唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

その後の仁義なき唐沢俊一。

 唐沢俊一スレッド@2ちゃんねる一般書籍板の荒らしくんがわけのわからないことを言ってるので突っ込んでおく。

本当に嫌な人生ですねぇ〜w

これは2月14日の記事の前置きを揶揄したつもりなんだろうが、唐沢俊一や荒らしくんの人生の方が自分としては「嫌」なんだけど。しかし、本文をネタにせずに前置きだけをネタにするとは、本のまえがきやオビに書いてあることしか取り上げないどこかの朝日新聞書評委員(3月で任期切れ)かと。本当に良く似ている人たちだ。

kensyouhan君はどう考えてみても独身だと思うのだが、30歳過ぎて独身とは負け組じゃんw

え〜っ?「どう考えてみても」って単なる憶測じゃん。証拠を示してもらわないと話にならないなあ。それに「30歳過ぎて独身とは負け組」かぁ。「kensyouhanは少女漫画を読んでるからアキバ系オタク」に続くものすごい偏見。それにしても、荒らしくんは「30歳過ぎて独身とは負け組」と言うからには、きっと結婚しているんだろうけど、自分のやっていることを奥さんかダンナさんに堂々と話せる?子供にも話せる?自分は一緒に暮らしている女の子にこのブログやネットでの出来事をたまに話すけど(彼女は唐沢俊一のことを知らないのだが)、荒らしくんの話をしたら「その人ウケるね」と喜ばれたよ。どんな人でも誰かの役に立っているんだなあと思わずしみじみしてしまった。

でもさ、ブログを閉鎖・停止されちゃったらどこに責任を追及すればいいのさ?

ブログを閉鎖・停止すること自体が責任をとるってことなんじゃないの?まあ、具体的な問題が何もないのに「どう責任をとるんだ?」と聞かれても困るし、荒らしくんも何かあったら責任をとってスレを荒らすのをやめてほしいと思うけど。それから、

そんなジョジョキャラでイタリアンな僕ですが、よろしくお願いします

と、ポルナレフのAAを貼ってるけど(やはり自分でAAを作れないのか)、ポルナレフはフランス人だから。ミッシェル・ポルナレフって知らない?


 お遊びはこれくらいにして本題。唐沢俊一イッセー尾形の公演の前説でトラブルを起こし、それがきっかけでスタッフを辞めてしまったというのは2月18日の記事で書いた。実はその後唐沢とイッセーは何回か顔を合わせているのだが、その様子を書いた『裏モノ日記』がヘンなので紹介しておく。
まず1999年11月27日付けの日記より。

 私も一年ほど前、渋谷でイッセー尾形の一行に偶然会って、“いま何してんの”と言われたことがある。同じ出版社の文庫に並んで著作が入っているではないか、お前のより売れてるぞ、と怒鳴ってやろうかと思ったものである。

 いや、イッセーが質問したのは(一行と書いてあるから本人が質問したとは限らないが)悪気があってのことじゃないと思うんだが、どうして「怒鳴ってやろうか」などと思うのだろう。しかも相手は過去に世話になって迷惑をかけている人なのに。よっぽど失礼な聞き方をされたのかなあ。
次。2000年3月22日付けの日記より。

ふと見ると、近くの座敷にイッセー尾形一行が来ている。そう言えば今日明日、ジァンジァン最終公演だった。焼酎を一本、差し入れる。森田夫妻は“あら〜”と喜んでいたが、イッセーは何か複雑な表情で、目をあわせるのを避けている風だった。お互い、いろいろ感情の推移があったねえ。

 「感情の推移」って10年以上前に辞めたスタッフにしては自意識過剰だなあ。イッセーは公演の後で疲れていただけかもしれないし。なお、『裏モノ日記』の単行本でも2000年3月22日付けの日記は掲載されているのだが、イッセーと再会した件についてはカットされている。少し気になるのだが、唐沢俊一は過去にゴタゴタがあった人と再会して相手が気まずそうにしていると喜ぶ癖があるらしい。おぐりゆかと再会したときもそうだ。2008年4月18日付けの日記より。

オノが、ちょっと溜まっている仕事のことで、と
言うので、飲みは今日は遠慮して、早々に小屋を出る。
階下に降りたら、どこかで見た顔、と思ったらおぐりゆかだった。
よう! と手を上げて挨拶。向うはドギマギしていたようだった。
女優ならそこできちんと笑みを返さないといけない。

