唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

屈折した星屑の栄光と挫折。

 今回は唐沢俊一イッセー尾形の舞台の前説をやって失敗してしまった、いわゆる「前説事件」について詳しく説明する。この話は検証を別にしても非常に興味深い話なので、紹介しておく意義はあるだろう。まず最初に唐沢俊一イッセー尾形のスタッフになった経緯について説明する。『裏モノ日記』2000年1月10日より(単行本P.40〜41)。

……私が東京に出てきた目的の一つが演劇を観ることであり、歌舞伎をはじめとして、あらゆる芝居に通いまくった。唐十郎を新宿のいまは高層ビルになってしまっている西口の広場で観、つかこうへいを高田馬場で観、東京乾電池を渋谷のヤマハビルで観、そのほかテアトル・エコーにも劇団雲にもシェイクスピア・シアターにも新宿コマ劇場にも通いまくり、果ては東郷健のホモ芝居まで観に行った。だが、演劇がこれほど好きにもかかわらず、そういった演劇人の持つ強烈なナルシシズムと、劇団人の持つ閉鎖性にどうしても共感を得ることが出来ない自分に疑問を感じていたことも確かだった。

 
 つかこうへいの舞台を観たのは高田馬場の東芸劇場(現在は閉鎖)だったものと思われる。これが当時の演劇青年としては標準的なスタンスだったかはわからないが(自分は当時幼稚園児だったので)、気になるのは演劇人の「強烈なナルシシズム」「閉鎖性」に疑問を感じているところ。もしかすると唐沢俊一はどこかの劇団に入ろうとしたことがあったんじゃないか?と思ってしまう。ただの観客として舞台を観に行っていたのなら、そういうことはあまり気にならないような気がするし、「演劇人」「劇団人」と直接話したときにいい対応をされなかったことを彼らの「ナルシシズム」「閉鎖性」によるものととらえたんじゃないか?と邪推してしまう。
続き。

 そんなとき、イッセーの舞台に出会ったのである。『お笑いスタ誕』で彼を知り、演劇人というよりはお笑い芸人として意識していたこともあるためか、彼の舞台には、他の演劇人がひとしなみに持っていた演劇臭さが感じられなかった。さらに、これはこちらの欲目だったろうが、彼自身がそういうところから脱しようとしてあのような芝居を行っているように私の目には映った。つまり、脱演劇的観点から、イッセーの舞台は観ることが可能だったのだ。若くて青い私にとって、これがいかに魅惑的に思えたか。この舞台に出会ったのは運命なのだと感じた。……これほど好きなのに私の感性を受け入れようとしない(と私が勝手にヒガんでいた)演劇という世界に対するアンビバレンツな感情が、イッセーにハマりこみ、これと同一化することで解決される。つまり、自分をイッセーの側に立たせれば、私を拒んでいた旧来の演劇全般を、それをタテに否定することが出来るのである!私はイッセーの舞台の感想を毎回、長文の手紙にして書き送った。それが演出の森田氏の目にとまり、ある日、
「ああ、あなたがカラサワさんか。いつもお手紙、楽しみに読んでます。あなたの分析がないと、公演が物足りないとイッセーが言うんだよ」
 と声をかけられたときの私の舞い上がりを想像せられよ。

 こうして唐沢俊一はイッセーのスタッフになったわけだが、少し異様な文章である。ただの観客として演劇を観ていたら「これほど好きなのに私の感性を受け入れようとしない」「私を拒んでいた旧来の演劇全般」などと考えるだろうか?やはり唐沢は役者かスタッフかいずれかの形でどこかの劇団に入ろうとしてたんじゃないか?
 唐沢俊一アニドウに入ったときに便箋で100枚以上もある長文の感想を送りつけていきなりメインスタッフにしてもらったことがあったので、イッセーの時も同じ手段を使ったということらしい。山田五郎20世紀少年白書』P.138より。

唐沢 (前略)これで味をしめて、後にイッセー尾形さんに心酔して「なんとかこの人の懐に飛び込みたい」って思ったときも、公演のたびに分厚い感想文を提出して。毎回そのぐらい書いてると、たまに提出しないと向こうから心配して連絡が来たりするわけですよ。これはもう、この手だなと(笑)。

