唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ふたたび青学卒業問題を考える。

mailinglistさん(いつもご意見ありがとうございます)に応援されたので、もう一度唐沢俊一が青学を卒業しているかどうか、そして唐沢俊一の80年代前半の動向について考えてみる。なお、当ブログは唐沢の学歴詐称を糾弾したいわけではなく、単純に真相を突き止めたいだけなので誤解しないでほしい。邪馬台国が何処にあったのか?を考えるくらいのつもりでやってるので悪しからず。まあ、真相を突き止めた結果、唐沢俊一に何か影響があったとしても知ったことではないが。

まずは前回の記事を書いた以降にわかったことを追加しながら、現時点でわかっていることを年譜にしてみる。一応唐沢俊一が青学を卒業したものと仮定しておく。


1978年4月 唐沢俊一青山学院大学に入学
1980年4月 唐沢なをき多摩美大の付属の専門学校に入学(※1)
1980年〜81年 唐沢俊一、父親に実家の薬局を継ぐように言われ、薬科大学に進学することにする(※2)
1980年12月〜1981年7月 唐沢俊一、「ぴあ」の「ガンダム論争」に参加
1981年2月〜4月 唐沢俊一、阿佐ヶ谷の下宿から新宿区へ引っ越す(※3)
1981年〜 唐沢俊一イッセー尾形を『お笑いスター誕生』で知る。イッセーの舞台をたびたび観に行き、長文の感想を送りつけスタッフに加わる(※4)
(1982年3月 唐沢俊一青山学院大学文学部を卒業?)
(1982年4月 唐沢俊一、東北薬科大学に入学?)
1982年4月 唐沢俊一、仙台で『江戸の戯作絵本』(三)を読む(※5)
1982年 唐沢なをき、「少年サンデー」に何回か原稿を持ち込み、弘兼憲史のアシスタントになる(※6)
1982年6月23日 東北新幹線(大宮―盛岡)開業
1982年〜 唐沢俊一東北新幹線の車内でイッセー尾形のための原稿をワープロで執筆(※7)
1984年8月 イッセー尾形紀伊國屋ホールで上演。唐沢俊一もパンフレットに寄稿(※8)
1984年10月 唐沢俊一、東北薬科大3年次の時に休学(※9)
1985年 唐沢なをき、『無敵刑事』でデビュー。
1986年11月 唐沢俊一、池袋・スタジオ200で行われたイッセー尾形のライブの前説で観客とトラブルを起こす。それが原因でイッセーのスタッフをやめる(※10)
1988年 唐沢俊一、2年間薬局員の仕事をした後で、ライターになるため札幌の実家から上京(※11)


…まだまだ疑問点が多いが、なるべく筋が通るようにまとめてみた。以下詳しく説明していく。
 まず、唐沢俊一が父親から実家の薬局を継ぐように言われた件について。山田五郎20世紀少年白書』(世界文化社)P.139より。

唐沢 (前略)青学の方も留年もせず3年まで進んでいたんですけど、弟が漫画家になるから薬局は継がないと言い出して。だったらまだ進路の決まってない長男のお前が継げと、親父に言われて。

 まず、青学3年の時に父親に実家を継げと言われたのは事実だろう。ただし、唐沢なをきが漫画家になろうと決意をするのは専門学校を卒業するときのことなので、そこは矛盾している。おそらく、唐沢弟が専門学校に進学したことで実家を継ぐ可能性がなくなり、長男である唐沢俊一がやはり実家を継ぐべきだと、そういう話になったのではないだろうか。…なんで本人に「それ、事実と違ってるよ」って指摘しなきゃいけないんだろう
 興味深いのは、伊藤剛さんによると、唐沢俊一は「青学4年の時はあまり学校に行ってない」と言っていたとのことで、もしかすると薬科大学を受験するための勉強をしていたからあまり大学に行けなかったということなのかもしれない。まあ、最初から大学にはあまり行ってなかったのかも知れないが(大学によっては4年まで留年がないこともあるらしい)。
 もうひとつ気になるのは、何故東北薬科大学に進学したのかだ。都内にも薬科大学・薬学部はいくつかあるのにどうして仙台の大学に進んだんだろう。たとえば、星薬科大学は戸越銀座にあるし。東北薬科大学しか受からなかったんだろうか。

