唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

濃い人のピンチヒッター。

「週刊昭和」の記事も誰かの代役だったのだろうか。


フィギュア王」№90掲載『唐沢俊一のトンデモクロペディア』第4回『ユリ・ゲラーとニッポン』より。

 思えばスプーン曲げとは、高度経済成長が行き詰まり、万国博覧会に象徴される科学と技術の21世紀の夢が壊れた、一九七四年という時代の象徴だったのかもしれない。
 スプーンは言うまでもなく、ヨーロッパにおいては富と愛情、恵まれた生活の象徴だ(“銀のスプーンを口にして生まれてきた”という慣用句がある)。思えば高度経済成長期の日本は、銀のスプーンを求めて闇雲に駆けずり回っている状態だったのだ。そのスプーンを、ゲラーは手を触れずにヒョイ、と曲げてしまった。物質主義一辺倒であった戦後の日本人たちの唯物史観を嘲笑うかのように。

 唐沢俊一The Who の“substitute”を聴いたことがないのかなあ。「僕はプラスティックのスプーンをくわえて生まれてきた」(I was born with a plastic spoon in my mouth)という歌詞があるのだ。『アルティメット・コレクション』の歌詞カードでは「ど貧乏の生まれだし」ってものすごい翻訳をされてるけど。つまり、「銀のスプーンを口にして生まれてきた」という言葉で「富と愛情、恵まれた生活」を意味しているのは「スプーン」じゃなくて「銀」の方なのだ。ウィキペディアも参照。

イギリスでは、洗礼式にスプーンを贈られる習慣があり、身分や貧富の差によって材質が異なっていた。このことから、裕福な家で生まれたことを表す「銀の匙をくわえて生まれてきた」という言い回しができた。

…しかし、上の文章でもっとすごいのは「物質主義」と「唯物史観」をゴッチャにしていることである。全然別物だって。goo辞書を引いてみよう。

ぶっしつ-しゅぎ 【物質主義】
物質・金銭の充足を第一として、精神面を軽視する考え方。

してき-ゆいぶつろん 【史的唯物論】
〔(ドイツ) historischer Materialismus〕マルクス主義歴史観。発展する歴史の原動力は人間の意識・観念にはなく、社会の物質的な生産にあり、生産過程における人間相互の諸関係は、生産力との関係で弁証法的に発展すると考える立場。この物質的な生産の諸条件が全社会経済構成を規定すると同時に、宗教・哲学・芸術などの精神構造をも究極的に決定するとされる。唯物史観。歴史的唯物論

一体どうしてスプーンを曲げたらマルクス主義歴史観を嘲笑うことになるのかと。そもそもスプーン曲げと物質主義も関係ないと思うけど。この論法で行けば、ユリ・ゲラーが止まっていた時計を動かしたのは、「時間に追われてあくせくしている戦後の日本人を嘲笑うかのよう」なものだったんだろうね。こういう無茶なこじつけはオカルトを助長するだけだと思うんだが。…どうしてこの人が「と学会」の運営委員をやっているのかよくわからないなあ。

 なお、この『ユリ・ゲラーとニッポン』では、小林秀雄の講演と安斎育郎教授の著書から引用がされているが、いつもと同じように出典が示されていない。引用されている部分をあわせると唐沢本人の文章とそんなに変わらない分量になるくらい長めの引用なのだから、出典を示さないのはライターとして誠実さに欠けるものと言わざるを得ない。そのような杜撰な態度をしていたのでは読者も「もう二度とだまされないぞ!」と思うのではないだろうか。

※追記 「銀のスプーンをくわえて生まれてくる」という言葉は「生まれながらに裕福であること」「よい家柄であること」を意味しているので、唐沢俊一が「銀のスプーンを求めて闇雲に駆けずり回っている」と書いているのは不適切。

※追記2 ユリ・ゲラーが手を触れずにスプーンを曲げているというのは誤り。下の動画を参照して欲しいが、めちゃくちゃこすっているw

アルティメイト・コレクション

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フーズ・ネクスト+7

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科学と非科学の間 (ちくま文庫)

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