…連絡が来たというのは凄いな。ついでにもう一度時間関係をまとめておくと、イッセー尾形『お笑いスター誕生』で8週勝ち抜いたのが1981年のこと。唐沢俊一は『裏モノ日記』でイッセーの舞台を渋谷ジアンジアンで初めて観たと書いているが、イッセーのジアンジアンでの公演が定着したのは1982年になってから。唐沢が「公演のたびに」と書いてあるところを見ると、スタッフになったのもそれ以降のことだと考えられる。
 
 それではイッセーのスタッフに加わった唐沢俊一はどうなったのかを見ていく。『裏モノ日記』2000年1月10日より(単行本P.41〜42)。

それから私は木戸御免になり、スタッフまがいのことなどもちょいちょいするようになった。紀伊國屋公演のパンフにも文章を書いた。“私の”イッセーは当時マスコミの寵児となり始めており、雑誌やテレビなどにどんどん取り上げられていった。イッセーと自分を同一化している者にとり、彼が認められることは私が認められることである。うれしくて仕方なかった……。だが、そのうち、それは不満に変わってくる。世間の馬鹿どもにイッセーの本当のよさがわかってたまるか!という不満が湧いてくるのである。森卓也はまだよかったが、永六輔あたりが“イッセーの舞台には庶民のペーソスがある”などと陳腐なコトバをあちこちに書き付けることに、私は我慢が出来なかった。すぐに森田事務所に電話して、
「あんな凡庸な批評をなぜ、パンフに載せるのか」
 と苦情を言った。森田さんの奥さんが私をなだめるためか、「まあ、ああいう人にはイッセーの本質なんか見えないのよ」と言ってくれた言葉に、私は満足した。いや、しすぎた。その言葉を拡大解釈し、“乃公こそイッセーの本質をつかんでいるのだ”と思い込んだのだ。

もうひとつおまけに『裏モノ日記』2000年1月8日より(単行本P.39)。

マスコミでどんどん売れっ子になっていったイッセーに、最近のあなたの芸は俗化している、もっとファンを突き放せ、先鋭化しろ、ファンに尽くすのではなくファンがあなたに尽くすのが正しい姿だ、と言い続けた。俺とファンのどちらを大事にするか、と迫っていたようなものである。

…読んでいてハラハラする。イタいというか痛い。当ブログで「ガンダム論争」を取り上げたときに「自分の若い頃を思い出してしまった」というコメントがいくつか寄せられたけど、これも同じだな。唐沢俊一本人がこの時期のことについては反省しているようだから突っ込まないでおくけど、それにしても…当時でも唐沢は25歳を過ぎていたわけだからなあ、うーん。
 
 そして、イッセーに過剰な思い入れをした結果、とうとう「前説事件」が起こってしまうのである。まずは『20世紀少年白書』P.139〜140より。

唐沢 (前略)イッセー尾形さんのところでスタッフとして迎えられ、ある程度弁が立つことも認められて、池袋のスタジオ50でやってた公演で内輪話やイッセー論を語ってみないかって大抜擢してもらったんです。それで勢い込んで、自分はイッセーをこんなに好きだというようなことを話してたら、お客さんとぶつかっちゃって……。
山田 一介の学生が、何の資格があってそこまで語るんだ、みたいな。
唐沢 そう。これはもう私、いまだにちょっとトラウマになってるんだけども。スタッフの人たちは慰めてくれたんですけど、なんやかやで気まずくもなり。なんていうんですかねえ、当時の僕は、ムチャクチャ自信家だったんですよ。俺は天才で、俺の言うことは誰もが認めてくれるだろうって思い込んでた。イッセー尾形さんのところでも「天才少年」ってあだ名でしたし。それがいきなり……。人間ってホントに不思議で、ひとつトラブルが起きると二度三度って重なっちゃって。(後略)