 なお、唐沢俊一『奇人怪人偏愛記』(楽工社)P.28には次のような記述がある。

上京して学生をしていた頃からしばらくの間、弟と一緒に阿佐ヶ谷に住んでいた。私も弟もここが気に入り、通算で五年以上も住み着いてしまった。

 この記述から、唐沢俊一は1983年まで東京にいたのではないか?という指摘が唐沢俊一スレッド@2ちゃんねる一般書籍板であった。しかし、「ぴあ」1981年5月8日号の読者投稿欄に掲載された唐沢俊一の住所は「東京都新宿区」となっていて、それ以降の投稿でも同じ住所である(2回目までは阿佐ヶ谷の下宿から投稿されている)。だから、上の発言をそのまま信用することはできない。「通算」というのは、唐沢兄弟合わせて5年、ということなんだろうか。

 次、『20世紀少年白書』P.139〜140より。

唐沢 (前略)また僕も、ちょうどその頃、人間関係で悩んでたりして。
山田 大学で?それともアニメや演劇の方で?
唐沢 後者ですね。イッセー尾形さんのところでスタッフとして迎えられ、ある程度弁が立つことも認められて、池袋のスタジオ50でやってた公演で内輪話やイッセー論を語ってみないかって大抜擢してもらったんです。それで勢い込んで、自分はイッセーをこんなに好きだというようなことを話してたら、お客さんとぶつかっちゃって……。
山田 一介の学生が、何の資格があってそこまで語るんだ、みたいな。
唐沢 そう。これはもう私、いまだにちょっとトラウマになってるんだけども。スタッフの人たちは慰めてくれたんですけど、なんやかやで気まずくもなり。なんていうんですかねえ、当時の僕は、ムチャクチャ自信家だったんですよ。俺は天才で、俺の言うことは誰もが認めてくれるだろうって思い込んでた。イッセー尾形さんのところでも「天才少年」ってあだ名でしたし。それがいきなり……。人間ってホントに不思議で、ひとつトラブルが起きると二度三度って重なっちゃって。それで意気消沈していたときに、親からそういう話がきたんで、仙台の方の薬科大に行くことにしたんです。

 この唐沢俊一の説明だと、イッセー尾形の舞台の前説で失敗して(以後「前説事件」と呼ぶ)、落胆して仙台へ行くことにしたかのように思えるが本当にそうなのか。なお、「スタジオ50」ではなく正しくは「スタジオ200」。だから、なんで本人の思い出話を訂正しなきゃならんのか。
 第一に唐沢俊一がいつイッセー尾形のことを知ったのかが問題になる。『裏モノ日記』2000年1月8日には次のようにある(単行本P.38〜39より)。

 当時二十歳の私は(引用者註 渋谷ジアンジアンの)この黒い壁に寄りかかって、イッセーの一人芝居を観て、大感動し、俺のつくべき人はこの人だと勝手に決め込み、スタッフにしてくれと毎回毎回、長文の手紙を書き、それが面白いと少しばかり認められて楽屋にお出入り自由の身になると、自分のみじめな境遇を訴え、俺の才能を認めろと迫り続け、結局思いばかりがカラ回りして、自分勝手に俺は見捨てられたと思い込んで悪態をつくだけついた末に、去っていった。

 いやあ、皮肉で無しに迫力のある文章だ。本当にトラウマなんだろうなあ。気の毒に。しかし、『裏モノ日記』2000年1月10日にはこのようにある(単行本P.41)。

 そんなとき、イッセーの舞台に出会ったのである。『お笑いスタ誕』で彼を知り、演劇人というよりはお笑い芸人として意識していたこともあるためか、彼の舞台には、他の演劇人がひとしなみに持っていた演劇臭さが感じられなかった。

