唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

俊一もて王サーガ。

 現在、唐沢俊一は「東京新聞」朝刊の名物コラム『わが街わが友』に登場している。「有楽町」・「阿佐ヶ谷」・「歌舞伎町」・「神田神保町」・「参宮橋」・「六本木」と毎回唐沢と関わりの深い東京の街について書かれているのだが、2月25日朝刊に掲載された「神田神保町」の回で気になる記述があった。

 私が東京生活の中で、最も足しげく通った街というと、まぎれもなく神田神保町だろう。週末ごとの古書店通いは、ある意味、私の人生の一部であった。なにしろ、学生時代の初デートまで神保町という、筋金入りの古本マニアだったのだ。

 「週末ごと」というのは青山学院大学在学中のことも含むのだろうか。もしそうだとしたら、大学が休みのときに神保町に行っていたことになるわけで、「神保町に行くために青学に入った」という話の信憑性はさらに怪しくなってくる(詳しくは2月9日の記事を参照)。それに唐沢は大学にロクに行ってなかったことを常々公言しているのだから、平日は一体何をやっていたのかも気になる。やっぱり東京に行った最大の目的は古本ではなかったのではないだろうか?ちなみに、紀田順一郎氏は学生時代、週に2〜3回神保町まで通っていたらしい(紀田氏は慶応大学経済学部卒業)。まあ、紀田氏と唐沢を比べちゃいけないんだろうけど。
 あと、下世話な話になってしまうが、デートの相手とはどこで知り合ったのだろうか。大学に行ってなかったとしたら同級生ではないだろうし。…というか、この部分を読んで「あれ?」と思ってしまった。なぜなら、唐沢俊一は札幌時代に女の子と付き合っていたことを過去に何度か書いていたはずなのだ。それなのにどうして東京でのデートが「学生時代の初デート」になるんだろう。…というわけで、今回は唐沢俊一が札幌時代にいかに女の子にもてていたか、という話を紹介してみる。

 まずは『古本マニア雑学ノート』(ダイヤモンド社)P.123〜126より。

 まあ、あのころは、他人から見れば革新的なことをいろいろやっていたのかも知れないが、所詮は予備校生の片手間の遊びである。もう少し誰かがリーダーシップを取っていれば、まとまったものを活動の記録として残せたのだろうが、結局、コピーの会報を何部か出しただけで、いつの間にか空中分解してしまった。
 第一、若いから、男女問題なども多く起こる。札幌で当時有名だった同好会のいくつかが、女性問題でツブれた。オタク(などという言葉はまだなかったが)にはやはり異性問題は鬼門らしい。「S・S」の空中分解も、会長だった男がSFやアニメより男女問題の方に一生懸命になったためだった。

 この部分は興味深い。まず、唐沢俊一はサークルの中でリーダーシップを取っていなかったという。…じゃあ、なんで後年あんなに「『ヤマト』ブームは自分が起こした」と豪語したんだろう。次に、唐沢の所属していたサークルはそんなに大したことをしていなかったんじゃないか?という疑いが出てきた。他の『ヤマト』のファンサークルの中には会報を何冊も出しているところもあるようだ。…いや、だから、その程度の活動しかしてないのにどうして自分がブームを起こしたと思えたのかさっぱりわからないんだよなあ(当時の活動については2008年9月2日の記事を参照)。

 生意気に、僕にもつきあっている女性がいた。もちろん、同好会の仲間の子で、僕の古本の話が好きなので、個人的にもっと聞かせてほしい、と言われ、古書集めのレクチャーをしてやったのがつきあいのはじまりだった。
 彼女に、最近買った本の話をするのが楽しみのひとつになった。一緒に古書店回りをし、帰りにお酒なども飲み、などということをしているうち、話がこじれて、関係がおかしくなった。彼女が言うには、僕が他の女性にもやさしすぎる、と言う。本のこととか、SFのこととか、そういう話は私にだけ聞かせてほしい、と言い出した。また、手に入れたアニメの資料などでダブったものを、同好会のみんなに分けてあげるのも、まず、自分に最初に選ばせるべきだ、と、特別扱いを主張した。僕も確かに彼女に好意は持っていたが、まだその程度の段階でそこまで縛られるのはちょっとイヤだった。