次に『トンデモ創世記』P.96〜98より(対談相手は志水一夫)。

唐沢● それで(引用者註 アニドウに嫌気がさして)、イッセー尾形一本に絞ったんですよ。イッセー尾形も僕の批評を見ないと怖くて舞台にかけられないって言ってくれてた。あるとき、池袋のスタジオ200というカルチャーセンターみたいなところがあって、イッセー尾形もしょちゅう公演をやっていた。ここは“カルチャー”じゃないと公演出来なかったのね。不思議なことに映画の上映だけとか、イッセー尾形の舞台だけじゃ“カルチャー”にならんと、そういう決まりがあったんですよ。最初に公演ではなくて“講”の講演を付けろと。
志水● レクチャーね。
唐沢● 最初は行動人類学の動作でマンウォッチングからボディランゲージを読みとるとか、そういう人を呼んできたのね。作家の村松友視さんも呼んだりして、当然お礼を出すわけだから金がかかるんです。みんなはとにかくイッセーだけを見たくて来るんだから、前座に金払うのはどうかなと。じゃ、スタッフでやってはどうかということになって、「唐沢君、君出て喋りなさい」ってね。はじめて人前に出て“喋る”っていう体験をしたんですよ。最初、あがっちゃってですね、今の僕からは信じられないくらい汗ダラダラでやって評判悪かった。よし、イッセーよりウケてやろうと思って、「イッセーの見方を教えてあげましょう」ってことで話したの。そしたらウケたんですよ。森田さんって演出の人から、「見違えちゃったね、どうしたの?」って聞かれたので、「ちょっと考えました」って言ったら、「次も唐沢君で行こう」みたいな成り行きになった。それで次回に「イッセーなんて見てる奴の気が知れませんなぁ」ってやったら、客が怒りだしちゃったんですね(笑)。
志水● (笑)
唐沢● 客とケンカしちゃって、居づらくなっちゃった。今だったら、そういうことはしないし、もちろん、演出の森田さんの気持ちもわかるしね。でも、そのとき森田さんは怒ったファンの味方をしたのね。「スタッフなんだから、俺の言ってることは正しいでしょ!」って言っても、「我々はファンあってのイッセーなんだからスタッフの味方をするわけにはいかん」って。それで僕怒っちゃって、辞めちゃったんですよ。
志水● うーん。

 志水一夫がリアクションできていないのが面白い。最後。『裏モノ日記』2000年1月10日より(単行本P.42)。

 私の絶頂は、当時ジアンジアンと並んでイッセーの二大定期公演だった池袋西武のスタジオ200での舞台に、前説として上がることになったときだろう。ついに、私の思うところを馬鹿な大衆の前に述べる時が来た。私の卓越したイッセー論の前に、いつもアンケートで平凡な感想などを書きつけている連中などは驚愕し、完全にひれ伏すことになるだろう。マスコミも大勢来ているから、ひょっとして私の論を雑誌に転載したいというところも出てくるかもしれない。いや、イッセーの公演自体よりも私の前説の方が話題になるかもしれないぞ……。妄想は際限なくふくらんだ。

 そして、その結果、私と観客は完全にぶつかった。何と観客たちは壇上の私に平伏するどころか、私に野次を飛ばし、引っ込めと叫んだ(ここの場面、細部に至るまで克明に記憶しているが、書き付けるだに全身の毛穴が開いて冷や汗が噴き出るので、このくらいの描写で止めておく)。私は落胆したが、だがそれもよし、と思った。先端にいる者が理解されないのはある意味で当然だ。イッセーさえ、いや、森田氏さえ、私の本意がわかってくれればいい……。

 だが、森田氏は私に冷淡だった。観客とケンカするなどもってのほか、彼らは金を払って来てくれているのだぞと、口にこそしなかったが、表情がそれを語っていた。私は裏切られたと思った。逆上した。イッセーは何も言わなかったが、言わないこともまた裏切りだった。逆上は長く続かない。私は落胆し、ドツボにはまり、世の中のすべてに対し自信がなくなり、すべてのことが空しく感じられた。そして、私は彼の舞台から遠ざかり、演劇青年であった自分の青春に、そこでピリオドを打った。     

 究極まで自我を肥大させた若者の悲劇、というべきだろうか。『裏モノ日記』では森田(雄三)氏は何も言っていないのに、『トンデモ創世記』では話したことになっているけれど。気になるのは『20世紀少年白書』の中の「イッセー尾形さんのところでも「天才少年」ってあだ名でしたし」という部分。・・・穿ち過ぎかもしれないけど、これって皮肉なんじゃないか?的外れの考えをする人のことを「天才」と呼んでからかうことはよくあるし、大学を出た(中退も含む)20代なかばの男を「少年」と呼ぶことは褒めてはいないのではないか?唐沢俊一は褒められてると思ってたのかなあ。大丈夫だろうか。そ…、いや、今回はあまりにも気の毒だからやめておく。