 しかし、自分が東大で質問したときは唐沢もドギマギしていたような気もするのだが。ライターならそこできちんと笑みを返さないといけない。おぐりゆかが気の毒なので意地悪を言ってみた。

 それ以外のイッセー尾形関連の記述を「裏モノ日記」からピックアップ。2005年5月2日付けの日記より。

紀伊國屋に向かい、楽屋に入る。二十数年前、大学に入って上京したその日に、アニドウ主催のアニメフェスティバルが行われていたこの紀伊國屋ホールに足を入れた。それからイッセー尾形の公演にはスタッフに無理矢理加わってチラシ蒔きの手伝いをした。

 えーと、イッセーが初めて紀伊國屋ホールで公演をしたのは1984年8月だから、スタッフになったのはその時のことか。ファンとして木戸御免になるだけじゃ満足できずにスタッフに加えてもらったのだろう。当時唐沢は東北薬科大学に行っていたはずだけど「無理矢理」と書いてあるあたり、現状に満足していなかったんだろうなあ。…というか、唐沢はイッセーの紀伊國屋ホールでの公演のパンフレットに文章を書いたって日記で書いているけど(東北新幹線の中でワープロを打ったというのもそのことだろう)スタッフとして加わったばかりだったら、寄稿したのではなくてパンフの編集をしたということなんだろうな。パンフに寄稿できるんだったら前説で「イッセー論をやってやる!」とあそこまで意気込まないような気もするし(「前説事件」については2月18日の記事を参照)。
2004年8月20日付けの日記より。

五回目の舞台、これだけ観ていてもダレないのだから大したものだ。それは、この芝居が、全員勝手なことをしでかしてばかりいる連中による徹底した大混乱の様子を描いたストーリィでありながら、芝居のベクトルが常に一方を向いて、寄席のプログラムの進行と共に、トリの圓志の登場へと進んでいく、シンプルな構造を持っているからだろう。やっている方も観ている方も安心していられるのである。客に安心感を徹底して与えない(もしくは不安定感を常に与え続ける)、というスタンスが、いわゆる70年代アングラの遺産でまだまだ食いつないでいる小劇場演劇の持つ臭みのひとつの原因で、もちろん、私も一時その臭みにどっぷりとハマりこみ、これがなくては演劇じゃない、などと思っていたものだが(イッセー尾形にもそう言いつのったことがあった)、時代のリアルな不安定感はもはや、小劇場の闇の中で演じられる不安などをはるかに追い越したシュールなものになってしまった。現実の縮小再生産に魅力はない。いま、劇場空間に求められているのは、うわの空の芝居のような、適度にファンキーな癒しの笑い、なのである。その安定感は、古くさいように見えて実はぐるっと回った先端なのではないか。そんな気がする。

 なるほど、だから、イッセーのスタッフをしていた時に

マスコミでどんどん売れっ子になっていったイッセーに、最近のあなたの芸は俗化している、もっとファンを突き放せ、先鋭化しろ、ファンに尽くすのではなくファンがあなたに尽くすのが正しい姿だ、と言い続けた。

と言ったわけだ(『裏モノ日記』2000年1月8日より)。どうも、メジャーな作品を良くないものと思い込む傾向が過去の唐沢俊一にはあったようだ。高橋留美子へのファンレター(この件については2月18日の記事のコメント欄で引用しているので気になる人はチェックしていただきたい)、「ガンダム論争」、『アジアンコミックパラダイス』でのアジア漫画への評価、などにそのような傾向が見て取れる。メジャーな作品をクサしマニアックな作品を持ち上げるというのは中二病」の典型的な症状なので、こじらせないうちに早めに治療していることを心より願う。50歳になっても治ってなかったらどんな名医でも無理なような。それにしても、ここまで絶賛していた「うわの空・藤志郎一座」とも今では…。イッセー尾形の時にも言えることだが、絶賛→喧嘩別れという展開はなんだか薬害エイズや「新しい歴史教科書をつくる会」の時の小林よしのりを彷彿とさせる。

※追記しました。

その後の仁義なき戦い [DVD]

その後の仁義なき戦い [DVD]

シェリーに口づけ~ベスト・オブ・ミッシェル・ポルナレフ

シェリーに口づけ~ベスト・オブ・ミッシェル・ポルナレフ

裏モノ日記

裏モノ日記