…前にも注意したことがあるが(詳しくは2008年10月28日の記事を参照)、この当時の唐沢俊一はまだ未成年なんだから、酒を飲んだことを堂々と書かないように。しかし、自分は同好会とかに入ったことがないからわからないんだけど、どこもこんなにドロドロしてるんだろうか。まだ十代なのに。まあ、「僕が他の女性にもやさしすぎる」とさりげなくモテっぷりをアピールしているのはなかなかニクい。

 だが、彼女の目は真剣である。僕は、とにかく話をしよう、と言って、いつも予備校への通学に使っている地下鉄の駅で彼女と待ち合わせ、そこから近くの喫茶店に二人で歩き出した。
 朝から降っている冷たい雨がミゾレに変わり、傘をさしていたのを覚えている。場合が場合だから、二人とも無言のままで、うつむきながら歩いていた。その喫茶店へ行く道すがらに、小さな古書店がある。文庫とマンガ中心の店だったが、ふと見ると、ドアのところに、
「文庫本特価セール!」
という張り紙があった。僕の足は無意識に、その古書店に向かい、ドアをあけ、中の文庫本の台の上の本をあさっていた。時間にして三分くらい、まったく周りのことを考えず、本を物色していたと思う。フと気がつくと、彼女の姿は隣になかった。駅の方へと帰っていく、ピンク色の傘が見えた。
 あわてて、傘もさっきの店に残したまま追いかけて、いや、ちょっと、あれは、などと声をかけたと思う。
「知らない!」
 とだけ言い捨て、彼女は振り向きもせず、地下鉄の駅の階段に消えた。僕はそのままミゾレの中に取り残され…。
 で、そのあと、どうしたかというと、またさっきの古書店に戻って、文庫の棚をあさったのである。今でも、そのときに買った本は僕の本棚にある。コリン・ウィルソンの『賢者の石』(創元推理文庫)だ。なかなか面白い本だった。古書マニアというのは鬼畜みたいな人種だ、と僕はよく言う。鬼畜の僕が言うのだから、間違いはない。
 ただ、彼女もマニア心理を理解してくれていなかった。あのときに別れなくても、近いうちに破局は来ていただろう。逆に言えば、そのとき、僕と一緒に彼女が特価台の上をあさってくれていたら、別れたりはしなかったのではないか、と思うのである。

 「知らない!」はいいね。ラブコメみたいで。まあ、その状況で古本屋に入るか?とか店の中にいるのにどうして「ピンク色の傘」が見えたんだろう?とか細かい点が気になるが、とりあえずは突っ込まないでおく。「彼女もマニア心理を理解してくれていなかった」云々はジョークなのか本気なのかよくわからなくて困る


 次。岡田斗司夫『オタクの迷い道』(文春文庫)巻末に収録された対談での唐沢俊一の発言。
P.256〜258より。

唐沢 いやぁほんとにね、私、すごいオタクになれると思ってたんですよ。若いころには、まだオタクという言葉はなくて、アニメ好き、マンガ好きでしたけど、それこそ「教えて」状態の子たちに囲まれていた時期があって、「リボンの騎士」が好きなんだ、という女の子たちに、手塚治虫はだね、と教えたりして、もうモテてモテて。
 ところが、その状態が続くとふと不安になって、俺はこの現状に満足してしまうんじゃないか、ルサンチマンがなきゃいけないんじゃないか、と、突如として不安にかられてしまった。
岡田 「ルサンチマンがなきゃいけない」、俺にはない考え方だ(笑)。
唐沢 ルサンチマンは、先天的に持ち合わせている人と、後天的に作り上げるタイプの二種類がいて、僕自身はなまじ他人とコミュニケーションをとれる能力もあったし、女性ともつきあえただけに、逆になにか欠損を作らなきゃいけないみたいな思い込みがすごくありましたね。
 それで変な話ですけどね、一生にいっぺん、そのとき女断ちというものをしたんです。
岡田 アッハハハハハ、一生にいっぺん女断ち。

手塚治虫のおかげで女の子にもてたのだったら、少しは手塚に感謝したほうがいいと思うよ。先天的にルサンチマンを持ち合わせている人がいるのかどうかは疑問だが。「自分にはコンプレックスとかルサンチマンとかないんですよねー」とアピールする人ほど何かしら問題を抱えているような気もするけれど。

