるが、今回の解説はいつもの唐沢の文章に比べればまともである。参考文献が5冊もあるだけに、それなりに勉強をしたことがうかがえ、鏑木清方・鰭崎英朋の挿絵、高畠華宵美人画樺島勝一小松崎茂のメカのイラスト、絵物語手塚治虫のアニメ、それぞれの事実関係についてはそれほど間違いは無いように思われる。しかし、問題なのは、文章全体に「流れ」がないことで、それらの系譜がどのように安彦良和へとつながっていくのかよくわからないのである。たとえば、唐沢は「美人画」と「メカのイラスト」が結びついたのが現在のアニメのイラストだというのだが、どうしてそれらが結びついたのかについては説明がない。ただ単に昔の優れたクリエイターの名前を出していくだけでは歴史は見えてこないのではないか。安彦先生は『ユリイカ』2007年9月号のインタビューで、岡友彦石原豪人絵物語にショックを受けたと仰ってるんだけど、チェックしていなかったのだろうか?
 次に個別におかしなところを指摘していく。ひとつめ。鰭崎英朋の没年を1970年としているが、正しくは1968年

ふたつめ。

思えば、鏑木清方が本絵の方への方向転換を志したのは、この、大衆芸術の立ち位置のあやうさを予感してのことだったかもしれない。

 つまり、鏑木清方が挿絵から離れたのは、挿絵を描いていると不安定な評価しか得られないことを気にしたせいではないか、と言っているのだが、清方が挿絵から離れたのは単純にモチベーションの変化である(本人もそのような趣旨の発言を残している)。挿絵から離れたことで収入が減ってしまったというが、それでも新しいジャンルへと挑戦してみたかった、という芸術家らしい理由なのだ。それに清方は挿絵から画業を出発しただけに、挿絵には愛着があったようで、「本絵」をメインにするようになっても泉鏡花の小説の挿絵を手がけていたりする。

みっつめ。

手塚は後に、自分のマンガ作品の中に絵物語風な細密ペンタッチの絵をまぎれこませるというお遊びをやっているが、それはマンガ家にだって絵物語の絵くらい描ける、というコンプレックスのなせるわざだったように思う。

 手塚治虫虫プロ、そしてサンライズでアニメ製作を努めた経験のある安彦には、その機微が、ひょっとして御大の手塚以上によくわかっていたのかもしれない。

 ここでも手塚批判か。「ケンカを売る」「自分語り」といい、それをやらないと文章が書けないのか。理解できないのは、上の文章とは別に

あの手塚治虫絵物語を描いていたのである。

と書いていることで、それだったら手塚が絵物語風なタッチの絵を描いても別に不思議はないと思うのだが(山川惣治と絵物語の世界も参照)。

よっつめ。

小松崎がプラモデルの箱絵(ボックスアート)の神様と呼ばれたのは田宮模型の仕事を手がけたからであるが、この田宮製のプラモデルの特徴も、完璧なリアル性を指向せず、見映えを良くするためにはディフォルメもあえて辞さない方針をとっていたことで、マニアの間では“タミヤディフォルメ”という言葉さえささやかれたほどであったが、そこに小松崎茂田宮模型は大きな共通項を持つ(後略)。

 これは「最初に田宮模型の仕事を手がけた」としてほしい。唐沢も小松崎の代表作として挙げている『サンダーバード』シリーズは今井科学(イマイ)から出ていたのだから。…しかし、今回検証に当たって小松崎画伯の絵をたくさん見たのだが、本当に素晴らしかった。初心者だけどプラモ作りたくなってきた。

 細かい点だと、加藤直之が樺島勝一の直系である、と書いているが、加藤直之が一番影響を受けているのは武部本一郎(詳しくはたぬき新聞桃組@ SOL団を参照)。
 あと、『昭和ニッポン怪人伝』で頻出している誤植がこの解説にもある。

「芸術史上主義と決別し、挿絵は九千万の大衆のためにあるのだ」

とあるが、「芸術至上主義」だよね。…もはやこれは呪いだな。


…結論としては「もっと他にいい人はいなかったのか」ということである。角川書店もそれなりに気をつけていたようだし、唐沢俊一もそれなりに頑張ったようなのだが(いつも30点しか取れない子が50点取った感じ)、いかんせん限界というものがある。『ガンダム』は多くの人々に愛されている作品なのだから、人選にはもっと慎重になってほしい。唐沢俊一も『ガンダム』にからめば「ガンダム論争」のことを蒸し返されるのに、よく引き受けるなあ。今回のように参考文献を5冊読んでおけば大惨事は避けられると思うので、コラムを書く前には本を最低5冊は読むようにしよう。

機動戦士ガンダム ジ オリジン 画集

機動戦士ガンダム ジ オリジン 画集

空の境界 上 (講談社ノベルス)

空の境界 上 (講談社ノベルス)

空の境界 下 (講談社ノベルス)

空の境界 下 (講談社ノベルス)

挿絵画家英朋―鰭崎英朋伝

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こしかたの記 (中公文庫)

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オズマ隊長(1) (手塚治虫漫画全集)

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小松崎茂と昭和の絵師たち―プラモ・ボックスアートの世界

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