 イッセー尾形が『お笑いスター誕生』で8週勝ち抜いて注目されたのは1981年のこと。だから、イッセーを知った時点で唐沢俊一はとっくに20歳を過ぎているのだ。「当時二十歳」というのは間違っている。それに、イッセーのジアンジアンでの公演が定着するのは1982年になってからである。唐沢もそのあたりで初めてイッセーの舞台を見たのではないか。加えて、唐沢俊一は同じ『裏モノ日記』2000年1月10日付けで、イッセーの紀伊國屋ホールでの公演のパンフレットにも文章を書いたことを記しているが、イッセーが紀伊國屋ホールで公演を行ったのは1984年8月である。したがって、「前説事件」が起ったのはそれ以降だと考えられる。なお、2ちゃん唐沢スレッドの書き込みより。

173 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2009/02/16(月) 10:47:37
手持ちの資料を調べてみた

イッセー尾形がスタジオ200で公演をやるのは1982年4月から(イッセー尾形の都市生活カタログ)

途中から対談や講演がつくようになるんだけど
1986年11月13日、14日の「イッセー尾形の追い風のため参考記録」に
講演=唐沢俊一フリーライター)「イッセー尾形について」
というのがある

これがイッセー尾形のスタジオ200での最後の公演なんだけど
前説事件ってこのときじゃないのかね?

これが本当なら1986年11月に「前説事件」が起こったことになるが…。
 第二に、唐沢俊一「日経ネット」の記事でこのようなことを言っている。

とはいえ、唐沢氏のパソコン・IT歴は長い。「最初に使ったのは1980年代の前半、入力したテキストを1行ずつ表示するタイプのワープロでした。当時としては、かなり高価なものだったと思います。ちょうど仙台の大学に通っていた頃、イッセー尾形さんのところの仕事をしていたのですが、東北新幹線の車内で原稿を書いていると、珍しかったのか、出張のビジネスマンで人だかりになってましたね」という。

 つまり、唐沢は仙台からイッセーの舞台の手伝いに行っていたわけだから、「前説事件」のせいで仙台行き、という『20世紀少年白書』の話は成り立たないはずである。どうして「前説事件」のせいにしたんだろう。仙台に行った本当の理由を言いたくないんだろうか。「自分のみじめな境遇を訴え」ってあたりがヒントかな。

 さて、年譜には唐沢俊一が東北薬科大学に入った時期が書かれていない。というのも、唐沢の文章を照らし合わせているとよくわからなくなってくるのだ。最初に『裏モノ日記』2003年9月8日より。

朝、寝床ですでに消えて久しい社会思想社現代教養文庫の『江戸の戯作絵本』(三)を読む。昨日、と学会例会で原田実氏が山東京伝黄表紙を紹介していたので、ひさしぶりに善魂悪魂の登場する『心学早染艸』を読みたくなり、引っぱり出してきたもの。思えば仙台で引きこもり同様の学生生活を送っていたとき、ちょうど新刊書店で発売されたばかりだったこの文庫をむさぼるように読んでいた。

 『江戸の戯作絵本』(三)が出たのは1982年4月なので、その時期には唐沢俊一は仙台にいたことになり、1982年4月に東北薬科大学に入学していたと考えられる。また、この記述は『20世紀少年白書』P.141にある

唐沢 で、ある日、東京の美大に通いながら弘兼憲史先生のアシスタントをしていた弟が、自分は会社組織の水に合わないから漫画家として生きるっていうような決意表明をしにきたんですよ。で、僕も「ここにいちゃダメになる」と思って、ちょうど札幌の方で処方箋にパソコンに打ち込むシステム作りを手伝ってほしいという話があったんで、しばらく札幌に帰ったんです。
山田 薬大は辞めちゃったんですか。
唐沢 中退は親が許してくれないから、ちょっと五月病というか鬱入っちゃったから休学させてほしいと。