唐沢 そう、今にして思うとあのいちばんいい時期に、なんでそんなことを(笑)。女の子の家に誘われて「今日は泊まっていってね」って言われて「僕、今日は帰るから」。「いやーっ」って脚にすがりついた手を振りほどいて……。あのとき俺、偉かったねぇ。
岡田 そこまでして帰って観たものが案外つまんなかったりして、また伝説になる(笑)。
唐沢 泣くに泣けない。私、今でもその時帰って見た『マシーンブラスター』にはウラミがある(笑)。でも、ものを書こうとか世に出ようとか、オタクを続けていこうとか、そういう人生の選択時には、それなりの自覚がないとだめなんですよね。
 僕の自覚はたぶん、どうしようもないことだったけど女断ちをしたことだったと思います。そのよきに、真っ当な人生での成功や幸せよりオタクとしての満足を選んだという思いがあるし、岡田さんも、オタキングと名乗ろうとかね、そういった時点で、オタクというかたちを選んだんじゃないか。

 実は岡田斗司夫「『最強ロボダイオージャ』の初回を観るために彼女の家にあがりこんだ」という唐沢とよく似た体験談をかつて語っていたことがある。…「女の子よりマイナーなアニメの方をとった」話で笑いを取るのが「オタクアミーゴス」の芸風なんだろうか。それから気になるのは『ブロッカー軍団Ⅳマシーンブラスター』は1976年7月から1977年3月にかけて放送されたのだが、当時は男子校だった札幌光星高校に通っていた唐沢俊一どこで女の子と知り合ったのだろう。理屈が通るように考えれば、「高校在学中から校外で同好会に入っていた」「唐沢が観た『マシーンブラスター』は再放送だった」ということなんだろうけど。しかし、これって「そういう人生の選択時には、それなりの自覚がないとだめなんですよね」というほどの話なんだろうか。こう言っては失礼だが、案外しょうもない話でしかないような。なお、この『オタクの迷い道』での対談については他にも問題があるので後日あらためて取り上げるつもりでいる。


 さて、唐沢俊一がもてていたことについて、札幌時代の友人が「2ちゃんねる」で過去に証言しているので紹介してみよう。

18 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/10/27(金) 16:11

バイセクシャルだというのはホントなのでしょうか?


24 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/10/27(金) 22:24

>18さん。
札幌時代の彼、バイセクどころかもててたなあ。自他ともに認める中 だけで三人、おっかけだと五人以上女性がいた。東京に出てからは知らないけれど、女に飽きて男に走った、と言われても俺は信じる。


25 名前: >24 投稿日: 2000/10/27(金) 22:59

その話、おもろいので詳細プリーズ


27 名前: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 投稿日: 2000/10/28(土) 04:51

24です。
おもろいかどうかわからないけど、あのころの彼はまあ、ドンファン でしたよ。ただ、おっかけのひとりで、札幌在住の高名文学者の娘が いて、彼女がつきまとって、結局、唐沢氏を追って東京にまでついていってしまった。これを切るのに唐沢氏は相当苦労したみたいです。
彼女いま、4こままんがを描いているらしいが。

 だそうである。なお、この「正味な話、唐沢俊一ってどうなんですか 」というスレッド唐沢俊一本人が立てたものであり(詳しくは2月19日の記事を参照)、スレッドが立った翌日に唐沢俊一の札幌時代をよく知る人物が出現したことを偶然と見るかそうでないと見るかの判断はみなさんにおまかせする。ただ、唐沢俊一を東京まで追いかけてきたという「札幌在住の高名文学者の娘」について調べてもそれらしき人物は見つからないし、唐沢の札幌時代について語られているのはネット上ではこの発言くらいなのである。…もしも、書き込みをした人が当ブログをごらんになったのなら、ぜひともお知らせしてくださるようお願いしておく。唐沢俊一の札幌時代って、本人の自己申告以外に情報がなくて困っているんですよ。


 それから、『社会派くんがゆく!復活編』(アスペクト)のコラムでは「女と心中しようと一緒に大阪まで逃げたことがある」とも書いていたが、唐沢俊一が語った過去のモテモテ話について、当ブログとしてはその中身まで「本当かどうか」と細かく検証するつもりはない。「俺は昔女の子にもてていてね…」「こう見えても俺は昔悪かったんだよね」という話は適当に聞き流しておいたほうがいいと思うので。とはいえ、話のそこかしこに突っ込みを入れたくなってしまうのは、さすがは唐沢俊一というべきなんだろうか。

※追記 神保町の古本屋は日曜定休のところが多いので、唐沢俊一は土曜日に神保町に行っていたものと思われる。

太臓もて王サーガ 1 (1)

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