 唐沢俊一は「前説事件」について反省しているようだから、今回は突っ込みを入れることを控えた。しかしながら、唐沢俊一は本当に変わったのだろうか?とも思う。たとえば、当ブログの2008年12月16日の記事にこのようなコメントが寄せられている。

通りすがり2号 2008/12/19 11:03
うぉぉ! イッセー尾形公演の前説やったあのむかつく男が唐沢だったのですか!
私も怒鳴った観客の一人でした(笑)。「ここにいる誰よりも早く俺が最初に彼を認めた」みたいなことを延々しゃべり続け、うんざりした観客はいっせいにアンケートに記入し始めたのですが、私のすぐ後ろの女性が「いいかげんやめてくれませんか」と叫んだのがキッカケで、もう怒号の嵐でしたよ。
あのバカ、誰だろうとずーっと思っていたのがやっとわかりました、ありがとうございます。しかし、最低な男です。

…「ここにいる誰よりも早く俺が最初に彼を認めた」って、いや大多数の人は唐沢と同じく『お笑いスター誕生』でイッセーのことを知ったと思うけれど。そして、唐沢は去年12月14日の「朝日新聞」の書評でウディ・アレンについて先見の明を誇ろうとして失敗している(当時を知らない自分でも簡単にわかるウソだったので困ってしまった)。…本当に反省しているんだろうか。さらに『裏モノ日記』2000年1月10日より(単行本P.42〜43)。

 私の読者なら、このエピソードに、容易にあるもののアナロジーを見いだせるだろう。“イッセー”を“エヴァ”に、“演劇人”を“オタク”に……いや、そういう野暮はやめておこう。ただ、ある種似通った性向を持つ、ある世代の者にとり、イッセーのような、自分の全人格を投影できるような仕掛けを持ったアートは、危険極まりないものなのだ。自己(のアイデンティティ)を他のものに投影する場合、次の段階でその投影像を含めて、自己の内面にもう一度再取り込みする“アウフヘーベン”システムを用意しておくことがなにより重要なことで、ここをしっかり押さえておかない場合、往々にして投影された影の世界に行きっぱなしになり、帰ってこられないことになりかねないのである。私が生還できたのは単なる幸運に過ぎない。

 イッセー尾形エヴァンゲリオン。…唐沢以外にイッセーをそんな風に見ているファンがいるんだろうか。山藤章二もそんな風に見ているのかなあ。というか、東浩紀の文章がヘタだと何回も言っていた唐沢がアカデミズムまがいの文章を書いて懸命に当時の自分をフォローしているあたりに、いまだに「前説事件」を消化しきれていないのを感じる。「“アウフヘーベン”システム」ってなんだかトンデモっぽい。「アウフヘーベン」の意味が合ってるかどうか微妙だし。それに唐沢が『エヴァ』ファンを攻撃したのは、彼らを見るとイッセーにハマっていた自分を思い出してしまったからなのではないだろうか。「前説事件」当時の自分を納得できているのなら『エヴァ』ファンに対しても教え諭すこともできたはずなのに、唐沢は彼らと同じ土俵に立ってしまっていてまるで余裕が感じられないのだ。やっぱりまだ心の整理がついていないのだと思う。イッセーの思い出について書かれた『裏モノ日記』2000年1月8日と1月10日がネットで見ることができないこともその表れなのではないか。

…個人的な希望としては、唐沢俊一にはぜひとも「前説事件」を含めたイッセー尾形との思い出を文章にしてきちんとまとめてほしい。小説でもいいと思う。『裏モノ日記』の文章が感動的なのは唐沢俊一が珍しく率直に自分自身について語っているからである。しかし、それでも残念ながらまだ不十分である。「前説事件」のせいで仙台に行ったなどと、過去を取り繕うのではなく、もっと率直に語ってほしいと思う。つらい作業だとは思うが、それをやるだけの価値は十分あるはずである。

ジギー・スターダスト

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裏モノ日記

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トンデモ創世記 (扶桑社文庫)

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20世紀少年白書―山田五郎同世代対談集

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