という発言とも符合する。唐沢なをき弘兼憲史のアシスタントをしていたのは1982年のことなのである。さらに『20世紀少年白書』P.140〜141より。

唐沢 (前略)途中からは登校拒否っていうか、何もやる気なくなっちゃって、家に閉じこもって本ばかり読んでました。たまに外に出ても、食事するかパチンコ屋に行くか。安いビデオデッキを買って、一日中ビデオ見たり。ほとんど引きこもりですよね。それを1年間、続けてました。

ということは、一番早い場合には1983年には札幌に戻ったことになる(ただし、『薬局通』を読む限りでは薬科大学の授業に出ていたようではあるが)。しかし、唐沢俊一が1983年に札幌に帰ったとすると、「前説事件」がいつ起ったのかわからなくなってくるし、『奇人怪人偏愛記』の中の記述と矛盾してくる。

私がその家に住んでいたのは前記のとおり、小学校四年生から十九歳の予備校生の頃までの十年間と、その後一時東京をしくじって実家に戻っていた二年間の、約十二年間である。モノカキを志して東京に出ることを目指したのが十三歳の中学一年のことだから、それから十九までの七年間と実家に戻っていた二年間の計九年間、ずっと私はその家を、「いつかはオン出てやる家」「ここを脱出しないと自分はダメになる家」「オレをこんな田舎に縛りつけている家」と認識し続けていた。(P.21)

以前からつきあいのあった出版社に行って、なにか仕事をくれるように頼んだ。一九八八年頃のことである。幸い、出版社はまだバブル末期の景気のよさを残しており、すぐに週刊誌連載の仕事がとれて、再び元の惰弱なモノカキ生活に戻れたのは幸運であった。(P.45)

つまり、札幌の実家に戻っていたのは1986年から1988年までの2年間ということになる。しかし、1986年に札幌に戻っていたとすると、1982年4月に仙台にいたのはなんだったのか、ということになる。…どうにも説明がつかないので、いくつか可能性を考えてみた。


(A)1982年4月 東北薬科大学入学→1984年8月以降「前説事件」→1986年 休学
(B)1983年4月 東北薬科大学入学→「前説事件」→休学
(C)1984年4月 東北薬科大学入学→「前説事件」→休学

 (A)の場合は『江戸の戯作絵本』の件が上手く説明できるが、その代わり86年に札幌に帰ったというのがやや不自然になる。(B)(C)の場合は86年に帰ったという説明が通りやすくなるが、その代わり『江戸の戯作絵本』の件が説明できなくなり、また、順調にいけば82年3月に青学を卒業しているはずの唐沢俊一が薬科大学に入るまで何をしていたのか説明がしづらくなる。(A)をフォローするなら、本当は札幌の実家に戻っていたのは2年より長い期間だったのではないか?ということが考えられ、(B)(C)をフォローするなら、『江戸の戯作絵本』の件は唐沢の記憶違いであった(ガセビアの多さを考えれば有り得る話ではある)、青学を4年で卒業できずに留年していた、薬科大学を受験するために東京で勉強していた、という理屈を立てることが考えられる。…まあ、今のところはこれが精一杯である。新たな情報が見つかればあらためて考えたい。
※追記 『AERA』1998年9月21日号に「結局、大学は三年の前半までしか通わなかった」という記述があった。


 さて、一番肝心な唐沢俊一が青学を卒業したかどうかだが、伊藤剛さんから貴重な情報を教えていただいた。

もう古い話なので、私の側の記憶違いが混じっている可能性もありますが、私が唐沢氏自身から聞いた話では「青学の四年生(? 入学してから四年目ではなく、卒業の年という意味)のころは学校にあまり行っておらず、卒業式にも出ていないため、卒業証書はもらっていない。卒業論文は提出したのだが、受理されているかどうか分からないので、後に学校に問い合わせたら、ちゃんと卒業していると分かった」というようなことだったと記憶しています。

というわけで、唐沢俊一は自分が青学を卒業したかどうかよくわかっていないらしい。…しかし、学校に問い合わせないと自分が卒業したかどうかわからないということがあるんだろうか?前にも書いたけど、そもそも唐沢俊一が1年のときから青学にちゃんと通っていたかどうか疑問だよ。本人は青学での体験談をほとんど書いていないうえに「ちゃんと行ってなかった」って話ばかりしているもんなあ。「大学関係者」さんのコメントも参考に。

もちろん大学によって多少システムが違うことはありますが、一般的に言って「卒業したかどうか分からない」という事態は、よほどのことがない限り生じませんね。まず、たとえ4年生の後半に大学に顔を出していなくとも、卒業時にはいくつかの事務手続きが必要です。もちろん、これを無視することも可能なのですが、一般的には電話等での連絡も行きますし、卒業証書他の書類は、必ず学生に送付されます(宛先不明で帰ってきたら実家に送ります)。

なお、証書は本人に取りに来るよう大学から通知があるとのこと。いずれにしても、唐沢俊一の話は疑問なので、卒業したかどうか正直なところを言ってほしいものである。卒業してようと中退してようとどっちでもいいけど、ハッキリしていないのはよくないよ

…それにしても、自分以外にも唐沢俊一の学歴を気にしている人がいるらしい。

通りすがり 2009/02/15 21:02
>伊藤君
こんなところで意趣返しとはご苦労様です。
いつまでも過去をひきずっているから
出世しないのだといい加減に気づきなさい。
まぁ、アタマはいいかもしれんが、
そういう賢さはないので無理だろうけど。

…あのー、いっそのこと本名でコメントしていただけませんか?2ちゃん唐沢スレのみなさんを喜ばせたいんでしょうか?伊藤さんを「伊藤君」と呼んでいる、「アタマ」「しれん」という特徴のある言葉遣いからして…(サイト内を検索して思わず噴き出しちゃった)。あと、文章が読めていないのも特徴的ですね。伊藤さんのコメントって「意趣返し」どころか唐沢俊一をフォローしてると思うんですけど。

唐沢氏本人にも「自分が青学中退か卒業か判然としていない」という事態は可能性として考慮に入れておく必要はあると思います。意識的に事実を隠して嘘の経歴を書いているのではない(事実が卒業でも中退でも)ということです。

ほらね?唐沢俊一は本当に卒業したかどうかわかっていないだけかもしれない、って書いているんですから。伊藤さんが「意趣返し」をするつもりなら実は簡単なんですよ。「唐沢は青学を卒業していないぞ!」って言えばおっちょこちょいのkensyouhanはだまされて、そのまま記事にしちゃったでしょうから。でも、伊藤さんはそういうことをやらずに、きわめてフェアーな態度を取っておられる。付け加えると、冬コミで自分が伊藤さんとお話した際にも、伊藤さんは唐沢俊一を批判することなく逆にフォローさえしてましたよ。通りすがりさんにもそれをよくわかってほしいところです。あ、それから最後に一言言わせてください。
 
 通りすがりさん、住所も近いし、一度会ってじっくりと話しませんか。

※追記 冒頭の年譜の出典。
※1=「マイコミジャーナル」2008年8月6日掲載の唐沢なをきのインタビューより
※2=『20世紀少年白書』P.139
※3=「ぴあ」1981年5月8日号の唐沢俊一の投稿より
※4=『裏モノ日記』2000年1月8日(単行本P.38〜39)
※5=『裏モノ日記』2003年9月8日
※6=前出「マイコミジャーナル」の唐沢なをきのインタビューより
※7=「日経ネット」『特集×〜快適仕事術〜スキャナー活用編』の唐沢俊一のインタビューより
※8=『裏モノ日記』2000年1月10日(単行本P.41)
※9=『AERA』1998年9月21日号
※10=中野翠『迷走熱』P.227〜229
※11=『奇人怪人偏愛記』P.21、P.45
なお、公式プロフィール、もしくは巷間広く知れ渡っていると思われる事柄については、特に出典を記す必要がないと判断して省略した。

※この記事を書いた後に事実がいくつか判明したので年譜を一部修正しました。

20世紀少年白書―山田五郎同世代対談集

20世紀少年白書―山田五郎同世代対談集

裏モノ日記

裏モノ日記

奇人怪人偏愛記

奇人怪人偏愛記